デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年6月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
       1  2  3  4
 5  6  7  8  9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

 
【今月のディボーション】 【ホームページへ】



 
 
2006年6月1日(木) 聖書の箇所:第2コリント9章1〜15節/ 年間通読:列王上3〜6章
「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」。(6節)
  これは、施しや献金においても、また福音の種まきである伝道においても、あてはまることである。私たちが恵まれないのは、献げることを怠っているからである。その中でも最も大切なことは、献身して、神に受け入れられることなのである。
神に受けいれられた時、神のもとから、火が出て焼き尽くされるのである。
私たちの内側の罪やけがれがまったく焼き尽くされて聖なるものとされるのである。
“主よ、まずあなたに、自らを献げ、多くの人に福音を宣べ伝えさせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月2日(金) 聖書の箇所:第2コリント10章1〜18節/ 年間通読:列王上7〜8章
「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである」。(4節)
  戦いの武器についてはエペソ6章に記されている。
真理の帯、正義の胸当、平和の福音の備え、信仰のたて、救いのかぶと、御霊の剣(神の言葉)そして祈りである。
ここで武器は、信仰の祈りであり、御言葉をしっかりと握り、聖霊に満たされることである。どんなに頑丈な悪魔の要塞もひとたまりもなく、打ち破ってしまうのである。エリコの城の城壁が崩れたごとくである。
“主よ、神の武具で身を固めさせてくださいください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月3日(土) 聖書の箇所:第2コリント11章1〜33節/ 年間通読:列王上9〜11章
「もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。」(30節)
  弱さを誇るとは自分にはなんの誇ることもなく、それを徹底して認めて神のみ前に出ることなのである。神のみ前に自分の真の姿を知らされて、砕かれてへりくだることである。
恵みを得る秘訣、力を得る秘訣がここにある。弱さを知って、絶望するのでなく、徹底して、神ご自身に希望をおくのである。水が谷に集まる如く、神の恵みもそうなのである。
これが神に恵まれる最大の秘訣である。
“主よ、弱さに徹しさせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月4日(主日) 聖書の箇所:第2コリント12章1〜21節/ 年間通読:列王上12〜14章
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 (9節)
  私自身は徹底して、弱くなり、キリストがすべてであり、キリストものになり切る時、力に満たされるのである。
このことは自分の力では、到底不可能である。否、でき得ないのである。キリストともに死に、共に生きることのみによって、私たちのうちに実現するのである。
“主よ、主にあって、弱さを誇るものとしてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月5日(月) 聖書の箇所:第2コリント13章1〜13節/ 年間通読:列王上15〜17章
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」(13節)
  手紙の最後にあるのは祝福の祈りである。パウロはこの章でも、教会の中で厳しい処置をしないですむように(10節他)と祈り願っている。
コリントの教会は至らないところのある教会であったが、パウロはいつも相手の神様にある祝福を祈っていた。相手のために祝福を祈ることは、あがなわれた者の特権であり、恵みである。また父・子・御霊の三位一体の神の祝福は、キリストのからだである教会に真に必要なものである。教会・隣人・世界の祝福を祈ろう。
“主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あの人と共にあるように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月6日(火) 聖書の箇所:ガラテヤ1章1〜23節/ 年間通読:列王上18〜19章
「御子をわたしの内に啓示して下さった」(16節)
  ガラテヤ人への手紙は、十字架のキリストを描き出す書である。パウロは、キリストの福音からそれかけているガラテヤの諸教会にこの手紙を書いている。
パウロは、ダマスコ途上で神から御子の啓示を受けた(使徒9章)。そして神の教会の迫害者から、宣教者へと全く変えられてしまった。
しかしこのキリストは、私たちが主を救い主として受け入れたときから、私たちの内にいて下さるお方である。だから私たちは、福音からそれることのないように、また神の恵みを知り、主をほめたたえるために、主の啓示をもっと求めるべきである。
“主よ、十字架の主を示して下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月7日(水) 聖書の箇所:ガラテヤ2章1〜21節/ 年間通読:列王上20〜21章
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(20節)
  パウロは神の啓示を受ける前は、徹底的に旧約の律法と行いに生きる人であった。しかし心の動機にも問いかける律法(出エジプト20:17など)を前にして、律法の前では罪と死に定められるほかないと自覚したのであった。
「キリストがわたしのうちに生きておられる。」とは、自らが「キリスト共に十字架につけられ」た所に起こることである。自己とキリストが同時に生きることはできない。古い自分の死によって、キリストが内に生きて下さるのである。
“主よ。主の十字架に私もつけられました。主が私の内に生きて下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月8日(木) 聖書の箇所:ガラテヤ3章1〜29節/ 年間通読:列王上22、列王下1章
「それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」(14節)
  私たちに「十字架につけられたイエス・キリストが、」「目の前に描き出された」(1節)ことはどういうことであろうか。
それは、聖書に書いてあるとおり(8節)、律法によらず約束によって祝福を受けることである。また信仰によって、約束の御霊を受けていることである(14,2節)。
だから私たちの信仰の生活も、すばらしい行いや働きや奉仕によるのでなく、祝福の約束と御霊によるのである。
“神様。主の十字架を覚え、御霊によって歩ませて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月9日(金) 聖書の箇所:ガラテヤ4章1〜31節/ 年間通読:列王下2〜3章
「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」(19節)
  私たちが神の子とされたことは、いつでも「アバ、父よ。」と信頼して甘えることのゆるされる関係に変えられたことである。
神様はありのままの私たちを受けとめて下さっている。それなのに様々な障害物を置く必要があるだろうか。占いや習慣による日やその他の善し悪しも人が作り、人を縛っているものである。
諸霊に優る創造主に向きを変え、解き放たれよう。内にキリストが生き、また人をキリストにあって生かす者へ変えられていこう。
“主よ。キリストの形を産み出す恵みを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月10日(土) 聖書の箇所:ガラテヤ5章1〜26節/ 年間通読:列王下4〜5章
「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(24節)
  キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に、十字架につけてしまったのである。だから肉の働きは、十字架に死んでいるのである。ハレルヤ!代わりにキリストの御霊が内に生き、働き、御霊の実を結ばせて下さる。
かつて割礼は、体に傷を付けて、約束のしるしとしていたが、その時にも「あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。」(申命記10:16)と記されている。私たちは十字架によって御霊に生きる者と変えられている。
“父よ。御霊によって生き、御霊の実を結べることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月11日(主日) 聖書の箇所:ガラテヤ6章1〜18節/ 年間通読:列王下6〜8章
「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(14節)
  イエス・キリストの十字架は私とこの世との間に立っているのである。この世は私に対して、キリストの十字架につけられているので、何の力もない。また私はこの世に対して、十字架につけられているので、何の影響も受けないのである。
これは私たちがこの世と断絶し隔離された生活を送ることではない。この世は隣にある、存在している。この世の誘惑や試みもある。
だが確かに私とこの世の間を隔てる主の十字架が立っているのである。
“主よ。私だけでなく、この世も主の十字架によって死んでいることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月12日(月) 聖書の箇所:エペソ1章1〜23節/ 年間通読:列王下9、10章
「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。」(22節)
  エペソ書はピリピ、コロサイ、ピレモンと共に獄中書簡と呼ばれ、ローマの獄中にて、パウロが、61年ごろ書いたと言われている。1章の初めの部分では、私たちが神の子および民とされることが“あらかじめ定められた”(5、9、11節)とある。
次に知恵と啓示の霊が与えられて、神をよく知り、心の目が明らかにされ、望みと神の国と信仰のすばらしさを知るようにと祈っている。そして教会のかしらとして与えられたキリストは万物の支配者であるというのである。
“主よ、あなたの偉大さを悟らせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月13日(火) 聖書の箇所:エペソ2章1〜22節/ 年間通読:列王下11〜14章
「そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである」。(22節)
  罪過と罪とによって、死んでいて、この世で希望もなく、神もなかったものが、神のすまいとされるとは、なんという恵みであろうか。この恵みは神の愛によるのであり、主なるキリストによるのである。
また、“共に建てられ”とは、各々がキリストを中心として、ある人は柱に、もう一人は壁というように別々のために用いられて、しかし、共に建てられて、一つの神のすまい、神の宮となるということである。なんともったいないことであり、光栄であろうか。
“主よ、あなたの計り知ることのできない恵み御愛とを心から感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月14日(水) 聖書の箇所:エペソ3章1〜21節/ 年間通読:列王下15〜17章
「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」。(19節)
  キリストの愛について“人知をはるかに超えた”とある。この愛は人間の経験や探求では決して達し得られないで、知恵と啓示との霊(エペソ1:17)である聖霊によって、私たちに示され、体験されるところのものである。
そして、神に満ちているものとは、愛であり、聖であり、憐れみであり、義であり、真実である。また、命であり、全能の力であり、さらに創造性、無限大、永遠、絶対である。
“主よ、この祈りが、私たちのうちに実現しますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月15日(木) 聖書の箇所:エペソ4章1〜32節/ 年間通読:列王下18、19章
「心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。(23.24節) 
  「召しにふさわしい歩み」(1節)、や「聖徒たちがととのえられて、キリストの体を建て上げる」(12節)こと、そして「異邦人とは違って、真実にして、愛と憐れみの歩み」(17節以下)をすることが、勧められている(17節)。このことにおいて、中心となるのは、「霊の奥深くにおいて造りかえられること」である。本質が、真ん中が、造り変えられることである。このことが、きよめなのである。
“主よ、きよめの恵みに与らせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月16日(金) 聖書の箇所:エペソ5章1〜33節/ 年間通読:列王下20〜22章
「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい」。(9節)
  4章、5章、6章においてはキリスト者の歩みが記されている。歩みとは、生活、実践のことである。「光はあらゆる善意と正義と真実の実を結ばせる」(9節)とあるように、光の子とは光に支配され、光のうちを歩む者のことであるので、当然に、聖きとあらゆる善意と正義と真実の実を結ぶものとなるのである。
信仰が性格となり、生活となって、人々に、実際を通して、証しされることが大切である。
“主よ、信仰がそのように、実践されるようにして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月17日(土) 聖書の箇所:エペソ6章1〜24節/ 年間通読:列王下23〜25章
「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」。(10節)
  「偉大な力」とは復活の力である。これは神の全能の力であり、死人を生かす救いの力である。この力に生かされる時、私たちは、霊において、既に勝利の中にあるのである。
しかし、これは、主にあって、即ち、キリストにあって、与えられるところのものである。キリストを信じて、キリストに結び付けられ、一つとされた中で、与えられるところのものである。
“主よ、あなたににあって、復活の命と力に満たして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月18日(主日) 聖書の箇所:ピリピ1章1〜30節/ 年間通読:ガラテヤ1〜3章
「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」。(29節) 
  ピリピ書は61年頃、パウロによって、ローマの牢獄において書かかれたもので、テーマは「主にあって喜ぶ」である。パウロは「福音の前進」(1:12)ということに心を用いている。彼が捕らえられたのは、福音の前進に役立っているというのである。そのようにキリストのために苦しむことが恵みとして、贈り物として言われている。
キリストのために苦しみ、迫害を受けることは恵みなのである。
“主よ、あなたのために苦しむことを恵みとして受けとめさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月19日(月) 聖書の箇所:ピリピ2章1〜30節/ 年間通読:ガラテヤ4〜6章
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(8節)
  この章の初めには、キリストを覚えて、へりくだり、仕えあいなさいと勧められている。そして御子イエス・キリストは、全能のお方であったが、肉体をとり、人となられた。人としてのあらゆる苦難をなめ尽くされ、罪人としての嘲笑を受け、十字架の死に至るまで従順であられた。
私たちは、自分のもっている誇り、能力、財産、命などを少しでも失うまいとするが、主イエスは、神様から離れたすべての人のために、それらを進んで失われた。私たちはこの主を拝し、神と人に仕えている。
“神様。主イエスのへりくだりと同じ思いで仕える者として下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月20日(火) 聖書の箇所:ピリピ3章1〜21節/ 年間通読:歴代志上1〜3章
「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(15節)
  パウロはユダヤ人の中でも生粋のユダヤ人であり、神様への熱心さも人一倍であった。しかしそれを「ふん土」のように思うようになった。それは主の復活の様を知り、受けるべき冠を知ったからである。
私たちが、主にあって救われたことがどんなに大きなことか知らなければ、意味のない目標に向かって進んでしまう。罪が全くあがなわれ、義とされ、神の子とされたことは、主のよみがえりの命に与り、主と共に来たるべき世を継ぐものとされたことである。
“主よ。この世のものに捕われず、天の御国を目ざして進ませて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月21日(水) 聖書の箇所:ピリピ4章1〜23節/ 年間通読:歴代志上4〜6章
「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(13節)
  パウロが主に出会い、キリストを伝えていこうとしたとき、順風満帆で進んだのではなかった。旅の途上で嵐にあったり、盗賊にあったり、様々な反対にあって、捕らえられたり、石で打たれたりした。この手紙を書いた時も獄中に捕われていた。
しかし喜びがあふれている。それは、自分の力、能力によって苦難を克服しようとしたのではなく、強くして下さる方に委ねていたからであった。恵みによって救われたのだから、恵みの主に委ねる信仰生活を送らせていただきたい。
“主よ。主がビジョンを下さり、強くして下さるので、何でもすることができ感謝です。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月22日(木) 聖書の箇所:コロサイ1章1〜29節/ 年間通読:歴代志上7〜10章
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」(15節)
  コロサイ書は御子がからだなる教会の頭であることをよく表している。その御子なるお方はどういうお方であろうか。神から「生まれた」お方として神様に造られた被造物とは全く区別されるお方である。
これまでも主イエスを歴史上どのような「人間」であったかと様々に解釈しているがどのような解釈にも収めることができないでいる。神から生まれた「神」なるお方だからである。まったき神であるお方が完全な人となって下さったのがイエス・キリストである。
“神様。万物の主権者である御子が、あがない主であり感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月23日(金) 聖書の箇所:コロサイ2章1〜23節/ 年間通読:歴代志上11〜14章
「また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」(7節)
  私たちがキリストを受け入れ救われたのだから、キリストにあって歩くように命じられている。キリストを信じ受け入れたが、自分は正しいと思いつつ途中で「巧みな言葉」(4節)や「むなしいだましごとの哲学」(8節)、「ひとりよがりの礼拝」(23節)に迷い出てしまった者もいた。
私たちは、へりくだり聖書のみ言葉と御霊の導きとによってキリストを豊かに知り、愛によって互いに結び合わされて(2節)、信仰が確立されて行かなければならない。
“主よ。迷いやすい者ですが、主を深く知り信仰が確立されていきますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月24日(土) 聖書の箇所:コロサイ3章1〜25節/ 年間通読:歴代志上15〜17章
「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。」(1節)
  私たちがキリストのことを思うときに当然のごとく上にあるものへ心が引かれるはずである。しかしそれを妨げるものもある。それはこの地上への思い、不品行、どん欲、怒り、憤り、悪口、うそなどの古い人から出てくる思いである。
これらのものを脱ぎ捨て、キリストにある新しい人を私たちは着たのである。だから私たちは主から与えられる御霊の実と愛とを、具体的行動として表し、感謝と賛美にあふれるのである。
“父よ。古い人を脱ぎ捨て、キリストにあって新しい人を着たことを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月25日(主日) 聖書の箇所:コロサイ4章1〜18節/ 年間通読:歴代志上18〜21章
「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。」(2節)
  祈ることができるのはクリスチャンの恵みであり特権であると同時に義務でもある。祈ることによって神様の恵みが注がれるのであるから、祈ってゆこう。
そのためには時間を聖別して、祈りの時間を決めることが大切である。また他のことを脇に置いて、心を注ぎ専心すべきである。感謝をし、また多くの執り成すべきことがある。また4、5節を見るときに、実際的な行動の中に祈っていくことを示される。
どのように時を生かすか、言葉を使うのか、祈りのうちに示して下さる。
“主よ。今日注がれている恵みを感謝します。さらに祈りの恵みに導いて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月26日(月) 聖書の箇所:第1テサロニケ1章1〜10節/ 年間通読:歴代上22、25章
「あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している」。(3節)
  第1テサロニケ人への手紙はパウロとシルワノとテモテからの手紙で、51年頃コリントにおいて書かれ、再臨を強調し、それへの正しい待ち望み方を教えるものである。
さて、パウロは彼らが信仰を働かせたこと、愛をもって労苦したこと、忍耐をもって待ち望んだことを神のみ前に思い起こしていたのである。
“主よ、私たちが信仰と愛と希望を働かせたことが神のみ前で覚えられていることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月27日(火) 聖書の箇所:第1テサロニケ2章1〜20節/ 年間通読:歴代上26〜28章
「かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである」。(4節)
  「神の信任を受けて」、「神に喜ばれるように」とあるが、私たちは元々このように、福音を語るなどはできないのである。ところが、キリストの救いに与ったがゆえに、神に信任されるようになり、神に喜ばれるものとされたのである。
そして、このためには、祈りと、聖霊による神への従順とによる以外にないのである。
“主よ、信任されるにふさわしい者として下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月28日(水) 聖書の箇所:第1テサロニケ3章1〜13節
年間通読:歴代上29章 歴代下1,2章
「そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように」。(13節)
  再臨について1章には「主イエスが天からこられる」(1:10)、2章には「主イエスの来臨にあたって」(2:19)とあり、3章には13節となるのである。
聖なるものとは既に召されたクリスチャンか、御使いかどちらとも受け取れるが、主イエスはそれらの者たちと共に来られるのである。それ故、神のみまえに心が責められないように備えることが大切である。
“主よ、あなたが来られる時に備えさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月29日(木) 聖書の箇所:第1テサロニケ4章1〜18節/ 年間通読:歴代下3〜6章
「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」。(16節)
  ここには主の再臨のことが詳しく記されている。まず先に天に召されたものたちがよみがえり、次に生きているものたちである。
また、「主ご自身が天から下ってこられる」とある。天に帰られた同じイエスさまご自身がまた再び来られるのである。統一協会が言うように、「主の再臨は赤ちゃんとして再び生まれる」のでは決してないのである。
“主よ、あなたが再び来られることに望みをおかせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年6月30日(金) 聖書の箇所:第1テサロニケ5章1〜28節/ 年間通読:歴代下7〜10章
「あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう」。(24節)
  「全くきよめてくださるように」(23)、「主イエス・キリストの来臨のときに責められるところのない者にして下さるように」(23)との祈りがなされているが、このことをして下さるというのである。
「私たちが召されたのは、清くなるためである」(4:7)と召された目的を明確に記しているが、召して下さった目的を成就してくださるのが真実なお方なのである。
“主よ、あなたが全くきよめて下さることを感謝います。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

   

ホームページへ戻る