デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年7月のデボーション
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2006年7月1日(土) 聖書の箇所:第2テサロニケ1章1〜12節/ 年間通読:暦代下11〜14章
「すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである」。(6節)
  第2テサロニケ人への手紙はパウロ、シルワノ、テモテによってコリントにおいて、51年頃(第1テサロニケの数ヶ月後)書かれた書で、終末での審判等が記されている。
さて、ここではクリスチャンを迫害する者に対する審判とクリスチャンに対する救い(休息)が言われているが、これは神の正しさに基づいているのである。
そして、これは主の再臨のときに実現するのである。
 “主よ、あなたの再臨を待ち望ませて下さい。アーメン”
 

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2006年7月2日(主日) 聖書の箇所:第2テサロニケ章1〜17節/ 年間通読:歴代下15〜18章
「その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」。(8節)
  「その時」とは不法の秘密の力を阻止している者が取り除かれる時である。この阻止している者とは教会に内在する聖霊のことと考えられる。なぜなら「不法の者が来るのは、サタンの働きによる」(9)とあるが、サタンの働きを阻止する者は神以外には考えられないからである。
そして、不法の者とはサタンに支配されている反キリストと思われる。
“主よ、サタンの力を滅ぼしてしまう権威と力からあるイエスさまに全く信頼させて下さい。アーメン”
 

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2006年7月3日(月) 聖書の箇所:第2テサロニケ3章1〜18節/ 年間通読:歴代 下16〜22章
「兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。」(14節)
  キリストの再臨を待ち望みつつ日々を過ごしていたテサロニケの聖徒達であったが、中にはもう地上での生活は終ってしまうからということで、怠惰に過ごしていた人もいたようである。
パウロは主にあって怠惰に過ごすのでなく、よい働きを続けるようにと命じまた勧めている。以前よりも再臨が近いことを思えば、私たちはますますこの主の言葉を早く一人でも多くの人に伝える必要がある。
 静まって祈り、「神の愛とキリストの忍耐」(5節)とを持って、人々の模範となる生活をし、この福音を手渡してゆこう。
“神様。主の再臨を待ち望みつつ、良い働きができますように。アーメン”
 

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2006年7月4日(火) 聖書の箇所:第1テモテ1章1〜20節/ 年間通読:歴代 下23〜25章
「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。」(5節)
  テモテへの手紙は、パウロからの手紙である。年若いテモテへの愛に満ち、しかし同労者としての重みを感じさせる手紙である。ここでは、私たちの信仰が目標としているところが「愛」であることを表している。
キリスト教と言いつつも、間違った教え、作り話、あるいは議論によってキリストの「愛」から引き離そうとする悪魔の働きは、今も様々なところで働いている。異端と言われる教えであったり、娯楽的な映画の中に入り込んでいることもある。
聖書のみ言葉にしっかりと聴き見分けて行きたい。
“主よ。主の愛の目標からずれませんように。アーメン”
 

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2006年7月5日(水) 聖書の箇所:第1テモテ2章1〜15節/ 年間通読:歴代 下26〜29章
「すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。」(1節)
  すべての人のため、権威者のためのとりなしの祈りがまず第一に勧められている。
使徒行伝を見ると、パウロはすべての人の救いのために伝道に従事しつつも、ユダヤの秩序とローマの権威を尊重しつつ行動していた。
 キリストによる救いという真理を曲げることはできないが、それはこの世の権威の上に立つのでもなく、この世と隔絶するのでもなく、ひたすらにすべての人の救いを願い祈るのである。特に日本では為政者のために祈る必要がある。
“主よ。平和な思いをもって、みんなの救いのために祈ります。アーメン”
 

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2006年7月6日(木) 聖書の箇所:第1テモテ3章1〜16節/ 年間通読:歴代 下30〜32章
「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」(1節)
  教会の指導者についての言葉である。今でいえば、監督とは牧師や信徒伝道者、執事とは教会役員といえる。良い働きであると同時に、主にあって指導する者として、信仰、家庭、倫理、社会性について厳しく問われている。
 だがこれは指導者だけでなく、主の前に教会員一人一人が問われていることでもある。謙虚に厳粛に受け止めたい。職場や家庭で良い仕事をすることはすばらしいことであるが、神の教会で、自分がそれ以上に良い働きができるように求めてはどうだろうか。
“神様。主にあって整えられ、良い働きができますように。アーメン”
 

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2006年7月7日(金) 聖書の箇所:第1テモテ4章1〜16節/ 年間通読:歴代 下33〜36章
「信心のために自分を訓練しなさい。、、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。」(7、8節)
  この「信心の訓練」については、パウロからテモテ、テモテから兄弟たち(6、11節)と信仰が継承されていくことを念頭に置いてる。
 教会でも家族でも次の世代に、信心が訓練され、手渡されなければならない。信心の訓練を妨げるものも記されている。霊の判断力も必要である。また信心の訓練を促す恵みもある。
私たちはあらゆる面(12節)で訓練され成長する必要がある。また恵みの賜物が用いられねばならない。しかし本人にその気がなければ訓練はできない。
“主よ。訓練されて役立つ者として下さい。アーメン”
 

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2006年7月8日(土) 聖書の箇所:第1テモテ5章1〜25節/ 年間通読:エペソ1〜4章
「教会は、真にたよりのないやもめの世話をしなければならない。」(5節)
  パウロは様々な立場の人々への配慮を示している。その中で特にやもめについては、多くの指導がなされている。
今以上に女性の身分が低く考えられていた時代、やもめが生活することは困窮を極めることもあった。信心深い生活の者もあったが、みだらな生活の者もあった。家族との問題もあった。
これらを見極めた上で、必要であれば教会が心をこめて世話をするのである。教会が愛の具体的行動を取るとき、それは牧師や一部の人の働きではなく、「教会」全体が主にあって負っていく働きである。
“父よ。助けの必要なところへ、愛をもって届かせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月9日(主日) 聖書の箇所:第1テモテ6章1〜21節
年間通読:エペソ5,6章、エズラ1,2章
「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」(6節)
  私たちは、「信心」すなわち創造主なる神を恐れ、敬うことによって全てが足りるのである。それは人間関係において足りる。
主を恐れ敬うことによって、教会の長老(役員)にも、奴隷の支配者としての「主人」にも仕え得る。また死においても、恐れなく迎えうる。永遠の命に望をおき、信仰の戦いを立派に戦い抜くこともできる。
 今の時代も金銭のために、人を踏みつけたり、欲で信仰を失う者もいる。だが信心がある時、富んでいる時にもおごらず、富ではなく神に望みをおいて、良い働きをなし、惜しみなく分け与えることができる。
“主よ。信心をもって歩まさせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月10日(月) 聖書の箇所:第2テモテ1章1〜18節/ 年間通読:エズラ3〜6章
「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」。(7節)
  第2テモテはネロの迫害の時の67年頃(或いは64年頃)ローマの獄中で書かれたパウロの最後の手紙。牧会者テモテへの個人的な励ましと注意とパウロの個人的な依頼が書かれている。
この7節はテモテへの励ましである。神の力をいただいた大胆さと、慎みとは反対的であるが、それは愛によってコントロールされなければならないのである。迫害にあう時、臆病になりがちであり、実際に、幾人かはパウロのところを去って行ったのである。
“主よ、聖霊によって力と愛と慎みとを与えて下さい。アーメン”
 

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2006年7月11日(火) 聖書の箇所:第2テモテ2章1〜26節/ 年間通読:エズラ7〜9章
「次の言葉は確実である。『もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう』」。(11節)
  確実とは“信じられうること、信頼に耐えること、信用に耐えること”である。間違いのない、確かなことなのである。それは、もし、私たちがキリストと共に信仰によって十字架において、死ぬなら、彼と共に復活の命、神の命に生きるということである。それには、まず私たちが、キリストと一つにされる必要がある。
これは、神の御前に、全く悔い改めて、私たち自身を、キリストに、全く明け渡し、ゆだね任せることによって実現するのである。
“主よ、まずあなたと共に死なせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月12日(水) 聖書の箇所:第2テモテ3章1〜17節
年間通読:エズラ10章,ピリピ1,2章
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」。(16節)
  聖書の霊感について記した有名な御言葉である。聖書は神の霊によって産み出されたものであり、人に語りかけているものである。それであるから、人が教えられ、戒められ、正され、義とされることに役に立つのである。御言葉によって、私たちは神を知り、救われるのである。
“主よ、聖書を毎日読み、それによって生きる者として下さい。アーメン”
 

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2006年7月13日(木) 聖書の箇所:第2テモテ4章1〜22節
年間通読:ピリピ3,4章,ネヘミヤ1,2章
「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」。(2節)
  「5節には伝道者のわざをなし、自分の務めを全うしなさい」とあることから、御言葉を宣べ伝えるとは“福音を宣べ伝える”ことでもある。
しかし、御言葉に基づいた福音宣教である。相手が喜んで聞いてくれるか、いやいや聞くか、語りやすいか語りにくいかに関係なく、相手を愛して、相手の救いを信じて、分かりやすく宣べ伝えるのである。
“主よ、御言葉を常に、愛をもって分かりやすく宣べ伝えさせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月14日(金) 聖書の箇所:テトス1章1〜16節/ 年間通読:ネヘミヤ3〜5章
「教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない」。(9節)
  テトス書は第2テモテの前に、パウロによって、ニコポリにおいて、クレテに残したテトスに宛てて、65年頃かかれたものである。内容は、教会を組織し、テトスを励まし、指示を与え、偽教師に注意するようにというものである。
 さて、9節の言葉は、監督になる資格について言われている。しかし、これは、すべてのキリスト者について、当てはまるものである。教えにかなった信頼すべき言葉を語ると同時に、それを守るものであるべきであるというのである。
“主よ、キリスト者にふさわしいことを語り、そのように生活させて下さい。アーメン”
 

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2006年7月15日(土) 聖書の箇所:テトス2章1〜15節/ 年間通読:ネヘミヤ6〜8章
「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」。(14節)
  ここに「よいわざに熱心な」とある。善行に熱心ということである。偽りと好き勝手さがキリスト者の中にも良くあったようである。
そして、ここで強調していることは、“健全”ということであるが、それよりももっと良いことに、情熱的ということが言われている。
“主よ、あなたの御業のために、熱心な者として下さい。アーメン”
 

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2006年7月16日(主日) 聖書の箇所:テトス3章1〜15節/ 年間通読:ネへミヤ9〜11章
「それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる」。(8節)
  このテトス書では“良いわざ”も強調されている。ここでも「努めて良いわざを励む」ことが言われている。
キリスト者は福音にふさわしいことを語り、同時に、福音にふさわしい生活、実践が大切なのである。勿論、「義のわざでなく、神のあわれみによって」(5)救われたのが基本であるが、信仰により、恵みにより、聖霊に導かれて、良いわざに励むことも必要なのである。
“主よ、聖霊に満たされて、努めてよいわざに励ませて下さい。アーメン”
 

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2006年7月17日(月) 聖書の箇所:ピレモン1〜25節/ 年間通読:ネヘミヤ12〜13章
「彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった。」(11節)
  パウロがピレモンへ宛てた手紙である。その趣旨は、以前ピレモンの下にいた奴隷オネシモについて、主にあって受け入れて欲しいというものである(17)節)。どうもオネシモは、主人ピレモンの下で不正を働き逃げ出したらしい。しかしキリストに出会った。そして囚われの身のパウロのそば近くに仕えていたのである(13節)。
 私たちも以前は無益なものであったが、キリストにあって造られ有益な者に変えられた。そして福音の前進のために役立つ者となった。
“神様。有益な者に変えられたお互いであることを感謝します。アーメン”
 

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2006年7月18日(火) 聖書の箇所:ヘブル1章1〜14節/ 年間通読:コロサイ1〜4章
「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。」(2節)
  ヘブル人への手紙は、内容からユダヤ人クリスチャンに書かれた手紙であると言われている。著者は不明。旧約聖書の律法や祭儀とキリストの関係を示し、全てに優る御子キリストを表している。
 旧約の時代は、神は預言者などを通してご自身を示されたが、今、この新約の時代には、御子によって表されている。人々がするように、御子を諸霊の一つや優れた人のように考えるとき、神を見出すことはできない。しかし御子は、神に仕える存在ではなく、「神の本質の真の姿」であって、神であられる。
“父よ。御子によってあなたご自身が私にも現わされて感謝です。アーメン”
 

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2006年7月19日(水) 聖書の箇所:ヘブル2章1〜18節/ 年間通読:エステル1〜4章
「それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」(11節。12節参照)
  御子はあらゆる「栄光とほまれとを冠として」(7節)与えられるお方である。このお方が、私たちを「兄弟」と呼び、共にそれらを相続する者と認めて下さった。主は私たちのために、死の苦しみを受け、死の力を滅ぼされた。主が受けられた試練と苦しみの中には、人類の一般的な苦しみばかりではなく、救いを全うする使命の苦しみ、安易な道に逃れようとする試練も含まれている。
 死の恐れを除かれ、福音を委ねられ、主からのこの使命に立つからこそ主にある「兄弟(姉妹)」なのである。
“主よ。主の兄弟とされて感謝です。主にあって恐れなく、宣教させて下さい。アーメン”
 

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2006年7月20日(木) 聖書の箇所:ヘブル3章1〜19節/ 年間通読:エステル5〜8章
「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。」(14節)
  6節には「わたしたちは神の家なのである。」とあり、モーセにまさって「キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられた」(6節)とある。
 私たちは、この「大祭司なるイエス」(1節)の執り成しとあがないによって、キリストの治める「神の家」なのであり、キリストに属する者とされている。
だがここに警告もある。心をかたくなにして、荒野で40年間さまよって、約束の地に入れなかった人々がいた。「「きょう」といううちに」主に従い、神の国への確信を持ち続けよう。
“神様。不信仰をゆるして下さい。今日、今、主に従います。アーメン”
 

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2006年7月21日(金) 聖書の箇所:ヘブル4章1〜16節
年間通読:エステル9,10章、第1テサロニケ1〜2章
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」(14節)
  この大祭司とは神の子イエスのことである。御子は万物の創造と保持と関わっておられる神なるお方であるが、全き人となり、幼子として来られた。人としてのあらゆる苦しみ、悲しみ、弱さを経験し、「死を味わわれた」(2:9)お方である。罪は犯されなかったが、罪の誘惑もなめ尽くされたお方である。
だからこそ私たちのどんな弱さも思いやることができ、助けることができる(2:18)のである。
“主よ。私の弱さをご存知で感謝します。助けを信じます。アーメン”
 

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2006年7月22日(土) 聖書の箇所:ヘブル5章1〜15節
年間通読:第1テサロニケ3〜5章、ヨブ1章
「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、」(8節)   
  キリストが受けられた大祭司の栄誉は、神から与えられたものであったが、それで救いの源となられたのではなかった。「激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」(7節)
 この激しい苦しみの中で、祈り、信仰に立ち、「従順を学び」「全き者とされた」のである。私たちはなおさら、祈り、信仰をもって、従順を学び、「義の言葉」を味わえる成人へと成長していかなければならない。
“父よ。今の問題を深い信仰をもって祈ります。従順を学ばせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月23日(主日) 聖書の箇所:ヘブル6章1〜20節/ 年間通読:ヨブ2〜5章
「この望みは、、、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。」(19節)
  繰り返し出てくるこの「望み」とは、神の国の「約束を受け継ぐ」望みである。そしてこれは将来への希望ばかりではなく、現在でも神様の臨在に触れさせるものである。
「幕の内」とは、至聖所であり、神様の現われなさる場所である。大祭司が年に一回だけ贖罪のために入ることのできた場所である。
しかしキリストの血汐によって、私たちはいつでも「幕の内」に入り、神様との深い交わりを持ち、主の臨在に触れ、賛美し、慰めを受け、喜びにあふれるのである。そのためのデボーションである。
“主よ。今日も幕の内が開かれて感謝です。主の臨在に触れさせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月24日(月) 聖書の箇所:へブル7章1〜28節/ 年間通読:ヨブ6〜9章
「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」。(25節)
  「イエスは更にすぐれた契約の保証となられた」(22)が、このためには「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司(11)が立てられるという祭司制に変更が必要であったのである。しかし、それも聖書の預言による約束(詩篇110:4)に基づいてなされたのである。
イエスさまは今も私たちのためにとりなしていて下さっていてくださるが故に、私たちは救われ守られているのである。
“主よ、あなたのとりなしを感謝します。アーメン”
 

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2006年7月25日(火) 聖書の箇所:ヘブル8章1〜13節/ 年間通読:ヨブ10〜13章
「すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。(10節)
  新しい契約は古い契約の書に既に約束されていたのであった。それもその内容までもが、預言されていたのである。それは「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」というのである。
聖霊によって新しくされて、思いと心の内に、神の律法が目指している神の御心が与えられることである。その人が願うことと考えることが神の思いと願いと同じになるということである。
“主よ、聖霊によってあなたの御心のうちに歩ませて下さい。アーメン”
 

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2006年7月26日(水) 聖書の箇所:へブル9章1〜28節/ 年間通読:ヨブ14〜17章
「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」。(28節)
  イエス・キリストは「召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐために」(15)にただ一度で、その血によって罪を永遠に、完全に贖って(12)下さったのである。
そして、私たちの肉体が贖われ(復活の体に変えられる)、完全な救いを与えるために、同じイエス・キリストが来られるのである。
“主よ、あなたが再び来られるのを待ち望み、それに備えさせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月27日(木) 聖書の箇所:へブル10章1〜39節/ 年間通読:ヨブ18〜21章
「神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう」。(29節)
  不信仰と不従順に陥って、神に審かれて、荒野で滅びていったイスラエルの民の如くにならないように、よくよく気を付けなければならない。
イエス・キリストは神の子であられることをもう一度確認しよう。契約の血によって、完全にきよめられていること確信しよう。また、最深の注意と最高の謙りをもって、御霊に教えられ、御霊の導きに従う者となろう。
“主よ、イエスさまの血による救いをいつも畏れと感動と感謝をもって受けとめさせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月28日(金) 聖書の箇所:へブル11章1〜40節/ 年間通読:ヨブ22〜25章
「信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った」。(28節) 
  信仰の章である。信仰とは神を信じて、その御心に従うことである。「信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ」(29)とあるように、信仰をもって行うのとそうでないのと大きな違いが出て来る。信仰を持って祈るのとそうでないのもまた大きな違いが生じるのである。
信仰の基礎は御言葉であり、信仰の力は御霊である。そして、信仰の姿勢は従順と謙りである。
“主よ、信仰によって、すべてをさせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月29日(土) 聖書の箇所:へブル12章1〜29節/ 年間通読:ヨブ26〜29章
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(11節)
  「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(6)とあるように、訓練の根底には神の愛があり、そして、その目的は私たちの益のためであり、きよきに与らせるため、平安な義の実を結ばせるためでもある。しかし、すべての訓練はその時はつらく嫌なものであるが、耐え抜いて、鍛えられることが大切である。
“主よ、訓練をあなたの愛の故であることを信じて耐え抜かせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月30日(主日) 聖書の箇所:へブル13章1〜25節/ 年間通読:ヨブ30〜32章
「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」(5節) 
  「金銭を愛することは、すべての悪の根である」(第2テモテ6:10)とあるが、お金がすべてのことにつきまとう故に、私たちは金銭にとりつかれて、それに支配されやすい。
どんなことがあっても、主を忘れず、主に頼り、主に求めていくことが大切である。なぜなら主は決して私たちを離れず、捨てないからである。
“主よ、どんな時にも、あなたが私たちと共にいて下さることを信じさせて下さい。アーメン”
 

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2006年7月31日(月) 聖書の箇所:ヤコブ1章1〜27節/ 年間通読:ヨブ33〜36章
「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」(6節) 
  5節には、「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」とある。私たちの知恵の不足をご存知で、寛大に豊かに与えて下さる神様である。
しかしその神様の働きを妨げるものもある。それが「疑い」である。惜しみなく与えて下さることを疑い、波のように心が揺れ動いていては、行動も不安定で何も与えられないのである。
“神様、しっかりとあなたに焦点を置き、疑わないで、信じて願い求めます。アーメン”
 

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