デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年8月のデボーション
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2006年8月1日(火) 聖書の箇所:ヤコブ2章1〜26節/ 年間通読:ヨブ37〜39章
「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」(17節)
  ヤコブの手紙は信仰による行いの大切さを記している。私たちが救われたのは、一方的な神様の恵みであって信仰によるのである。決して行いによるのではない(エペソ2:9)。
 私たちが、信仰に生きることは、当然その行いも伴っている。日本のクリスチャンは、この行い、生活への適用が欠けていることが多い。信仰と違う行いをしていれば、矛盾があり違和感があるはずである。
信仰にも行いにも力がなくなる。信仰と行いとが一致して信仰も行いにも力が出てくる。(1章22節参照。)
“父よ、信じたとおりに行い、勇気をもって生活に適用する者として下さい。アーメン”
 

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2006年8月2日(水) 聖書の箇所:ヤコブ3章1〜18節
年間通読:ヨブ40〜42章、第2テサロニケ1章
「しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。」(17節)
  3章後半には、上からの知恵と地につく知恵とが対比されている。この世的な知恵は、優れているように見えても、真理に背いていて、やがて「苦々しいねたみや党派心」「誇り高ぶ」りが表れてくる。
一方、上からの知恵は、清く、平和を造り出すものである。信仰に生きることは、上からの知恵によって考える者、行動する者へと変えられたことである。もう一度1章5節を読み直し、行いを伴う知恵を祈り求めていこう。
“主よ、救われたのですから、上からの知恵によって生きる者へと変えられています。アーメン”
 

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2006年8月3日(木) 聖書の箇所:ヤコブ4章1〜17節
年間通読:第2テサロニケ2、3章、詩篇1、2篇
「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」(7節)
  神に従い、悪魔に立ちむかうにはどうしたらよいであろうか。行動や求めの動機が、自分の欲や快楽のためか、「主のみこころ」(15節)を求めてであるかが問われている。この二つは相容れないものである。
 クリスチャンは、全世界の救いのご計画に参与し、悪魔と世の欲とに立ちむかう者である。この悪魔に勝つ力は、自身にあるのではなく、罪と死とに勝利されたキリストにある。神のみこころに従う決心をし、心が清くされて、悪魔に勝利しよう。
“神様、自分の欲を離れ、御心に従って生きる者として下さい。アーメン”
 

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2006年8月4日(金) 聖書の箇所:ヤコブ5章1〜20節/ 年間通読:詩篇3〜7篇
「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。」(15節)
  ここに祈りについての多くの教えが記されている。この前後に、長老やエリヤが出て来る。ともすれば、だれかすばらしい人、祈りの賜物をもった人の祈りが聞かれると捉えてしまう。
だが重要なのは「信仰による」祈りである。信仰をもって祈るなら、あなたの祈りが聞かれる。この祈りが聞かれたという経験がますます祈りを豊かにする。また共に祈る教会の仲間がいることは何と幸いなことであろうか。
“主よ、私の小さな祈りをも聞き、大きなみ業をして下さいますことを感謝します。アーメン”
 

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2006年8月5日(土) 聖書の箇所:第1ペテロ1章1〜25節/ 年間通読:詩篇8〜12篇
「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。」(4節)
  キリストが死人の中からよみがえらされ、クリスチャンもキリストによって新しく生まれた者とされた。
このクリスチャンには、すでに天におそるべくすばらしい資産が備えられているのである。無限の宇宙もやがて崩壊する。その無限を超えたお方が、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を備えられた。この価値を知らないと無駄にしないとも限らない。この資産に比べれば、受け継ぐための忍耐は、微々たるものである。
“父よ、受け継ぐ資産の価値を知り、確信を持ち、忍耐をもって、歩みます。アーメン”
 

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2006年8月6日(主日) 聖書の箇所:第1ペテロ2章1〜25節/ 年間通読:詩篇13〜17篇
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。」(9節)
  私たちが主の恵みに与っているのは、私たちが主にあって、祭司となり、人々を執り成し、神の国へと招き入れるためである。様々なつまずきもあるが、悪口を捨て、霊の乳を慕い求め、成長していく中で、私たちも主からの使命に立つ者とされる。
 一人一人が「生ける石」となって、教会の土台となるべきである。そのためには、主を見上げて忍耐と待望が必要である。私たちは自分のことは、求めやすいが、どれ位執り成し、他の人のために祈っているだろうか。
“主よ、喜んで主の跡を進みます。主の体であることを覚え、一人一人とりなして祈ります。アーメン”
 

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2006年8月7日(月) 聖書の箇所:第1ペテロ3章1〜22節/ 年間通読:詩篇18〜21篇
「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」。(9節)
  イエスさまご自身はこのように歩まれたのであった。であるから、イエスさまの心があたえられる時に、このようになりうるのである。
そのためには、信仰によって、キリストと共に自我に死に、キリストと共に新しい自分に生きることによって実現するのである。また、私たちは、祝福を受け継ぐために召されたのである。
“主よ、あなたの十字架と共に死に、また共に生かされることによって、わたしの心の真ん中に宿って下さい。アーメン”
 

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2006年8月8日(火) 聖書の箇所:第1ペテロ4章1〜19節/ 年間通読:詩篇22〜26篇
「キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである」。(14節)
  キリストの名のためにそしられるとは、クリスチャンであるが故のそしりである。そのような人は、祝福されるのである。
栄光の霊とはキリストを十字架に導き、復活させ、神の右に座せしめた神の御霊のことである。その聖霊が宿るというのである。それは勝利であり、恵みであり、祝福なのである。
キリストの故の迫害は迫害される者を栄光に入れて下さるのである。
“主よ、迫害される時、それを恵みとして、受け止めさせて下さい。アーメン”
 

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2006年8月9日(水) 聖書の箇所:第1ペテロ5章1〜14節/ 年間通読:詩篇27〜31篇
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」。(8、9a節)
  私たちの戦いの相手は悪魔であり、悪の霊である。ししが獲物を求めて歩き回るように、悪魔は私たちの隙をうかがっているのである。だから身を慎み、目を覚ましていなければならないのである。
しかし、この戦いには、私たちは必ず勝利するのである。なぜなら、キリストは既に勝利者であるからである。
“主よ、イエスを神の御子と信ずる信仰によって勝利させて下さい。アーメン”
 

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2006年8月10日(木) 聖書の箇所:第2ペテロ1章1〜21節/ 年間通読:詩篇32〜35篇
「また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである」。(4節)
  ペテロ第2の手紙はペテロによって、66年頃ローマで書かれ、異端に対する警告がなされている。
さて、「神の性質にあずかる」とあるが、神と同じ性質を持つようになるということである。それは御子の形が私たちの内に出来ることであり(ガラテヤ4:19)、御霊によって御子の性質を持つということである(ガラテヤ5:22,23、第2コリント3:18)。
“主よ、聖霊によって御子の姿に私たちを変えて下さい。アーメン”
 

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2006年8月11日(金) 聖書の箇所:第2ペテロ2章1〜22節/ 年間通読:詩篇36〜39篇
「しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている」。(1節)
  偽教師による異端への警告である。異端はイエスを神としないで、十字架の贖いの効力を弱め、或いは、イエスさまが肉体を持って生まれたことを否定したり、再臨を自然的誕生に変えたり、既に済んでしまったと言ったりするものである。そこにあるのは、神の審きと滅びである。
“主よ、異端に巻き込まれないようにして下さい。アーメン”
 

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2006年8月12日(土) 聖書の箇所:第2ペテロ3章1〜18節/ 年間通読:詩篇40〜44篇
「愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」。(14節)
  この日とは主の日のことであり、再臨のことであリ、天地が滅びる時のことである。いつこの日が来るのか分からないのだから、いつでも安らかな心で主の御前に出られるように、しみもきずもない歩みをするようにということである。
また、このような日は必ず訪れるのであるが、遅いのは一人でも多くの者が救われるように長く忍耐しているからなのである。
“主よ、きよい歩みをする中で、あなたの再臨を切に待ち望む者とさせて下さい。アーメン”
 

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2006年8月13日(主日) 聖書の箇所:第1ヨハネ1章1〜10節/ 年間通読:詩篇45〜49篇
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について」。(1節)
  ヨハネ第1の手紙は使徒ヨハネによって、90年代前後にエペソで、異端への警告のために書かれたものである。
ここでは、ヨハネたちは永遠から永遠におられた、御子イエス・キリストがこの地上に人間そのものとして来られて、その声をこの耳で聴き、この目でよくよく見、この手で触ったのであると記している。この御子の血によって、すべての告白する罪がきよめられて父と子の交わりに入れられたのである。
“主よ、父とあなたとの交わりに与からせて下さい。アーメン”
 

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2006年8月14日(月) 聖書の箇所:第1ヨハネ2章1〜29節/ 年間通読:詩篇50〜54篇
「彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。」(28節)
  ヨハネはなんとかして、主イエスを救い主と信じる者が永遠のいのちに与っていることをわかってもらおうとこの手紙を書いている(5:13)。
神の許しは、決して中途半端なものではない。主の来臨に際して、人生のすべてを調べられて「みまえに恥じ入ることがない」者へと変えて下さっているのである。あらゆる憎しみ、やみ(11節)、肉の欲、目の欲、持ち物の誇り(16節)がゆるされ除かれ、聖霊の証と確信がとどまっているのである。
全世界の罪をあがない、この者の罪をあがなう十字架の尊さ!
“神様、まったきあがないを感謝します。アーメン”
 

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2006年8月15日(火) 聖書の箇所:第1ヨハネ3章1〜24節/ 年間通読:詩篇55〜59篇
「愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。」(21節)
  この数節前から心の責めと確信について論じられている。あなたは神の救いに対するゆるがない確信を持っているだろうか。心に責めがなく、自分にではなく、主御自身に根拠を置くとき、確信を持つことができる。
しかし、逆説的ないい方であるが、心に責められるようなことがあっても、安んじることができる。私たちよりも心の広い、すべてをご存知のお方は、私をきよめて下さると信じることができるからである。
“父よ、主の十字架に恐れや不安を取り除く根拠があり、
 それを受け取らせていただき感謝します。アーメン”
 

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2006年8月16日(水) 聖書の箇所:第1ヨハネ4章1〜21節/ 年間通読:詩篇60〜64篇
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(10節)
  3章私たちが神を愛し、互いに愛し合う根拠がここにある。人が神抜きに物事を考えるとき、必ずそこにエゴが出てくる。しかし、神様が私たちを愛して下さり、最愛の御子をあがないの供え物として十字架に送られたことを考え物事を見るとき、神様の愛に包まれて、エゴを持つことができなくなる。
御子を救い主と信じることは、なんと幸いなことであろうか。大胆にイエスは救い主であると告白しよう。
 “主よ、御子によるあがないを信じ、私に愛が生まれました。アーメン”
 

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2006年8月17日(木) 聖書の箇所:第1ヨハネ5章1〜21節/ 年間通読:詩篇65〜68篇
「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(5節)
  クリスチャンは御子を持っているので世に勝つ者である。そして私たちの願いは何でも聞きいれて下さると知っているのである。
しかし世に勝てないクリスチャン、世に負けてしまうクリスチャンが非常に多い。神様から見たら異常な出来事である。なぜ勝てないのであろうか。
勝利の秘訣は神の子が十字架におかかりになったことである。それを信じるところにある。
もう一つの秘訣は、神様の約束の故に御旨に従った祈りが聞かれるということである。
“神様、十字架によるあがないの信仰により、また祈りが聞かれることによって、世に勝てることを感謝します。アーメン”
 

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2006年8月18日(金) 聖書の箇所:第2ヨハネ1〜13節/ 年間通読:詩篇69〜72篇
「その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。」(9節)
  この手紙は一婦人というよりも、とある教会に宛てた手紙と言われている。
内容に大きな差はない。互いに愛し合い、惑わす者、反キリスト、つまり異端や間違った教えに気をつけるように促している。
9節前半には、神を持っていない者について「キリストの教をとおり過ごして」とある。キリストの教えを乗り越えて、自分勝手に解釈したり、教えを曲げて、進みすぎてしまう姿がここにある。
その逆は「その教えにとどまっている」ということである。その者は、父を持ち、御子を持っていることを知っている。ハレルヤ!
“主よ、父を持ち、御子を持っていることを感謝します。アーメン”
 

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2006年8月19日(土) 聖書の箇所:第3ヨハネ1章1〜15節/ 年間通読:詩篇73〜77篇
「わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。」(4節)
  使徒ヨハネがガイオ個人宛てた手紙である。著者は、このガイオのことを非常に喜んでいるが、それは真理のうちを歩んでいることである。
聖書の教えは、信仰が第一であるが、それは内面だけで終るものではない。内側に与えられた真理が、外の行動へと表れていくはずである。その実物見本の一人がガイオである。具体的には、旅先にある兄弟をあたたかくもてなしていることである。中には見ず知らずの者もいたかもしれない。一方でそれを妨げる働きもあった。真理のうちを歩もう。
“父よ、真理のうちを歩き、躊躇することなく愛の業をさせて下さい。アーメン”
 

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2006年8月20日(主日) 聖書の箇所:ユダ1〜25節 / 年間通読:詩篇78〜80篇
「聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧める」(3節)
  ユダの手紙は、主イエスの弟ユダによって書かれたと言われている。書いた目的を表しているのが上記の聖句である。
だれでも平和に暮らしたいと思うが、主の教えがいつの間にか、違った意味のないものに変わらないためには、信仰の戦いをしなければならない。
前半には旧約聖書の人物について、不信仰に陥って裁かれた人々のことが記されている。後半18節には不信仰の業が上げられ、20節からは信仰の業と希望が記されている。
私たちは、神の愛を豊かに受けていることを喜び、祈って、再臨を待ち望んで行こう。
“主よ、希望に満ちた戦いを感謝します。アーメン”
 

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2006年8月21日(月) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録 1章1〜20節/ 年間通読:詩篇50〜54篇
「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである」。(3節)
   ヨハネの黙示録は90年代に、内容的に、また伝統的には、皇帝ドミティアヌス帝(81〜96年)の迫害の時に、使徒ヨハネが、パトモス島(エーゲ海上、エペソの南西約90キロ)において書いたものとされている。
ここには、キリストの勝利と民の救いとこれから起こる多くの審きについて記されているが、祝福を与える書なのである。
“主よ、あなたの御言葉を聴いて守り、祝福を得させて下さい。アーメン”
 

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2006年8月22日(火) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録 2章1〜29節/ 年間通読:詩篇55〜59篇
「わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている」。(19節)
  この2章には、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラの教会の御使に対する手紙が記されている。教会ごとにその教会の御使(ある方は牧師ととる)がおられるということである。さて、ここに“知っている”とある。イエスさまが教会のことを、即ち、私たち一人一人を御存知であるというのである。これは私たちにとって、励みであり、警告でもある。
“主よ、あなたが、御存知であることを励みとして歩ませて下さい。アーメン”
 

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2006年8月23日(水) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録 3章1〜22節/ 年間通読:詩篇60〜64篇
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。(20節)
  3章にはサルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤの教会への手紙が記されている。そして、この20節はラオデキヤの教会へのイエスさまの御言葉である。
しかし、これはすべてのクリスチャンにあてはまるところのものである。イエスさまを信じるだけでなく彼を心の真ん中に迎え入れ、親しい交わりの中に入ることの大切さが言われている。
“主よ、心の真ん中にあなたを迎え入れさせて下さい。アーメン”
 

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2006年8月24日(木) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録 4章1〜11節/ 年間通読:詩篇65〜68篇
「その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた」。(3節)
  碧玉は水晶のようなまたダイヤモンドのようなもので“純粋さ、混じりけのなさ”を、赤めのうは“神の審き”を、緑玉はエメラルドのことであり、“慈悲、慈愛”をあらわす。
神は見えないが、このように光、栄光の姿が見えたのであった。また「いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた」(5節)とあるが、これは、神の力強さ、威厳と絶えざる働きをあらわしている。
“主よ、あなたに見習うものとさせて下さい。アーメン”
 

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2006年8月25日(金) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録 5章1〜14節/ 年間通読:詩篇69〜72篇
「『御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように』。 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した」。(13、14節) 
  “御座にいますかた”とは父なる神さまのことであり、“小羊”とはイエス・キリストさまのことである。このふたりを“ひれ伏して拝した”とある。父なる神と御子とが礼拝されているのである。
これは御子が神と同じおかたであることをあらわすものである。神である御子が私たちのために犠牲となって下さったのである。なんと驚くべきことか。何という愛だろうか。
“父なる神さま、あなたの大いなる御愛を感謝します。アーメン”
 

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2006年8月26日(土) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録 6章1〜17節/ 年間通読:詩篇73〜77篇
「御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。(17節)
  怒りとは“御座にいますかたの御顔と小羊の怒り”(16節)である。父なる神の御顔の怒りとは怒った神の顔というのであるが、どんなに恐ろしいものであろうか。
また、やさしいはずの小羊が怒るともある。やさしい柔和なかたが怒ったらこれもまた計り知れない恐怖であると思われる。
神が元々恐ろしいのでなく、人の罪故に怒らざるを得ないのである。しかし、イエスキリストの十字架の陰に私たちは隠れることが出来るのである。
ア“主よ、十字架の陰に隠れることが出来、赦されることを感謝します。ーメン”
 

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2006年8月27日(主日) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録 7章1〜17節/ 年間通読:詩篇78〜80篇
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」。(14節)
  神に救われて、神の民とされたことのしるしは、その額に印を押されることであった(3)。そして、この印を押されたものはイスラエルの部族であった。
もう一つの神の民のしるしは白くされた衣を着たものであった。それは、イエス・キリストの十字架の血潮で罪が赦され、きよくされた人々のことである。
「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない」(16)天国に入るのである。
“主よ、信仰によって、小羊の血のきよめに与るものとして下さい。アーメン”
 

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2006年8月28日(月) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録8章1〜13節/ 年間通読:詩篇111〜115篇
「香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。」(4節)
  聖徒たちの祈りは、み使いがささげた香の煙と共に神のみまえに立ち上っていった。
私たちがささげる祈りは、天において、神様のみ前への尊い献げ物として受け入れられている。聖書の中に祈りについての多くの教えがあるが、祈りはやはり祈ってわかるものである。
み前に心を注ぎ出す喜び、祈りが受け入れられた喜びは、祈って味わい知るものである。特にこの箇所では、ラッパが吹き鳴らされ、災いが始まる時であった。特別な執り成しの祈りがささげられていたのではないだろうか。
“神様、祈りが受け入れられて感謝します。なおも僕の祈りをお聞き下さい。アーメン”
 

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2006年8月29日(火) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録9章1〜21節/ 年間通読:詩篇116〜118篇
「彼らは、人間を殺すことはしないで、五か月のあいだ苦しめることだけが許された。」(5節)
  第五、第六のラッパが吹き鳴らされ、第一、第二の災いが起こる事が記されている。この終末の預言の中に究極的な救いと、その途上の様々な患難や災いが示されている。
災いの時、悪魔やその使いが存分に働いているように見えるが、この世を支配しておられるのは神様であって、神様にゆるされた範囲でしか動くことができないのである。理不尽に見える災いの中でも主は働き、共にいて下さる。
特にこの箇所の苦しみは神の印のない人を、悔い改めへと招いている。
“父よ、十字架によってお赦し下さい。偶像礼拝、まじないなどの罪を悔い改めます。アーメン”
 

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2006年8月30日(水) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録10章1〜11節/ 年間通読:詩篇119篇
「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(11節)
  第三の災い、そして「神の奥義が成就される」時が近づいているが、ここで著者ヨハネは小さな巻物を食べるように言われ、食べると上記のように声がした。巻物を食べたことは、神様からの言葉や使命を受け取ったことを意味している。内容からすれば、もう一度、世界の民について預言することであったと思われるが、それは甘くも苦いものであった。
私たちが主のみ言葉に聞き祈ることは甘美なものであるが、同時に「苦み」もある。主はこの終末になおも宣教をと願っておられる。
“主よ、み旨の内の甘きも苦きもお受けします。福音を宣べ伝えます。アーメン”
 

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2006年8月31日(木) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録11章1〜19節/ 年間通読:詩篇120〜124篇
「大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。」(15節)
  第三の災いの始まる前後のことが記されている。二人の証人のあかし、死、よみがえり、昇天によって残された人々は天の神に栄光を帰した。それからこの世が神の国となった。
主の聖徒は、誰もがキリストの証人となるように導かれている。その途上には命を失うような患難もある。しかしよみがえらせる力のある方により最終的な勝利、神の国、永遠の支配へと導かれていく。私たちの証すべき人々は誰であろうか。
“神様、最終的な勝利を目ざし、患難も死も堪え忍びます。結実を感謝します。アーメン”
 

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