デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年9月のデボーション
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2006年9月1日(金) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録12章1〜18節/ 年間通読:詩篇125〜129篇
「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。」(10節)
  天での戦いに天使長ミカエルとそのみ使いたちが勝利して、サタンは地に投げ落とされた。天にはいるところがなくなったからである。サタンはいよいよ追いつめられていくが、なお地において「イエスのあかしをもっている者たちに対して、戦いを挑む」のである。
だがこのことに先立って、私たちの主イエスは、身代わりの十字架によって、サタンの武器である罪と死とを無力にされた。だから主を信じ、主のあかしをもっている者にとって、神の勝利は確実である。「小羊の血」を しっかり持ち続けよう。
“主よ、すでにサタンへの勝利が与えられていることを感謝します。アーメン”
 

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2006年9月2日(土) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録13章1〜18節/ 年間通読:詩篇130〜134篇
「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。」(10節)
  地に投げ落とされたサタンであるが、なお「聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えら」れる(7節)。サタンやその使いを拝まなければ、物を買うことすらできないどころか殺される状況が示されている。そこでサタンを拝み、屈する者もある。
私たちは聖書のみ言葉につながっていないで「いのちの息」(11:11)がどこにあるのかを見誤ると、不思議な力や、権力、巧みな言葉に真の命を失ってしまう。日本には真の命を失わなかったキリシタンがいた。
“父よ、今も忍耐と信仰と思慮を与えて下さい。アーメン”
 

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2006年9月3日(主日) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録14章1〜20節/ 年間通読:詩篇135〜139篇
「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである」(13節)
  7節には「さばきの時がきた」ことが告げられている。死人がさいわいであるとは普通には考えられない言葉である。私たちは「死後」どうなるのかと非常に興味を持つが大切なことである。しかし正しい答えを見出している人は少ない。
聖書は、はっきりと告げている。主にあって死んだ人すなわちキリストの罪の赦しを受けた人は「労苦を解かれて休み」を得、新しい賛美を神と小羊とにささげる。造られた方を拝まない者は、代々限りなく続く苦しみの中で休むことができない。
死は終わりではない。あなたは裁きをどのようにうけるのだろうか。
“主よ、贖いの業を賛美します。アーメン”
 

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2006年9月4日(月) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録15章1〜8節/ 年間通読:詩篇140〜143篇
「すると、聖所は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされ、七人の御使の七つの災害が終ってしまうまでは、だれも聖所にはいることができなかった」。(8節)  
  これは4つの生き物の一つが、永遠の神の激しい怒りの7つの金の鉢を7人の御使に渡したときに起こったのである。最後のときが来て、聖所は神の栄光と臨在に満たされたのであった。
神はその絶対主権によって、人に審判を下す故に、人は誰もそれに関わることはできないのである。
私たちはこの神に対して、ひれ伏し、全き従順である以外なすべき事はないのである。
“主よ、あなた御前にひれ伏させて下さい。アーメン”
 

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2006年9月5日(火) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録16章1〜21節/ 年間通読:詩篇144〜147篇
「わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、『全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります』」。(7節)
  さばきは神の絶対主権によってなされるのであるが、その神のさばきについて、なんと、ものを言わないはずの祭壇が「あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」と証言したというのである。神のさばきが間違いなく正しいので、“石が叫ぶ”とあるように(ルカ19:3)、祭壇が語ったということである。神のさばきは、真実であり、正しいのである。
“父なる神さま、あなたのの真実なさばきを心から感謝します。アーメン”
 

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2006年9月6日(水) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録17章1〜18節
年間通読:詩篇148篇〜箴言1章
「彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。(14節)
  大淫婦とはローマ帝国を指している。王とはローマの皇帝の事ととることが出来る。既に去った5人はアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロをさし、更にヴェスパシアヌス、ティトウス、そしてドミティアヌスと続くのである。彼らは小羊であるイエスに反抗したが、小羊が勝利し、またクリスチャンも勝利を得るのである。
“主よ、あなたが主の主、王の王であることを感謝します。アーメン”
 

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2006年9月7日(木) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録18章1〜24節/ 年間通読:箴言2〜5章
「天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。(20節)
  都ははサタンの都であり、その座であった。ローマはその象徴であった。その都が滅ぼされたのであるから大いに喜ぶのである。サタンに対する勝利であるから喜ぶのである。
私たちの戦いは血肉をもった人間でなく、その人間を虜にしている罪であり、悪の霊との戦いなのである(エペソ6章)。人の滅びは悲しんでも、サタンの滅びは喜ぶべきなのである。
“主よ、私たちを高ぶりと欲望の満足というサタン的なものから離れさせて下さい。アーメン”
 

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2006年9月8日(金) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録19章1〜21節/ 年間通読:箴言6〜9章
「彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。(8節)
  花嫁とは教会のことであり、私たちのことである。小羊との婚姻に与るための用意が出来たのである。花嫁は「光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された」のであった。そして、このそのような麻布の衣こそ、「聖徒たちの正しい行い」なのである。
ここでも信仰による正しい行いが言われている。神の御心にかなった正しい、きよい歩みこそ、クリスチャンが着るべき、衣なのである。
“主よ、私たちも光り輝く衣を着て、小羊との婚姻に与るものとして下さい。アーメン”
 

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2006年9月9日(土) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録20章1〜15節/ 年間通読:箴言10〜13篇
「この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する」。(6節)
  ドイツで、ヒットラーと戦ったリルイェ牧師は“「千年王国」の信仰は分派だけでなく、およそキリストの教会ならば皆この信仰に生きた”と記している。
終末の順序は空中再臨(復活もある)、大艱難時代、地上再臨、サタンの幽閉、第一の復活(殉教者)、千年王国、第二の復活(審きのため)、最後の審判、新天新地(第二の死)と考えられる。
“主よ、あなたが確実に勝利する事を感謝します。アーメン”
 

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2006年9月10日(主日) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録7章1〜17節/ 年間通読:箴言14〜17章
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(3,4節)
  新天新地が現れるのである。まさに天国が現実そのものとなるのである。しかし、第二の死があり永遠のさばきによる苦しみがあることをしっかりと心にとめるべきである。
聖なる都エルサレムであらわされている天国に入るために小羊のいのちの書に記されることが必要である。
“主よ、わたしの名をいのちの書から取り除かないで下さい。アーメン”
 

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2006年9月11日(月) 聖書の箇所:ヨハネ黙示録 22章1〜21節/ 年間通読:箴言18〜21章
「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。」(17節)
  聖書最後の章である。前章に続いて天国について記されている。その中心は神と小羊なるキリストである。そこからいのちの水の川が流れている。私たちはこの神の国に入れられ、主と同じ栄光の姿に変えられて、代々限りなく主を礼拝するのである。
御子は繰り返し「わたしはすぐに来る」と語っている。「きたりませ」と答えて主の来臨を今か今かと待ち望んでいるのがキリストの花嫁、教会である。そして今も主は、すべての人を魂の渇きをいやすいのちの水へと招いておられる。
“神様、いのちの水への招きを感謝します。主よ、来て下さい。アーメン”
 

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2006年9月12日(火) 聖書の箇所:創世記 1章1〜31節/ 年間通読:箴言22〜25章
「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。」(26節)
  聖書が最初に記していることは、神様がすべての生き物を含めて天地を創造されたことである。ここに全知全能の神様が表されているが、人については、「われわれのかたちに、われわれにかたどって」造られた特別な存在であることを示している。
他のものとは違い、神様と対話できる存在として造られている。そしてすべての造られた物は、人に与えられ、治めるようにと信頼し委ねられている。
“父よ、あなたと対話できることを感謝します。アーメン”
 

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2006年9月13日(水) 聖書の箇所:創世記 2章1〜25節/ 年間通読:箴言26〜29章
「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。」(3節)
  2章では天地創造を別の角度から見ている。神様は七日目を祝福し、聖別された。それは6日間の創造のわざが「はなはだ良かった」(1:31)ことを受けている。
私たちが神様から与えられたものは、すべて良いものであった。与えられている土地も、木も食べ物も良いものであった。エデンの園での耕作も良いものであった。また神様との約束も良いものであり、夫婦の関係も良いものであった。
現代、日曜日を聖別し、神様が私たちに下さった祝福を覚え、あるいは救い主によって失った祝福を取り戻し、主の前に憩う時としたい。
“主よ、多くの祝福を感謝します。アーメン”
 

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2006年9月14日(木) 聖書の箇所:創世記3章1〜24節
年間通読:箴言30,31章、伝道の書1章
「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。(1節)
  堕落、そして人の罪と死の始まりである。神様が人に与えられた大切なものの一つに自由意志がある。自由がなければ、自立はない。だからその自由をどのように用いるかが問われている。
悪魔は、神様の言葉を疑わせ、否定する。どちらか選ぶのも自由である。アダムとエバは「神のように」なる誘惑に負け、取り返しのつかない「死」という代償を払うことになってしまった。逃れられない死に束縛され自由をも失った。
 今も私たちは何を選択するか問われている。だが神様はここに救いの計画を始められた。
“神様、み言葉に従い正しい選択ができますように。アーメン”
 

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2006年9月15日(金) 聖書の箇所:創世記 4章1〜26節/ 年間通読:伝道の書2〜5章
「だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。」(15節)
  主は人を造られた時、彼らを祝福して「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、、」(1:28)と言われた。エデンの園を追放された彼らに新しい命の誕生はどんなに大きな喜びであっただろうか。
しかし罪によって暗転させられてしまった。罪と死は子らにも受け継がれ、現れてきた。神との約束を破り、断絶されたはずの神との関係。弟を殺し「私の罰は重くて負いきれません」と告白するカインに対し、なお語りかけ慈しみを注がれる主。
この主が罪を重ねる私たちに、今も語りかけ、キリストにある救いの手をさしのべている。使徒16:31。
“主よ、罪深い私への慈しみを感謝します。アーメン”
 

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2006年9月16日(土) 聖書の箇所:創世記 5章1〜32節/ 年間通読:伝道の書6〜9章
「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(24節)
  アダムの系図が記されている。驚くほどの長寿については諸説があるが、一人一人最後に「そして彼は死んだ」(5節他)とある。どんなに長生きしたとしても、誰であっても、どう生きるかどう死ぬかが問われている。
ところがここに「死んだ」と記されていない人がいる。エノクである。彼は「死を見ないように天に移された。」(ヘブル11:5)。
私たちも主が再び来られる時、生きて天に上げられ主に再会する(第1テサロニケ4:17)。主の再臨に望みを置きつつ、死を打ち破られた主のよみがえりの信仰を後代へ継承してゆきたい。
“神様、神様と共に歩み、再臨を待ちます。アーメン”
 

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2006年9月17日(主日) 聖書の箇所:創世記 6章1〜22節
年間通読:伝道の書10〜12章、第1テモテ 1章
「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(9節)
  現代は絶対的な価値観を否定し、相対的に物事を捉える時代である。確かに人を見たら絶対に正しいものはないであろう。しかし聖書はノアを「全き人であった」と評している。
悪い時代にあって、人一倍正しい人であったとしても、完全無欠で失敗がなかったということではない。それは神様に向かう姿勢を表している。真正面から絶対者なる神様のお言葉を受け取り、愚かと見えても箱舟を作り上げた。(22節)。
聖書の言葉を「私」に語られている言葉としてその通りに受け取って、行っていこう。
“父よ、み言葉をしっかり聞きます。全くその通りにします。アーメン”
 

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2006年9月18日(月) 聖書の箇所:創世記7章1〜24節/ 年間通読:第1テモテ2〜:5章
「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである」。(1節)
  箱舟が完成したことによって、救いが備えられたのであった。主は6章18節で約束されたように、ノアとその家族が救いのために箱舟に入ることを命じなさった。それは、乱れて、罪と悪がはびこっている時代の中において、ノアは正しく、全き人であった(6:9)からであった。ノアの故にその家族も救いに与ったと言える。
それ故、ノアはキリストの型であり、箱舟は教会の型である。
“主よ、私たちが教会にしっかり留まらせて下さい。アーメン”
 

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2006年9月19日(火) 聖書の箇所:創世記8章1〜22節
年間通読:第1テモテ6章,雅歌1〜3章
「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた」。(1節) 
  「こころをとめられた」とは「思い続けておられた」という意味である。神のあわれみの故に、守り、養って下さると考えられる。
また、そのことの故に、洪水という審判に終りをきたせる事でもあった。神さまは、神の民に対して、このように、特別な顧みをもっていて下さる事を覚えたいものである。そして、必ず、審判の終りがあり、束縛からの解放がある事を知るべきである。
“主よ、あなたが、あなたの民と生き物と家畜を心に留めたていて下さる事を感謝します。アーメン”
 

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2006年9月20日(水) 聖書の箇所:創世記9章1〜29節/ 年間通読:雅歌4〜7章
「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。(11節)
  この洪水は肉なるものを滅ぼすことがなく、あのようなな洪水が二度と起こることがないということである。これは、神の一方的な契約である。民が正しくなったのでなく、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。
人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」(8:21)とあるように、これは、あくまでも、神のあわれみによるのである。
“主よ、あなたの大いなるあわれみを感謝します。アーメン”
 

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2006年9月21日(木) 聖書の箇所:創世記10章1〜32節
年間通読:雅歌8章、第2テモテ1〜3章
「これらはノアの子らの氏族であって、血統にしたがって国々に住んでいたが、洪水の後、これらから地上の諸国民が分れたのである」。(32節)
  ここで、洪水後は、ノアがすべての人類の祖先になったことが言われている。ノアの子供、ヤペテとハムとセムの系図が記されている。ヤペテが黄色人種、ハムが黒人、セムが白人の先祖と考えることが出来るが、これは、今の世界の人種と一致するところがあるのである。
しかし、キリストの救いにおいては、一切の差別はないということをもう一度確認しておきたいと思う(ガラテヤ3:28)。
“主よ、キリストにあってみな一つとされることを感謝します。アーメン”
 

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2006年9月22日(金) 聖書の箇所:創世記11章1〜32節
年間通読:第2テモテ4章,イザヤ1,2章
「これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた」。(11節)
  バベルとは神の門という意味で、70人訳ではバビロンと訳している。バビロンは政治的傲慢、快楽、迷信、富、滅び、サタン等の象徴で神の審判の対象である。
一つの言語で高い塔を作って一致することは、神の目からすれば、罪と傲慢さを強固にすることであったのである。罪を持ったまま一つとなることは徒党であり野合なのである。
“主よ、あなたにあって、全く聖なるものとされて、皆が本当にひとつとならせて下さい。アーメン”
 

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2006年9月23日(土) 聖書の箇所:創世記12章1〜20節/ 年間通読:イザヤ3〜5章
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」。(2節)
  12章はアブラムの聖別と選びが記されている。その目的は祝福の基となるということであった。そのために大いなる国民とされ、祝福され、多くの子孫が出るようになるのである。
祝福を分け与えるために祝福が与えられるのである。決して独り占めしては、ならないのである。ガリラヤ湖に注ぐ川があると共に、注ぎ出る川もあるのである。それ故、多くの魚が住み、たくさん獲れるのである。
“主よ、私たちも祝福の基とさせて下さい。アーメン”
 

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2006年9月24日(主日) 聖書の箇所:創世記13章1〜18節/ 年間通読:イザヤ6〜9章
「すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」。(4節)
  アブラムは妻を妹といって、失敗したが、神のあわれみの故とサライの故にエジプトから、多くの金銀と持ち物を持って出て来る事が出来たのであった。
そして彼がまず行ったのは、初めに築いた祭壇の所であった。祭壇とは犠牲をささげて、神を礼拝する場所である。神を礼拝することから、すべてのことが始まるのであり、そこに祝福があるのである。彼は「主の名を呼んだ」とあるように、実質のある神により頼む信仰生活を、彼は再び始めたのであった。
“主よ、まず礼拝を第一とさせて下さい。アーメン”
 

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2006年9月25日(月) 聖書の箇所:創世記14章1〜24節/ 年間通読:イザヤ10〜13章
「アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。」(20節)
  アブラハムは、甥ロトを助けるために戦いに出て行った。私たちの信仰生活は、国や社会の大きな流れと無縁なものではなく、時にはその流れに呑まれてしまうように感じることさえある。またアブラハムは大国の軍勢に手勢で向かっていった。そして勝利して帰ってきた時、十分の一を神様にささげた。
信仰は、世の流れに迎合するのではなく、また内面の自由と実際の行動を別の原理で進めるものでもない。国々の支配者たる主を仰ぎつつ、現実に正面からぶつかっていったのである。だから感謝のあふれた贈り物が出てきた。
“全能の神様、心から捧げます。アーメン”
 

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2006年9月26日(火) 聖書の箇所:創世記15章1〜21節/ 年間通読:イザヤ14〜17章
「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」(6節)
  アブラハムは老齢になっても子がなかった。またシナルの王との戦いもあり報復攻撃をも恐れていた。しかし、神様が子孫を天の星のように数えられないようにすると言われた時、主を信じた。主の言葉というよりも、主御自身を信じた。そして神様からよしとされた。
今も、私たちが、キリストによるあがないとよみがえりを信じる者を、義として、罪のない者と認めて下さる。それは現実はどうであれ、神様は約束されたことを成就されるお方であるとの信仰に立つことでもある。神様の約束を信じよう。
“父よ、私に約束されたことを必ず成就して下さることを感謝します。アーメン”
 

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2006年9月27日(水) 聖書の箇所:創世記16章1〜16節/ 年間通読:イザヤ18〜21章
「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」(13節)
  アブラハムの失敗。神様が子を与えるという約束を自分勝手に解釈し行動してしまった。ここで人生を翻弄されたのが女奴隷ハガルであった。アブラハムの行動は当時の社会習慣にかなったことであったが、女奴隷から跡継の妊娠、女主人を見下し、傷つけ、憎まれ、苦しめられ、身重のまま逃げ出すのであった。
私たちも思いもよらない出来事で人生を翻弄されることがある。だがハガルは翻弄される人生の中で神様と出会ったのだ。主の言葉は「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」(9)。
“主よ、主を拝したので耐えられます。へりくだります。アーメン”
 

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2006年9月28日(木) 聖書の箇所:創世記17章1〜27節/ 年間通読:イザヤ22〜25章
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(1節)
  神様からの契約の更新である。アブラハムは、イシマエルを約束の子と思っていたが、神様の思いは違っていた。み思いと違うことに気づきもしないアブラハムに対して、「全き者であれ」と語り、間違いを正すのであった。
神様の約束は、正妻サラから生まれる子が祝されるということであった。神様は、この約束の究極として、御子イエスによる全人類の救いへの道を成就された。たとえ、自分の目に約束のみ言葉が違った方に行っているように見えても、その約束は変わってはいないのである。
“神様、約束が変わらないことを感謝します。約束を信じ続けます。アーメン”
 

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2006年9月29日(金) 聖書の箇所:創世記18章1〜33節/ 年間通読:イザヤ26〜28章
「時に主は言われた、『わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。』」(17節)
  神様との契約は、一方的な恵みと祝福といえる。しかし主は私たちがあたかも対等な者であるかのように、なそうとすることを、知って欲しい、共に負って欲しいと願っておられる。
ここには、叫びを聞かれる神様、裁き主なる神様、一人の滅びをも喜ばれない神様のみ思いが表されている。
私たちにひとり子を賜わった神様は今、あなたにそのみ思いを表したいと願っておられる。そのみ思いを知って、アブラハムのようにとりなす者、キリストのみ足の跡歩む者を求めている。
“主よ、小さな僕に過ぎませんが、主のみ思いを共に負わせて下さい。アーメン”
 

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2006年9月30日(土) 聖書の箇所:創世記19章1〜38節/ 年間通読:イザヤ29〜30章
「神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。」(29節)
  とりなしの祈りが聞かれ、ロトが救い出された。喜び一杯のはずだが、何とも言えない後味の悪さである。ロトの生涯を振り返ると、神の義を覚えつつも、世の富みに心を引かれ、義の力を失っていく姿が見える(12〜13章も参照)。
自ら潤ってはいるが罪に満ちたソドムとゴモラを選んで移住した。神の僕である旅人を助けようとするが力もなく、滅びから逃れようとする意志もとても弱かった。私たちももしかして、この世と妥協し、神の義を曖昧にし、罪を黙殺し、救いの力を失ってはいないだろうか。17章1節。
“神様、十字架の救いに、徹底して立たせて下さい。アーメン”
 

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