デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年10月のデボーション
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2006年10月1日(主日) 聖書の箇所:創世記20章1〜18節/ 年間通読:イザヤ31〜33章
「わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、、、」(6節)
  この章もまたアブラハムの失敗である。12章でエジプトへ下った時もそうであったが、ゲラルの地で、妻サラを妹と言った。サラをアビメレク王が召し入れた時、神様が王に夢で語られ、王も民も、アブラハムもサラも守られたのであった。アブラハムは妻を取られ、自分は殺されはしないかと心配していたのである。
私たちも、いろいろな危害が加えられないかと心配したり、人を信用できなかったりする。しかし神様は、信じる者だけでなく、信じていない者をも治める造り主なるお方である。
“父よ、人を恐れて罪を犯すことがありませんように。
 守り治めたもう主に目をとめます。アーメン”
 

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2006年10月2日(月) 聖書の箇所:創世記21章1〜34節/ 年間通読:イザヤ34〜36章
「アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった」。(5節) 
  イサクとは“彼は笑う”という意味である。これは約束(18:10)の成就の笑いであり、祝福と恵みの笑いであった。神は不信仰の笑い(18:12)を信仰の笑いに変えて下さった。
サラはこの時90歳くらいであったと思われる。不可能なことが可能になったのであった。絶望の中に、希望を見出したという事であった。このことはキリストの処女降誕へとつながっているのである。
神の御言葉に望みをおこうではないか。約束を信じ続けようではないか。
“主よ、あなたの御言葉を信じ続けさせて下さい。アーメン”
 

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2006年10月3日(火) 聖書の箇所:創世記22章1〜24節/ 年間通読:イザヤ37〜39章
「アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った」。(8節)
  信仰の言葉ととることが出来る。そして、これは、既に、復活の信仰にもつながっていたのであった。「イサクから生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです」(創世記21:12)との約束の故に、「彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていた」(へブル11:19)のである。正に、彼はこの神、すなわち、死人を生かし無から有を呼び出される神を信じた」(ローマ4:17)のであった。
“主よ、あなたの全能を本当に信じさせて下さい。アーメン”
 

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2006年10月4日(水) 聖書の箇所:創世記23章1〜20節/ 年間通読:イザヤ40〜41章
「このように畑とその中にあるほら穴とはヘテの人々によってアブラハムの所有の墓地と定められた」。(20節)
  サラが死んだ。アブラハムは墓地を求めた。400シケルとあるが、高い値段と言われる。商売の巧みさが窺える。アブラハムはそれを手に入れたのであった。これは神さまからこの地があたえられる先取りであると共に、復活を待つ場所なのである。
こういうことから言えば、高くても、別の価値観でもって買ったと考えられる。神の御業のために、アブラハムを見習いたいものである。
“主よ、神のために、喜んで犠牲を払わせてください。アーメン”
 

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2006年10月5日(木) 聖書の箇所:創世記24章1〜67節/ 年間通読:イザヤ42〜43章
「アブラハムのしもべは彼らの言葉を聞いて、地に伏し、主を拝した」。(52節)
  アブラハムのしもべはラバンとベトエルの「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。 リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください」(51、52)という言葉を聞いて、「主が、このことの中に、祈ったように働いて下さったのだ」と悟って、まず神に感謝するためにひれ伏して拝したのであった。本当にすばらしいしもべであった。
“主よ、まず神さまを第一として、神に感謝するあなたのしもべとして下さい。アーメン”
 

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2006年10月6日(金) 聖書の箇所:創世記25章1〜34節/ 年間通読:イザヤ44、45章
「そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた」。(34節)
  へブル書には「一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい」(12:16)とある。ヤコブは確かにずるいと言えるがイサクが責められているのを見る。大事な長子の権を食べ物のために売ってしまったのがエソウだからである。
私たちも救いをなおざりにしないようにしなければならない。
“主よ、欲に負けないようにして下さい。アーメン”
 

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2006年10月7日(土) 聖書の箇所:創世記26章1〜35節/ 年間通読:イザヤ46〜48章
「イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので」。(12節)
  イサクは父アブラハムと同じようにその妻リベカを妹だとペリシテ人の王アビメレクに対して嘘をついてしまった。イサクは「わたしは彼女のゆえに殺されるかもしれないと思ったからです」(9)と弁解をしている。
主はそんなイサクを大いに祝福されたのである。なぜだろうか?それはエジプトに行かないで神が示す地に留まったからであろうと思われる。さて、嘘が責められていないのは、命を守ることを優先的に扱ったからではないか。
“主よ、あなたのみ言葉に従わせて下さい。アーメン”
 

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2006年10月8日(主日) 聖書の箇所:創世記27章1〜46節/ 年間通読:イザヤ49〜51章
「どうか神が、天の露と、地の肥えたところと、多くの穀物と、新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように」。(28節)
  ヤコブの最後の祝福の祈りである。ヤコブはイサクのために祈っている積りが、ヤコブがごまかして、祈ってもらってしまったのである。しかしエソウは長子の権を売ってしまっていたので、もう祝福の祈りを受ける実質を既に失っていたのであったのであろう。
こうして、“兄は弟に仕える”と言う神の選びが実現して行くのであった。何という厳粛なことであろうか。
“主よ、あなたの選びと祝福の中におらせて下さい。アーメン”
 

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2006年10月9日(月) 聖書の箇所:創世記28章1〜22節/ 年間通読:イザヤ52〜55章
「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」(16節)
  ヤコブは父の祝福を受けつつ、しかし怒るエサウを避けて遠くの叔父のもとへと旅だった。そしてその途上ベテルで貴重な体験をする。一言で言えば、「主との出会い」である。ヤコブは長年、長子の権、祝福によって表されている神様からの恵みと約束を受け継ぐことを切望しそれを得た。だがその実質である主を知らなかった。
聖書にあるキリストの十字架による赦しと復活の命の約束、これも頭だけで理解するのものではない。聖霊により主と出会い、心に注がれて初めてわかるものである。
“主よ、心に主の愛が注がれ、実質のあるクリスチャンとして下さい。アーメン”
 

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2006年10月10日(火) 聖書の箇所:創世記29章1〜35節/ 年間通読:イザヤ56〜58章
「彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名づけた。」(35節)
  ヤコブ、叔父ラバンのもとへ到着。生活のよりどころを得る一方で、叔父に欺かれ、妹ラケルだけでなく、姉レアとも結婚することになる。さまざまな家庭のひずみが生まれてきた。そのような中で「主はレアがきらわれるのを見て、その胎を開かれた」(31節)。レアがどれ程に夫の愛を得ようと願ったことか。第四子を生んだときには、ただ主を見上げた。
健全な家庭の建設、これはやはり神様の限りない愛と赦し、ここにあなたが立つほかあり得ない。コロサイ3:18〜。
“父よ、家庭の歪みを直し、主の愛により赦しと喜びに満たして下さい。アーメン”
 

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2006年10月11日(水) 聖書の箇所:創世記30章1〜43節/ 年間通読:イザヤ59〜61章
「そして自分の群れを別にまとめておいて、ラバンの群れには、入れなかった。」(40節)
  なお続く歪みの中にヤコブは12人の子が与えられる。また約束の14年が過ぎ、叔父ラバンとの間に報酬が決められる。ここに自我が現れる。
妻を得た奉公としての14年間ヤコブはラバンのために実に良く働いた。その功績は大きい。だが半ば独立し、報酬が与えられたとたんに、自分の群とラバンの群を区別し、自分の群だけが強く増えるようにしたのだ。もちろんラバンの仕打ちもあったであろうが。人に仕える難しさがある。やはり主の愛とゆるしを覚えることなしに、なし得ない。コロサイ3:22〜。
“主よ、職場でも誰にでも主に仕えるようにできますように。アーメン”
 

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2006年10月12日(木) 聖書の箇所:創世記31章1〜55節/ 年間通読:イザヤ62〜64章
「主はヤコブに言われた、「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう」。」(3節)
  ヤコブの郷里カナンへの出発。叔父や叔父の子たちとの対立が激化する中での出発となった。だがここで大切なことは、自分の意志や決断で出発したのではないことである。主の言葉を聞いて出発したことだ。ヤコブは要所ではしっかり主の言葉に聞いている。
家庭内の様々な問題、叔父との対立、臆病、欺きなど足りないところは多々あるが、「あなたと共にいる」「この地に連れ帰る」(28:15)との神様の約束は変わらなかった。ラバンからも守られた。
“神様、不完全な者への、臨在と永遠の命の約束を感謝します。アーメン”
 

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2006年10月13日(金) 聖書の箇所:創世記32章1〜32節/ 年間通読:イザヤ65〜66章
「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。」(28節)
  22節からの部分は、ヤボクの渡しでの格闘である。ペニエルの経験とも言われる。ヤコブは祝福の約束を持っていたが、いつも恐れと不安に満ちていた。エサウとの関係である。これをどうしても避けられなくなったのがこのヤボクの渡しである。
この神様との一夜の格闘で、自分はヤコブ(かかとをつかむ者、あるいは押しのける者の意)と認めた、しかし主は彼のもものつがいをはずしかつ祝福し「イスラエル(神は争われる、あるいは神の皇太子の意)」と変えてくださった。私たちは、神様と真剣に格闘する要がある。
“主よ、祝福をはっきりいただく者として下さい。アーメン”
 

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2006年10月14日(土) 聖書の箇所:創世記33章1〜20節
年間通読:テトス1〜3章、エレミヤ1章
「みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。」(3節)
  兄エサウとの再会。32章では、家族を心配しつつも、贈り物を先立たせ、家族を先に渡らせた。しかしここでは、自らが先頭に立って進み、エサウの前に出た。
「七たび身を地にかがめ」ることは、臣従の礼である。贈り物をもってなだめるということの前に、自らへりくだって、かつての非を認め和解を求めている。それが、4節にあるようにエサウとの厚い壁を突き崩し、和解へ至らせた。ヤコブを変えたのはペニエルの経験であった。人に対して非なるところがあればそのままであってはならない。
“神様、あなたに触れられ、心から謝罪し人と和解できますように。アーメン”
 

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2006年10月15日(主日) 聖書の箇所:創世記34章1〜31節/ 年間通読:エレミヤ2〜3章
「こんなことは、してはならぬ事だからである。」(7節)
  ヤコブの娘デナが、町に出かけ、シケムが彼女と寝て辱めた。そして結婚を求めた。デナの兄弟たちは怒り町の男を皆殺しにする。主が定められた男女の関係を超えたところに、古今東西いやしがたい傷、悲しみ、怒り、罪の連鎖がある。ただ一つ言えることは「彼(キリスト)は、、、われわれの悲しみをになった」(イザヤ53:4)ということだ。これらは主がすべて十字架の上で負って下さったのだ。「しかし彼は、、、われわれの不義のために砕かれたのだ。」「その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(同5節)
“主よ、悲しみを担って下さったことを信じます。アーメン”
 

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2006年10月16日(月) 聖書の箇所:創世記35章1〜43節/ 年間通読:エレミヤ4〜5章
「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」。(1節)。
  ベテルはヤコブの信仰の出発点で、恐れと寂しさの中にあった時、神と出会った所である。
神さまはそこに祭壇を造りなさいと言われたのである。祭壇は神に犠牲を供え、献げものをし、香をたく為に、神との特別なかかわりを持った出来事を記念して、石や、土で造った壇である。私たちも神の特別な恵みを記念して、神の前に出、記念の供え物などをすることは恵みを忘れないだけでなく、新たにする事でもある。
“主よ、恵みを新たにして下さい。アーメン”
 

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2006年10月17日(火) 聖書の箇所:創世記36章1〜43節/ 年間通読:エレミヤ6〜7章
「こうしてエサウはセイルの山地に住んだ。エサウはすなわちエドムである。」(8節)
  エサウの系図とその子孫の繁栄が記されている。エサウはセイルに既に住んでいたようであるが、ここには、家畜が多くて支えることが出来なかったので、セイルの山地に住むようになったとある。
「わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、あなたに与えよう。またあなたの後の子孫にその地を与えよう」(35:12)とのヤコブへの約束がむしろ、エサウが摂理のうちにヤコブに譲歩する事によって実現して行ったのであった。
“主よ、あなたの約束をあなたの方法で実現させて下さい。アーメン”
 

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2006年10月18日(水) 聖書の箇所:創世記37章1〜36節/ 年間通読:エレミヤ8〜10章
「わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました。」(7節)
  ここからヤコブの子である夢見るヨセフのことが記されている。その夢がこの7節である。もう一つは、9節である。彼は、父ヤコブの自分への偏愛と、自分に対して兄弟たちと父母が地に伏して拝むという夢を臆することなく語った故に、兄弟たちに憎まれ、殺されかけたが、奴隷として売られた。しかし、神のヨセフへの夢の実現の御業は既に始まっていたのであった。
“主よ、あなたの計り知ることの出来ない救いの御計画を感謝します。アーメン”
 

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2006年10月19日(木) 聖書の箇所:創世記38章1〜30節/ 年間通読:エレミヤ11〜13章
「ユダはその所で、名をシュアというカナンびとの娘を見て、これをめとり、その所にはいった」。(2節)。
  アドラム人はカナンの民である故、そこの娘と結婚することは、神さまに喜ばれることではなかった。それだけでなく、ユダは息子の嫁との間に子を生むという事までもしてしまったのであった。これは罪であり悪である。
しかし、タマルも、その生まれた子ペレズもメシアの系図に名が記されているのである(マタイ1:3)。これはキリストによる罪からの救いと異邦人の救いを表わすものと言えるのである。
“主よ、あなたのあわれみによる救いを感謝致します。アーメン”
 

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2006年10月20日(金) 聖書の箇所:創世記39章1〜23節/ 年間通読:エレミヤ14〜16章
「主がヨセフと共におられたので」。(2節)。
  “主が共におられる”とは信仰の秘訣であり、祝福の原点である。ヨセフは奴隷の身でありながら、主人は主がヨセフと共におられるのと主が彼の手のすることをすべて栄えさせるのを見て、すべて任されたのであった。その時から更に一層そのエジプト人の家を恵まれたのであった。
ところが、彼はそんな中で誘惑にあった。けれども、彼はそれを完全に退けた。その為に、濡れ衣を着せられ、今度は牢獄にまで入れられてしまった。
しかし、“主が共におられて”、そこでも恵みを受けたのであった。
 “主よ、あなたが共にいて下さることを感謝します。アーメン”
 

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2006年10月21日(土) 聖書の箇所:創世記40章1〜23節/ 年間通読:エレミヤ17〜19章
「ヨセフは彼らに言った、『解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください』」。(8節)
  ヨセフが入れられた地下牢に王の給仕役と料理役とが入ってきた。彼らは夢を見たが、解いてくれる者がいないので悩んでいた。しかし、ヨセフは“解くことは神による”と言って、その夢を解いてやったのであった。
そしてそのとおりに、給仕役は元の職に戻り、料理役は殺されてしまった。「わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、」(14節)とヨセフは頼んでいたが料理役は忘れてしまったのであった。
“主よ、あなたの時を忍耐をもって、待ち望ませて下さい。アーメン”
 

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2006年10月22日(主日) 聖書の箇所:創世記41章1〜57節/ 年間通読:エレミヤ20〜22章
「また次の子の名をエフライムと名づけて言った、「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」。(52節)。
  ヨセフは今度はパロ王の夢を解き、王からエジプトのつかさに任じられたのであった。地下牢に閉じ込められていて、忘れ去られていたヨセフであったが、神は覚えており、彼に夢によって示していた神の御計画を着々と実行に移しつつあったのである。
神は神の方法によって御計画を実現なさるのである。さて、このヨセフの生涯はイエスキリストの型である。地下牢はイエスさまが死んで陰府に降った事を表し、上げられてつかさになった事は復活を表すと言える。
“主よ、御心をなして下さい。アーメン”
 

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2006年10月23日(月) 聖書の箇所:創世記42章1〜38節/ 年間通読:エレミヤ23〜25章
「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、」(9節)
  エジプトの宰相になったヨセフのところに兄たちがやってきて「地にひれ伏し、彼を拝した。」(6節)。長い苦しみの時を超えて、37章の夢が成就したのであった。夢を解き明かす力を神様から与えられたヨセフ(41:16)である。この時がやってくるとわかって、待ち望んでいたことであろう。
新約のこの時代、神様は、聖霊によって、クリスチャンはだれでも、聖書のみ言葉によって、み旨を知ることができるようにされた。み言葉を握るためのディボーションである。自他へのみ言葉の成就を見させていただこう。
“主よ、み言葉が成就する時まで、しっかりと握らせて下さい。アーメン”
 

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2006年10月24日(火) 聖書の箇所:創世記43章1〜34節/ 年間通読:エレミヤ26〜28章
「もし、、、なら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。」(9節)
  ユダが父ヤコブに対して、ベニヤミンの身を保障した言葉である。罪の性質をよく知った人の言葉である。もしベニヤミンが帰って来られなければ、それは他の何物によっても償うことができない。自分の命をもっても、彼の存在に変えることはできない。ただその結果を身に負い続ける他ない。ユダはそれを直視している。それに対してルベンは、自分以外に原因を求めて、直視していない(42章)。この何にも変えられない永久の罪を、キリストは、私たちに代わって負って下さった。
“父よ、罪の大きさを感じ、ますます赦しの大きさを感じます。感謝します。アーメン”
 

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2006年10月25日(水) 聖書の箇所:創世記44章1〜34節/ 年間通読:エレミヤ29〜30章
「どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、、」(33節)
  なんとかベニヤミンを助け出そうとするユダの言葉である。ユダは、申し開きをしつつも、ベニヤミンの代わりに、自分が奴隷になるので、ベニヤミンを帰らせて欲しいと必死で訴えた。父との約束というよりも、「父が災いに会うのを見るに忍び」なかった(34節)からである。
天の神様も、私たちが、罪のために、その奴隷となり、永遠に滅びることを見るに忍びなく、御子イエスを遣わし、罪の身代わりとして下さった。そして、赦された者に、赦す主のみ思いを知ってこの福音を共に担って欲しいと願っておられる。
“主よ、この小さい者も、主の福音を担えることを感謝します。アーメン”
 

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2006年10月26日(木) 聖書の箇所:創世記45章1〜28節/ 年間通読:エレミヤ31〜32章
「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」(5節)
  ユダの訴えに対するヨセフの応答。ここには、ヨセフを売り飛ばした兄たちへの赦しの宣言が含まれている。私たちは、いつまでも過去の失敗や罪を嘆き悔いやすい。また不当な扱いに恨みをいだき続けやすい。
 神様の望んでおられることは、そこに留まることではない。十字架による赦しの宣言を受け入れること、不当な扱いをも命の救いの働きに変えたもう主を見上げることである。
“神様、十字架による赦しを私へのものとして受け入れます。また主のご計画を信じ、恨みを捨てます。アーメン”
 

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2006年10月27日(金) 聖書の箇所:創世記46章1〜34節/ 年間通読:エレミヤ33〜35章
「あなたがなお生きていて、わたしはあなたの顔を見たので今は死んでもよい」。(30節)
  短いけれどもヨセフに再会した父ヤコブの喜びがあふれている。それまでヤコブは、ヨセフが失われたことをどれ程嘆いていたことだろうか(37:35、42:38他)。この章にはヤコブの子、孫、ひ孫ら、ヨセフも含め70人が記されている。しかしどんなに子孫の数か多くても、ヤコブにとって一人が失われたことは、よみに下るに等しい悲しみであった。それだけ再会の喜びも大きかったのである。
 父なる神様にとって、私たちの一人が失われることはどんな大きな悲しみであろうか。一人の救いは大きな喜びである。
“父よ、私にも大きな愛が注がれて感謝します。アーメン”
 

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2006年10月28日(土) 聖書の箇所:創世記47章1〜31節/ 年間通読:エレミヤ36〜38章
「ヤコブはパロを祝福した。」(7節)
  ベニヤミンが生まれた後、つまり妻ラケルの死後(35:19)のヤコブは、以前のように、人を欺きこそしないものの、まるでだだっ子のように、子たちをも手こずらせている。
しかしここでは、パロを祝福している。押しのける者から祝福するものへと変えられている。46章冒頭でもう一度主を礼拝したことが転機となっている。
 主への礼拝によって私たちは、神の子としての本来の姿に生きることができる。礼拝をおろそかにしてはならない。私たちは神の祝福、救いの命を、人々に手渡す神の使者である。
“主よ、今日接する一人一人に主の祝福を手渡せますように。アーメン”
 

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2006年10月29日(主日) 聖書の箇所:創世記48章1〜22節/ 年間通読:エレミヤ39〜42章
「神はあなたがたと共におられて、あなたがたを先祖の国に導き返されるであろう。」(21節)
  ヤコブはヨセフの子たちを祝福する。ヤコブは、父から受け継いだ祝福をヨセフの子たちマナセとエフライムとに引き継いでいく。ヤコブの生涯を見ると、たくさんの回り道をしているようである。最後に安住の地を得たように見える。しかし主の約束は「カナンの地に再び導きのぼる」ということであった。
  私たちの約束も御子と共に神の国を嗣ぐことである。ともすれば、この世の楽しみに、仕事に、財産に心を奪われ祝福を失う。主の再臨を待ち望みつつ、神様の祝福を家族や隣人に渡していこう。
“主よ、約束のゴールを見失うことなく、主の来臨を待ち望みます。アーメン”
 

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2006年10月30日(月) 聖書の箇所:創世記49章1〜33節/ 年間通読:エレミヤ43〜46章
「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」(10節)
  ヤコブは死ぬ日が近づいた時(47:29)、子供たちすべてを集め、彼らにこれから起こる良くない事も祝福された事も語った。ユダについてはユダが王権をとり、それがシロの来る時までに及ぶということである。
シロとは平和を意味し、真の平和をもたらすメシヤの到来の事である。カナンの地のアドラム人シュアと結婚し、嫁タマルとの間に子を設けたにも拘わらず、ユダ族からメシヤが来ると言う事なのである。
“主よ、あなたのあわれみを感謝します。アーメン”
 

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2006年10月31日(火) 聖書の箇所:創世記50章1〜26節
年間通読:エレミヤ47、48章、ルカ20章
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(20節)
  この章にはカナンの地にヤコブを葬った事及びヨセフが死ぬ時自分の骨を、カナンの地に携えていくことを誓わせた事がしるされている。カナンの地こそ神が与えて下さった彼らの地であり、故郷であり、それがアブラハムとの契約の如く、必ず、イスラエルの民に与えられると言う事をあらわすものである。
さて、この神は救いの為に、悪をも良きに変らせて下さるお方なのである。
“主よ、愛と全能のみ手をもって成就して下さる救いを感謝します。アーメン”
 

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