デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年11月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
     1  2  3  4  5
 6  7  8  9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

 
【今月のディボーション】 【ホームページへ】



 
 
2006年11月1日(水) 聖書の箇所:出エジプト1章1〜22節
年間通読:エレミヤ49、50章、ルカ21章
「助産婦たちは神をおそれたので、神は彼女たちの家を栄えさせられた。」(21節)
  これは解放の書、救いの書である。さてこの1章はイスラエルの民が移住してから400年ぐらい経た時の事で、「ヨセフのことを知らない王」(8)が起こったのであった。イスラエルの民は多くなったが奴隷として、過酷な労働が課せられたが、イスラエルの民はなお多くなっていった。そこで、助産婦に、男の子であれば、皆殺すように、王は命じた。しかし、彼女たちは、神をおそれたので、王の言う通りにはしなかった。そのなかで神の祝福を受けたのであった。
“主よ、あなたをおそれさせてくださいします。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月2日(木) 聖書の箇所:出エジプト2章1〜25節
年間通読:エレミヤ51章、ルカ22、23章
「その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、『水の中からわたしが引き出したからです。』」(10節)
  モ-セという名の由来がある。彼は名前からして、イスラエルの民をエジプトから引き出すものと既に選ばれていたのであった。モーセは王女の子なったのであった。これも神の不思議な御手によって、なされた事なのである。彼は王宮に於いて、当時の世界のトップクラスの学問や、その他の事を身につけたのであった。
“主よ、あなたの救いの御手を感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月3日(金) 聖書の箇所:出エジプト3章1〜22節
年間通読:エレミヤ52章、ルカ24章、ピレモン
「わたしは、有って有る者。」(14節)
  モーセは、宮殿で40年、荒野で40年過ごした。人間的な野心も、頑張りもなくなった頃、神と出会あったのであった。その神の名が「あってあるもの」であった。名とはその本質をあらわす。“有ろうとしてあるもの”、あるいは“有らしめるものとしてあるもの”という意味である。
神は自立自存の、絶対者という事であり、また、すべてのものの創造者と言う事でもある。当然のことであるが、あなたもこの神によって、この世に生を受けたのである。そしは、神の救いに与り、神の愛と恵みを受けるためなのである。
“主よ、あなたが私たちを愛していて下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月4日(土) 聖書の箇所:出エジプト4章1〜31節/ 年間通読:哀歌1〜2章
「そこでモーセは妻と子供たちをとり、ろばに乗せて、エジプトの地に帰った。モーセは手に神のつえを執った。」(21節)
  神のつえとは、羊を飼うために用いていたものであった。何のとりえもない、ごくありふれたものあった。それが、神の権威と力を現すものと変えられたのであった。であるから、つえそのものに、何かがあるのでなく、神にその力があり、その神への信仰が、その力を引き出すのである。私たちも、神にある時、神に握られる時変えられるのである。
“主よ、あなたを信じて、握りしめられ、神に用いられるものとして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月5日(主日) 聖書の箇所:出エジプト5章1〜23節/ 年間通読:哀歌3〜5章
「モーセは主のもとに帰って言った、」(22節)
  モーセとアロンはパロの奴隷からイスラエルの人々を救出しようとしたが、パロはイスラエル人にもっと厳しくあたり、民とモーセたちの関係は、前よりもっと悪い状態になってしまった。救出はそんなに簡単ではないのである。そこでモーセは、約束が違うではないかと言って、主の元にに帰って行ったのであった。
何かうまく行かなくなった時、神に帰るのが大切である。私たちも、遠慮なく、主の御前に帰る者でありたい。原点に戻る。出発点に帰ることが大切である。
“主よ、約束通りに行かない時、あなたの元に帰らせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月6日(月) 聖書の箇所:出エジプト6章1〜30節/ 年間通読:ヘブル1〜4章
「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(7節)
  9節を見るとイスラエルの人々は、「彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務のゆえに、モーセに聞き従わなかった。」とある。イスラエルの人々は、主に向かって叫び、主がその叫びを聞かれたが、心の痛み、苦しみ、体の疲れ、そして不信仰のために、神様のみ言葉を受け止め、従うことができなかった。だが、その中で、全能の神、主のご計画は進んでいた。
主は、私たちが苦しみ、不信仰な時に、御子を遣わし十字架によって救いの道を開いて下さった。主は今もあなたを愛し、救いの計画を進めておられる。
“主よ、私にも救いの計画があることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月7日(火) 聖書の箇所:出エジプト7章1〜24節/ 年間通読:ヘブル5〜8章
「すなわち主が彼らに命じられたように行(おこな)った。」(6節)
  第一の災い。モーセは、同胞イスラエルの思わぬ拒絶に会い、意気阻喪する(6:12)。しかし主が言われたことは、「あなたはわたしが命じることを、ことごとく彼に告げなければならない。」(2節)ということである。口が下手なモーセ、でもそのままでいい、話す言葉は私が教えると言われている。主は、私たちにも同じように語っておられる。
あなたの弱さ、足りなさ、そのままでいい、私が共にいる、私の言うように行いなさいと。自分の考え、言い訳を脇へやり、主のみ言葉を行おう。モーセは行った。
“父よ、心がくじかれていました。でも今主の言葉を行います。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月8日(水) 聖書の箇所:出エジプト8章1〜32節/ 年間通読:ヘブル9〜11章
「ところがパロは息つくひまのできたのを見て、」(15節)
  第二〜第四の災い。パロは主の災いが来ると、「わたしはこの民を去らせて、主に犠牲をささげさせるでしょう。」と神様の言葉を受け入れる。しかし、災いが取り除かれると再び「その心をかたくなにして彼らの言うことを聞かな」い(15節)。
 私たちはどうだろうか。悪いことが起こると、もう罪を犯しません、悔い改めます、主に従いますと言い、息つくひまができると、前のところに戻っていく。だがそれを断ち切るにために、主の十字架がある。主イエスが命を注いで、私と罪との間に立っておられる。
“主よ、息つき、戻ってしまう愚かさを十字架によって断ち切って下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月9日(木) 聖書の箇所:出エジプト9章1〜35節
年間通読:ヘブル12,13章、エゼキエル1章
「主の言葉を意にとめないものは、そのしもべと家畜を野に残しておいた。」(21節)
  第五〜第七の災い。なお神様からの災いは続いている。ある災いは警告なしに行われたが、あるものは、警告されている。第七の雹の災いも警告された。しかし主の言葉を意にとめない人は、警告を無視した。時折、神様を見たら信じるという人がいるが、見たら信じるとは限らない。
今日も、神様のみ言葉は、聖書をとおして、礼拝の説教をとおして、み心にかなう人々をとおして語られている。今、神様のみ言葉に聞いて、神様の豊かな愛に触れ、罪とその結果である災いと霊的な死から救っていただこう。
 “神様、あなたのみ言葉を、今日信じ、悔い改めます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月10日(金) 聖書の箇所:出エジプト10章1〜29節/ 年間通読:エゼキエル2〜5章
「しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。」(23節)
  第八、第九の災い。これら九つの災いがエジプトにくだった時、神様はイスラエルの民を区別して(8:23)災いはくだらなかった。エジプトが暗やみで覆われた時、ゴセンの地には光があった。しかし、この時もイスラエルは奴隷であって苦しんでいた。私たちが、この世に生きる中にも、耐えられないような苦しみや孤独がある。今日私たちは、私たちのために十字架で打たれ、苦しまれたキリストによって光を見る。このキリストの光はすべての人に開かれている。苦しみは苦しみで終らない。ここに希望がある。
“父よ、苦しみの中で、キリストの光があることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月11日(土) 聖書の箇所:出エジプト11章1〜10節/ 年間通読:エゼキエル6〜9章
「それゆえ、わたしはエジプトの国に不思議を増し加えるであろう。」(9節)
  第十の災いの警告。これまでの災いを見てみると自然現象としてあり得ないことではない。偶然と見えないこともない。しかし、主が語られ、モーセが主に祈った時に、起こり止むところに、全能の主、世界を造り統べ治められる主の力が表されている。この主なる神様が、聖書のみ言葉の通りに、私たちに救い主イエス様を遣わし、その十字架と復活によって救いの道を開いて下さった。
このことも見方によっては、歴史の一こまに過ぎないかもしれない。だが主を神と認める時、主の救いの不思議を見ることができる。
“主よ、十字架と復活による救いを知り、感謝です。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月12日(主日) 聖書の箇所:出エジプト12章1〜51節
年間通読:エゼキエル10〜13章
「わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう」(13節)
  過ぎ越し(の祭り)と第十の災い、エジプト出発。主はエジプトのすべての家の初子を撃たれた。主が警告していたとおりである。しかし、イスラエルの家では一人も死ななかった。主の言葉を聞き、羊の血をかもいと入り口の二つの柱に塗っていたので、主の使いが通り過ぎ(23節)たからである。「過ぎ越し」である。そしてこれはキリストの予表である。
私たちも主の言葉を聞き、神様から離れ的はずれな生き方をしていたことを悔い改め、イエス様の十字架の血汐で赦されると信じるなら、救われるのである。
“主よ、罪をおゆるしください。主の十字架で赦されたと信じます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月13日(月) 聖書の箇所:出エジプト13章1〜22節
年間通読:エゼキエル14〜16章
「そのときモーセはヨセフの遺骸を携えていた」。(19節)。
  ヨセフが死んでから、400年ほど経っていたが、「イスラエルの民は、神は必ずあなたがたを顧みられるであろう。そのとき、あなたがたは、わたしの遺骸を携えて、ここから上って行かなければならない 」(創世記50:25)という言葉が成就されたのであった。
日本で言えば、関ヶ原(AD1600年)の戦いのすぐ後ぐらいの時の約束が今成就するような事である。これを支えたのは、神の真実及び神とその御言葉へのイスラエルの民の信仰であったのである。
“主よ、あなたの御言葉を信じ続けさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月14日(火) 聖書の箇所:出エジプト14章1〜31節
年間通読:エゼキエル゙17〜19章
「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた」。(21節)。
  モーセが手をさし伸べたから海の水が分かれたのは確かであったが、「あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい」(16節)と主がモーセに命じなさったので、それに従って、手を海の上にさし伸べたから海は分かれたのであった。
主の御言葉に従うことによって、大いなる神の御わざを拝したのであった。
“主よ、あなたを信じ、あなたの御言葉に従わせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月15日(水) 聖書の箇所:出エジプト15章1〜27節
年間通読:エゼキエル20〜21章
「わたしは主であって、あなたをいやすものである」。(26節)。
  主が癒し主である。しかし、これは主に良く聞き従うことが、前提とされている。主への信仰である。マルコ6章では、イエスさまが郷里では力あるわざを行うことがひとつも出来なかった。それは、イエスさまをただの人間としか郷里の人々は受け取らなかったからであった。
この癒しには、肉体的な病は勿論、精神的な病も、悪霊から来る病も皆含まれるのである。そしてそれらは、「その打たれた傷」によって、癒されるのである。主の十字架の傷こそ癒しの根拠なのである。
“主よ、あなたの十字架の傷によって癒して下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月16日(木) 聖書の箇所:出エジプト16章1〜36節
年間通読:エゼキエル22〜24章
「イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた」。(35節)。
  荒野において、神は、マナを降らせて、イスラエルの民を養われたのであった。この当時、女性と子供を合わせて全部で200万人ぐらいであったと思われる。イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。40年間、しかも荒野で、そのような数の人々を、養う事は、神の奇跡意外に不可能であった。
“主よ、あなたの計り知れない愛をもって私たちを養って下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月17日(金) 聖書の箇所:出エジプト17章1〜16節
年間通読:エゼキエル25〜27章
「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。」。(11節)。
  手を上げるとは祈りの姿である。モーセの祈りによって、イスラエルは勝ったのであった。しかしその祈りも疲れが出てきて、手を下げて、祈らなくなると、アマレクが勝つのであった。
勝利は神によるのであり、神へのとりなしの祈りによるのである。これは、新約におけるイエス・キリストの型である。キリストはいつも生きていて、手を下げることなく、祈り続けておられるのである。それ故に、私たちは救いに与り、守られ、養われているのである。
“主よ、あなたのとりなしを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月18日(土) 聖書の箇所:出エジプト18章1〜27節
年間通読:エゼキエル28〜30章
「また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい」。(21節)。
  舅の言葉である。これは、どこにおいても通じる、選びの条件である。有能とあるが、神によってそのようにされるのである。
また、神を信じるものであり、誠実で、不義の利を憎む人とある。それらの人がリーダーとなり得るのである。エテロはイスラエルの民でなかったが、モーセに良きアドバイスをしたと言って良い。
“主よ、モーセのように、謙りをもって、人の言う事に耳を傾けさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月19日(主日) 聖書の箇所:出エジプト19章1〜25節
 年間通読:エゼキエル31〜33章
「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである」。(5節)。
  これもイスラエルの民だから、宝の民となったのではなく、神に聞き従い、契約を守るならばということである。
ここでは条件があるのであったが、新約においては、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、宝の民とされるのである。ここには、なんらの差別もないのである。
“主よ、イエス・キリストの恵みの豊かさを本当に知るものとさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月20日(月) 聖書の箇所:出エジプト20章1〜26節
年間通読:エゼキエル34〜36章
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」(2節)
  十戒。旧約聖書の最も基本的な教えである。2節は前文である。十戒のうち八戒までもが禁止命令である。しかしそれは、私たちを束縛するための禁止というよりも、神様のきよさにふさわしくなるためである。この前文は、神様が奴隷の家から救出して下さったお方であることをはっきりと語っている。
私たちもかつて罪の奴隷であってどんなに惨めなところから導き出されたかを思うとき、ただただ感謝と喜びにあふれるばかりである。喜んで主の戒めに聞き、主に仕えようと思うのである。
“主よ、かつての姿を思い、罪から解放されて感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月21日(火) 聖書の箇所:出エジプト21章1〜36節
年間通読:エゼキエル37〜39章
「命には命、目には目、歯には歯、、、をもって償わなければならない。」(23〜25節)
  いわゆる同害復讐法である。これは、このように復讐してよいという意味よりも、人間の奥底にある無制限の復讐心に対して制限を加え、同量の報復をもって満足すべきことを意味している。人の、というより自分の憎しみの大きさにどれ程驚かされることか。
私たちが憎しみにあふれ神様に敵対している時に、神様は御子によるあがないをそなえ、愛を示して下さった(ローマ5章)。私たちはこの愛によって変えられ、憎しみから解かれた。そしてさらに、愛する者となるようにと招いておられる。(マタイ5章)
“父よ、御子によって憎しみから解かれたことを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月22日(水) 聖書の箇所:出エジプト22章1〜31節
年間通読:エゼキエル40〜42章
「主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。」(20節)
  これはイスラエルの民に語られた戒めであるが、大変厳しい言葉である。これだけ聞くと、排他的で独善的な感じがする。しかし一方で21節からは、他国人、寡婦、孤児の保護について述べている。当時としては、画期的な法律である。それは、どこに基準をおくかにかかってくる。
私たちは、創造主かつあがない主であるお方に基準をおくべきではないだろうか。本物の事実のほかに基準はない。あなたは造り主、あがない主なるお方のほかに別の基準も持っていないだろうか。
“主よ、人の作ったものや人ではなく、あなただけを基準として歩みます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月23日(木) 聖書の箇所:出エジプト23章1〜32節
年間通読:エゼキエル43〜45章
「見よ、わたしは使をあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。」(20節)
  この章の中には、訴訟にも触れられているが、創造主は義なる神であることも示している。ともすれば、人は、人が作った石や木の神々に迷ったり、自分の欲を満たす神々を考え出したりする。どうやって神の義にかなうのだろうか。
私たちを神の義と真理とに、導くのが聖霊である。聖なる神様の道を教え、偶像の道から守り、ついには私たちに備えられた天国へと至らせて下さる。 恐れることはない。
“神様、聖霊の導きに信頼し、様々な偽りから守られますように。
 真の義を示し、備えられている神の国に至らせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月24日(金) 聖書の箇所:出エジプト24章1〜18節
年間通読:エゼキエル46〜48章
「モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは四十日四十夜、山にいた。」(18節)
  神様は山の頂で燃える火のように栄光を表し、長老たちは神の栄光を見た。すべての民も山のふもとで栄光を見た。しかしモーセはその山に一人で登っていった。四十日間神様と一対一で向かい合った。
私たちの信仰でも、どうしても神様と一対一で向かい合わなければならないことがある。他の人と一緒では、あるいは、他のことをしながらでは、取り組むことのできない信仰の課題がある。逃げないで、いい加減にしないで、一人で神様と向き合って主の栄光を見させていただこう。
“父よ、自分の課題を知っています。主と真剣に向き合います。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月25日(土) 聖書の箇所:出エジプト25章1〜40節/ 年間通読:ヤコブ1〜4章
「わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。」(2節)
  31章まで幕屋の設計が示されている。建設に先立って、神様のために喜んでささげ物をするように言われている。裏を返せば、強制や義務のように感じながらのささげ物は受け取られないのである。神様が喜ばれないのである。ささげるように言われている物は、エジプトを出るときに与えられたものである。
主が奴隷の家から救い出して下さったことを心から喜んでささげ、それが聖所の建設に使われる。何と感謝なことか。
“主よ、あなたからの救いと、豊かな恵み、栄光を覚え、喜んでおささげします。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月26日(主日) 聖書の箇所:出エジプト26章1〜37節
年間通読:ヤコブ5章、ダニエル1、2章
「その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。」(33節)
  25章では、契約の箱や聖所の様々な器具について示されたが、26章では、幕屋の幕や枠などについて示されている。この垂れ幕は、へだての幕とも呼ばれ、契約の箱のある至聖所と聖所とを分けていた。これは、創造主なる神様と被造物である私たちの間の到底超えることのできない存在の違いを表している。
主イエスの完全な贖罪が、この隔ての幕を取り除いた(ヘブル6:19、マタイ27:51)。
破ることのできないこの幕の意味を深く思うとき、私たちが「幕の内」に入る恵みの大きさを思わずにはおれない。
“主よ、聖なるあなたに隔てなく交われる恵みを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月27日(月) 聖書の箇所:出エジプト27章1〜21節/ 年間通読:ダニエル3〜4章
「あなたはまたイスラエルの人々に命じて、オリブをつぶして採った純粋の油を、ともし火のために持ってこさせ、絶えずともし火をともさなければならない」。(20節)。
  この章には祭壇(1〜8)、幕屋の庭(9〜19)、ともし火(20,21)が記されている。祭壇はキリストの十字架の犠牲を、庭は神と人間との距離を、ともし火は神の永遠の命とその存在と働きとキリストの絶えざるとりなしを表しているものと言って良い。
私たちはキリストの尊い犠牲の故に神に近づき得るのである。
“主よ、あなたの犠牲ととりなしとを心から感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月28日(火) 聖書の箇所:出エジプト28章1〜43節/ 年間通読:ダニエル5〜6章
「アロンが聖所にはいる時は、さばきの胸当にあるイスラエルの子たちの名をその胸に置き、主の前に常に覚えとしなければならない」。(29節)。
  大祭司は民を代表し、民と神との間に立って、とりなすつとめを帯びている。名を刻むことは、しっかりとそれを受け止め、覚えることを意味する。大祭司はいつもしっかりとイスラエルの部族を肩に担い、また、神の御前に聖なるものとして受け入れられているのである。だから、彼は民を愛して、とりなし手としてなりうるのである。
“主よ、イエスさまが本体としての大祭司となっていて下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月29日(水) 聖書の箇所:出エジプト29章1〜46節/ 年間通読:ダニエル7〜8章
「わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう」。(45節)。
  この章には大祭司アロンと祭司の任職のための聖別及び祭壇の聖別とささげものが記されている。神聖な働きをなすためにはまず、自らが聖なる者とならなければならない。そのために、犠牲の血と注ぎ油(21)を注いだのであった。これは十字架の血と聖霊による聖別を表している。幕屋は神の住まいである。神はシナイ山に顕れたが、今や、幕屋において、民のうちに住まわれるのである。しかし、そのためには聖なる場所が必要なのである。
“主よ、あなたが私たちの中にきて住んで下さる事を感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年11月30日(木) 聖書の箇所:出エジプト30章1〜38節/ 年間通読:ダニエル9〜10章
「アロンはその上で香ばしい薫香をたかなければならない。朝ごとに、ともしびを整える時、これをたかなければならない。アロンはまた夕べにともしびをともす時にも、これをたかなければならない。これは主の前にあなたがたが代々に絶やすことなく、ささぐべき薫香である」。(7,8節)。
  この章には、香壇の製作、人を数えるときの人の贖い、青銅の洗盤、聖なる注ぎ油について記されている。香の献げものを献げる事は、祈祷を献げる事の象徴である(黙示5:8)。
“主よ、朝ごとに夕ごとに、絶えず祈りを献げさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>


ホームページへ戻る