デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年12月のデボーション
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2006年12月1日(金) 聖書の箇所:出エジプト31章1〜18節/ 年間通読:ダニエル11〜12章
「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものでる』」。(13節)。
  安息日を守ることの大切さが言われている。安息日は神が聖別された日であり、私たちが聖なる日とすべき日なのである。もしそれを破ったら殺されたのであった(14)。この安息日は神と民との関係を表す印なのである。
日曜日を主の日として、私たちは大切にしているが、もっと、もっと大切にする必要がある。
“主よ、主の日を聖別にさせて下さい。アーメン”
 

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2006年12月2日(土) 聖書の箇所:出エジプト32章1〜35節/ 年間通読:第1ペテロ1〜4章
「今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。(32節)。
  モーセのとりなしの祈り(11〜13)が聞かれた。ここではモーセは御言葉にもとづいて祈り、神御自身の証しに訴えている。同時に、上記の如く、自分の命と救いをもかけて祈ったのであった。それ故、イスラエルの民全体は滅ぼされないで済んだのである。
モーセに習って、とりなしの祈りを、家族のために、友達のために、同胞のために、真剣になそうではないか。
“主よ、真剣なとりなしをさせて下さい。アーメン”
 

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2006年12月3日(主日) 聖書の箇所:出エジプト33章1〜23節
年間通読:第1ペテロ5章,ホセア1〜3章
「主はモーセに言われた、『あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう』」。(17節)。
  モーセは主が共に行かないと言われた時、約束のみ言葉に訴えて祈っている(14)。
主が共に行かなければ、何の意味もなく、すべては虚しい事になってしまうからである。滅ぼされないだけでなく、共にいて下さる事が、絶対的に必要なのである。その為に彼は祈ったのであった。
名をもって知るとは神と同じ思いを持っているモーセを個人的に知っていると言う事である。
“主よ、名をもってあなたに知られるものとして下さい。アーメン”
 

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2006年12月4日(月) 聖書の箇所:出エジプト34章1〜35節/ 年間通読:ホセア4〜7章
「モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。」(29節)
  モーセは再び主の山に登り、四十日四十夜主と語り合い、罪を犯したイスラエルのためにもう一度十戒をいただき、神様と新しい契約を結ぶことができた。この時、モーセの顔の皮が光を放って輝いていた。実際に光こそしないが、私たちも主の前に静まり祈った後、自分の心が主の愛に満たされて輝き、顔の表情までも輝いていることに気付かされる。
この神様との深い交わりを、日々に自分の生活の基礎とするならば、どんなに私たちの歩みが変わっていくことであろうか。
“父よ、主の恵みと憐れみに深く触れられて、日々輝き主の栄光を表せますように。アーメン”
 

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2006年12月5日(火) 聖書の箇所:出エジプト35章1〜35節/ 年間通読:ホセア8〜11章
「彼に神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、、、」(31節)
  主がウリの子ベザレルを幕屋造りのために名指しで召したところである。主は、彼に特別な芸術の賜物を与えて用いようとされた。また私たちそれぞれにも神様は独特の賜物を備え、主のからだである教会を建てあげようとされている。だがベザレルは用いられる前に「神の霊」に満たされ、主ご自身を知る「知恵と悟りと知識」とを与えられている。
私たちが本当に主に用いられるためには、賜物も大切だが、主ご自身を知ることが重要なことだ。み言葉に立った祈りあっての生きた奉仕である。
“主よ、主からの賜物を感謝します。神の霊に満たし用いて下さい。アーメン”
 

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2006年12月6日(水) 聖書の箇所:出エジプト36章1〜38節
年間通読:ホセア12〜14章、第2ペテロ1章
「民があまりに多く携えて来るので、主がせよと命じられた組立ての工事には余ります。」(5節)
  イスラエルの人々は、幕屋作りのために、朝ごとに自発のささげ物を持ってきて、余るほどになった。「もはや聖所のために、ささげ物をするには及ばない」と言うほどであった。幕屋作りに必要な材料が前章5節からあげられているが、種々様々な物が必要であった。
人々はそれぞれ自分の与えられている物の中からささげた。やがてそれで聖所が作られた。自分がささげた物が、永遠の神の国の建設に用いられている。私も、み国の建設に参与しているとは、なんと大きな喜びだろうか。
“主よ、献げる恵み、参与の恵みにあずかり感謝です。アーメン”
 

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2006年12月7日(木) 聖書の箇所:出エジプト37章1〜29節
年間通読:第2ペテロ2,3章、ヨエル1章
「また純金の燭台を造った。」(17節) 
  あかしの箱、贖罪所、机、燭台、香の祭壇などの製作。この燭台は、七枝をもって神様の完全を表し、その明かりは神様の臨在の象徴であった。黙示録を見ると燭台は「教会」を指している(1:20)。
神様からの命の光であるイエス・キリストを内に持ち、その光でこの世を照らし出すのが教会であり、クリスチャンである。私たちはこの光を隠すべきではない。むしろ人々によく見えるようにし、人々が天にいます父を崇めるようにすべきである。そうでなければ、主は燭台を取り去ってしまうかもしれない(黙示録2:5)。
“神様、神様の光を人々の前で輝かせられますように。アーメン”
 

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2006年12月8日(金) 聖書の箇所:出エジプト38章1〜31節
年間通読:ヨエル2,3章、第1ヨハネ1章
「ウリの子ベザレルは、主がモーセに命じられた事をことごとくした。」(22節)
  祭壇及び聖所で用いる器具の製作。ここにベザレルが、これらの物を製作したことが記されている。しかしこれは自分の独断的イメージで作ったのではなく、「主がモーセに命じられた」ように作ったのである。またここには彼の名しか記されていないが、少なくとも幾人かの人々と共に作業をしたのである(35:34)。
私たちが主に仕えることも同じである。主から与えられたビジョンを教え、共有し、多くの人々と一つの心を持って作業に取り組み、完成を目指して進んでいくのである。
“父よ、主のビジョンをしっかりと握り、またそれを分かち合い、実践できますように。アーメン”
 

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2006年12月9日(土) 聖書の箇所:出エジプト39章1〜43節/ 年間通読:第1ヨハネ2〜5章
「その宝石はイスラエルの子たちの名にしたがい、その名と等しく十二とし、おのおの印の彫刻のように、十二部族のためにその名を刻んだ。」(14節)
  祭服の制作。その中で大切な物の一つが上記の「エポデ」であった。十二の異なる宝石がはめられており、主がそれぞれを宝石のように高価なものとして見ておられることを表している。それ以上に大切なのがそこに刻まれている名前である。主が一人一人の名を覚えて大切にしていることを表している。そして祭司は、いつもその名前名前を覚えてとりなしたのである。
私たちもいつも一人一人名をあげてとりなしていこう。
“主よ、私も一人一人を覚え、名前をあげてとりなしていきます。アーメン”
 

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2006年12月10日(主日) 聖書の箇所:出エジプト40章1〜38節/ 年間通読:アモス1〜4章
「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(34節)
  第二年の元日に、聖所のすべての器具も油によって聖別された。そして幕屋が建てられた。その時、その幕屋の中に雲が満ちて、主の栄光が表された。モーセが中に入れないほどであった。それは、全能の主、世界の造り主であり、本来人の作った物になど住まわれないはずのお方が、幕屋を聖別し、人と共に住んで下さるということを表している。
この主は、今、私たちに聖霊を注がれ、私たちを聖別し、私たちの内に住み、そして私たちを通して栄光を表して下さるのである。
“主よ、卑しい者ですが、主の前に聖別いたします。
 主の栄光で満たして下さり感謝します。アーメン”
 

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2006年12月11日(月) 聖書の箇所:レビ1章1〜17節/ 年間通読:アモス5〜7章
「彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう」。(4節)。
  レビ記は礼拝の書である。第1部(1〜10)礼拝の手段、第2部(11〜27)礼拝する者と分ける事が出来る。燔祭とはヘブル語ではオーラー(上にあげられるもの)、カーリール(焼き尽くす)と呼ばれる。あの有名なホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)はこのギリシャ語訳である。
燔祭は献身を意味する。手を置くことによってそれと一つとされるのである。 私たちも献身が求められているのである。
“主よ、神に喜ばれる、生きた、聖なるものとして献げさせて下さい。アーメン”
 

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2006年12月12日(火) 聖書の箇所:レビ2章1〜16節/ 年間通読:アモス8,9章、オバデヤ章
「人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、」。(1節)。
  素祭は行為の聖別、聖なる奉仕を意味する。燔祭と一緒に献げる物で燔祭の一部分とも考えられる。麦粉は砕かれた、へりくだった心を、油は聖霊を、乳香は神のみ前に聞き入れられる祈りを意味する。
私たちは、神と人に仕える時、イエスさまのような謙遜と聖霊の満たしと絶えることのない御心にかなった祈りとをもってなすべきなのである。
“主よ、イエスさまのように、神に仕え、人を愛し仕えさせて下さい。アーメン”
 

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2006年12月13日(水) 聖書の箇所:レビ3章1〜17節/ 年間通読:ヨナ1〜4章
「祭司はこれを祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭としてささげる食物であって、香ばしいかおりである。脂肪はみな主に帰すべきものである」。(16節)。
  酬恩祭は神との交わりを意味するものである。肉の部分は食べることが出来た。しかし、血と脂肪は食べてはならなかった。
血については命であるゆえに、贖いをすることが出来るが為であった。脂肪は神が最も喜びなさる献げ物と言う事の為である。贖いの血により神との和解が出来、神の最も喜びなさる最高のものを献げる中で最高の交わりがなされるのである。
“主よ、あなたとのよき交わりを感謝します。アーメン”
 

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2006年12月14日(木) 聖書の箇所:レビ4章1〜35節/ 年間通読:第2ヨハネ,ミカ1〜3章
「すべてその子牛の残りは、これを宿営の外の、清い場所なる灰捨場に携え出し、火をもってこれをたきぎの上で焼き捨てなければならない。すなわちこれは灰捨場で焼き捨てらるべきである」。(12節)。
  罪祭は勿論、罪の赦しための供え物である。血と脂肪を神に献げ神に受け入れられ、平安を得、次に、その他のものは灰捨場で焼き捨てられたのであった。これは、罪の恐ろしさ、罪は捨てるべきものを意味している。
ところで、“あやまって”(2節)とあるように、旧約は過失による罪が赦しの対象であった。
“主よ、新約ではすべての罪を赦して下さる事を感謝します。アーメン”
 

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2006年12月15日(金) 聖書の箇所:レビ5章1〜19節/ 年間通読:ミカ4〜7章
「彼はあなたの値積りにしたがって、雄羊の全きものを群れのうちから取り、愆祭としてこれを祭司のもとに携えてこなければならない」。(18節)。
  罪祭が“あやまって”犯した罪のための贖いであるが、愆祭は“不正の”罪に対する贖いである。不正とは市民的な社会での不正でなく、倫理的な不正でもない。偽って、裏切ってということで、神に対して、不誠実な罪を犯すことである。愆を犯した者は神に対して愆祭を献げ、人に対しては20パーセント(5分の1)の賠償をしなければならなかった。しかし、イエスさまは私たちの愆祭となって下さったのである(イザヤ53:5)。
“主よ、あなたが私たちの愆祭となって下さったことを感謝します。アーメン”
 

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2006年12月16日(土) 聖書の箇所:レビ6章1〜30節
年間通読:第3ヨハネ,ナホム1〜3章
「アロンとその子たちに命じて言いなさい、『燔祭のおきては次のとおりである。燔祭は祭壇の炉の上に、朝まで夜もすがらあるようにし、そこに祭壇の火を燃え続かせなければならない』」。(9節)。 
  火を燃え続かす事は主が絶えずおのれを献げ、とりなしていて下さることを表すと共に、私たちもキリストにあって、献身と祈りを絶やさないことをも意味する。そして、灰は捨てなければならないとは経験に頼らないことである。また、たきぎをくべることが言われている(12)が、これは御言葉である。聖霊の火を御言葉によって盛んにするのである。
“主よ、聖霊の火を燃やし続けさせて下さい。アーメン”
 

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2006年12月17日(主日) 聖書の箇所:レビ7章1〜38節/ 年間通読:ハバクク1〜3章
「すなわち、主がシナイの荒野においてイスラエルの人々にその供え物を主にささげることを命じられた日に、シナイ山でモーセに命じられたものである」。(38節)。
  律法は契約の枠の中で与えられた恵みなのであった。そして、神は十戒と共に、祭儀の律法をも与えて下さった。それは神への礼拝の手段を表す大切なものであった。
今は、イエス・キリストさまの十字架こそが、神との礼拝の道なのである。キリストの十字架はすべての礼拝の手段である祭儀の成就なのである。
“主よ、私たちは今、キリストの血の故に、はばかることなく、
 あなたの御前に出られる事を感謝いたします。アーメン”
 

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2006年12月18日(月) 聖書の箇所:レビ8章1〜36節 / 年間通読:ゼパニヤ1〜3章
「また注ぎ油をアロンの頭に注ぎ、彼に油を注いでこれを聖別した。」(12節)
  アロンとその子たちの祭司の任職式。まず彼らは水で洗い清め、祭服を着、油が注がれて、それから、罪祭、燔祭、任職の揺祭とをささげ、7日の間、会見の幕屋の内側に留まった。この任職式全体が「聖別」式であるが、特に注ぎ油を注いで聖別した。聖別とは、一般のものから離され区別され、神様のもの、神様専用とされることである。油は聖霊を表す。今私たちには、すべての人への聖霊が注がれている。そしてだれもが自らを「聖なる供え物」としてささげるように勧められている(ローマ12:1)。
“父よ、聖霊が私にも注がれていて感謝します。自らを聖別します。アーメン”
 

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2006年12月19日(火) 聖書の箇所:レビ9章1〜24節/ 年間通読:ユダ、ハガイ1〜2章
「そして主の栄光はすべての民に現れ、」(23節)
  イスラエルの聖別式。祭司の次にイスラエルの民全体のために、罪祭、燔祭、酬恩祭がささげられた。この時、主の栄光が現れ、「主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした」(24節a)。祭儀は単なる儀式ではなく、主の臨在があり、主の栄光が表れる場所である。
「民はみな、これを見て喜びよばわり、そしてひれ伏した」(24節b)。私たちの礼拝も同じである。単なる儀式、メッセージではなく、み言葉により、聖霊の解き明かしにより、主の臨在と栄光とが現される喜びの場である。
“主よ、飢え渇き、期待しつつ礼拝をささげます。臨在を感謝します。アーメン”
 

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2006年12月20日(水) 聖書の箇所:レビ10章1〜20節/ 年間通読:ゼカリヤ1〜4章
「これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。」(1,2節)
  祭司ナダブとアビフの主の前の死。喜びの礼拝のなかで、ナダブとアビフが異火をささげ、死ぬという恐るべきことが起こった。至るところ「主がモーセに命じられたとおりである。」(8:29等)と記されているがこの聖句では違う。
私たちは神様の愛とよく言う。それは創造主の被造物に対する愛であり、無限のものだ。だがそれよりもまず神様は「聖」なるお方であられる。私たちは聖なる神様の前に、キリストの十字架という全き罪祭をとおしてのみ近づくことができるのである。
“主よ、主の愛のゆえに軽んじることがないように。アーメン”
 

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2006年12月21日(木) 聖書の箇所:レビ11章1〜47節/ 年間通読:ゼカリヤ5〜8章
「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(45節)
  食物の聖と汚れ。神様はイスラエルの民に生活のすべてをとおして神様の聖をあらわすように導かれた。私たちには驚くようなものもある。この章は食べ物についてである。衛生的な意味もあったかもしれないが、反芻することは神様のみ言葉を繰り返し思うことに通じるなどそれぞれに意味がある。
新約の今日、主イエスにあってすべての食べ物はきよい物とされている(マルコ7:19)。しかし人の内側から出るものが、問われている(同7:20)。食物は清くても、そこにねたみや欲が入り込めば、神や己、人を汚しかねない。
“神様、聖なる者となれますように。アーメン”
 

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2006年12月22日(金) 聖書の箇所:レビ12章1〜8節/ 年間通読:ゼカリヤ9〜12章
「もしその女が小羊に手の届かないときは、山ばと二羽か、家ばとのひな二羽かを取って、」(8節)
  出産に起因する汚れと清め。レビ記には「汚れ」という語が多く出て来るが、「罪」という語はあまり出てこない。これは異邦人との区別に重点があり、道徳的というより祭儀的だからである。出産後日数が満ちたならば、清めのために燔祭として一歳の小羊を罪祭として家ばとをささげる。小羊に手の届かない時が8節である。
主イエスの誕生の時もこのことがなされた(ルカ2:24)。神の御子なるお方が、私たちのために、か弱い赤ん坊として、貧しい家に来て下さった。
“父よ、主イエスが、弱く、貧しくなり、私のところに来て下さったことを感謝します。アーメン”
 

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2006年12月23日(土) 聖書の箇所:レビ13章1〜59節
年間通読:ゼカリヤ13,14章、黙示録1,2章
「祭司はその人を清い者としなければならない。」(23節)
  重い皮膚病、衣服のかびについて。以前「らい病」と訳されていた語は「重い皮膚病」「かび」等と訂正されている。
ここでも「罪」ではなく「汚れ」とされていることに気をつけたい。祭司は病気についても「聖」と「汚れ」から判断した。医学が未発達で不治の病もずっと多かった。そのような病の人を人間がたやすく隔離したり、差別しやすいかは歴史が語っている。しかしこの箇所には、いつでも清い者へと回復の道が開かれている。人を固定的にみたり、差別的に見ることは、判断を誤らせる。
“主よ、解決のない問題はなく、必ず回復の道があることを信じます。アーメン”
 

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2006年12月24日(主日) 聖書の箇所:レビ14章1〜57節/ 年間通読:黙示録3〜6章
「その生きている小鳥は野に放たなければならない。」(7節)
  重い皮膚病のきよめと家のかび。重い皮膚病からの清めの儀式は、特に念入りに記されている。一日目と七日目に祭儀が執り行われた。一日目は2羽の小鳥のうち、一羽は殺され、一羽は野に放たれた。殺された小鳥は、あがないを表し、汚れが除去されたことを示す。また解き放たれた小鳥は、神様の前に命と自由が回復されたことを示す。
入信の時の洗礼(全浸礼)も似ている。水に沈むことは、罪の内にあった人の死を表し、水から出ることは、神様にある新しい命に生きることと罪からの自由を示す。
“主よ、主のあがないにより、新しく生きることを感謝します。アーメン”
 

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2006年12月25日(月) 聖書の箇所:レビ15章1〜33節/ 年間通読:黙示録 7〜10章
「祭司はその一つを罪祭とし、他の一つを燔祭としてささげなければならない。こうして祭司はその人のため、その流出のために主の前に、あがないをするであろう」。(15節)。
  男女の流出による汚れと清め。肉(バーサール)は男性の性器のことである。尿道の炎症(新共同訳)と訳されてもいる。二つの異常流出と三つの自然(正常)流出について記されている。
異常流出については犠牲(富める者も貧しい者も山ばと二羽か、家ばと二羽。14節、29節)によるあがないが必要であった。新約においては御子の血によってきよめられるのである(第1ヨハネ1:7)。
“主よ、御子の血のきよめを感謝します。アーメン”
 

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2006年12月26日(火) 聖書の箇所:レビ16章1〜34節/ 年間通読:黙示録11〜14章
「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない」。(29節)。
  贖罪の日。二頭のやぎが一つは主のため、一つはアザゼルのためである。アザゼルとは「険しい絶壁」の意味にとる者もいるが、「罪の全き除去」ととるのが良い。また、アザゼルは場所か人格的か明確でないが、追放された悪鬼か、悪霊のかしら事。罪を遠くの悪霊のかしらのもとへ運び去って、戻してくれる事をあらわしている。
“父よ、御子の十字架によって、罪が全く取り除かれることを感謝します。アーメン”
 

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2006年12月27日(水) 聖書の箇所:レビ17章1〜16節/ 年間通読:黙示録15〜18章
「肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである」。(11節)。
  17章はいけにえの場所とその血の意味についてである。牛、羊、やぎは私的なものであっても幕屋の入り口に携えてきて、供え物として、主に献げる事になっていた。これは、偶像への供え物を防ぎ、血を祭壇に注ぐためであった。血にはいのちがあるからあがなう事が出来るのである。
“主よ、イエスさまの尊いいのちを注ぎだして犠牲となって下さ有難うございます。アーメン”
 

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2006年12月28日(木) 聖書の箇所:レビ18章1〜30節/ 年間通読:黙示録19〜22章
「わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。わたしはあなたがたの神、主である」。(4節)。
  いとうべき性関係。エジプトのものにも、カナンの地のものにも習ってもいけない。神のおきてと御命令に従わなければならないのである。これは、友達やみんながやっているから、日本の習慣だからと言って、神に反することをしては決してならないことを教える者である。何故なら、「わたしはあなたがたの神、主である」(30)からである。実の神を信じて、神のものとなった私たちは、その御旨に従うのである。
“主よ、あなたに従わせて下さい。アーメン”
 

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2006年12月29日(金) 聖書の箇所:レビ19章1〜37節/ 年間通読:マラキ1,2章
「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない』」。(2節)。
  十戒を具体的に示している。神と人への行為全般について記している。安息日、偶像礼拝やつくることの禁止、供え物、貧しい人への思いやり、障害者への守り、日雇いの賃金をその日に払うように、さばきにおける不正がないように、その他、家畜、種まき、木、遊女、占い、寄留の他国人等について記している。しかし、これらは「あなたがたも聖でなければならない」と言う御言葉の具体化なのである。
 “主よ、あなたの前に聖とならしめて下さい。アーメン”
 

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2006年12月30日(土) 聖書の箇所:レビ20章1〜27節/ 年間通読:マラキ3章
「わたしはあなたがたに言った、『あなたがたは、彼らの地を獲るであろう。わたしはこれをあなたがたに与えて、これを獲させるであろう。これは乳と蜜との流れる地である』。わたしはあなたがたを他の民から区別したあなたがたの神、主である」。(24節)。
  厳しい刑罰。19章で取り上げた罪に対する厳しい刑罰が記されている。それは、他の民から区別された神の民が、同じような罪を犯さない為である。ここでも「あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない」(26)と記されている。
“主よ、あなたの民として区別されている事を知る者として下さい。アーメン”
 

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2006年12月31日(主日) 聖書の箇所:レビ21章1〜24節/ 年間通読:マラキ4章
「主はまたモーセに言われた、「アロンの子なる祭司たちに告げて言いなさい」。(1節)。
  祭司が特別な注意をもって、清きを維持しなければならない事がしるされている。これは、牧師や伝道者にあてはめられることは勿論であるが、キリスト者すべてにあてはまることである。「祭司となさいました」(黙示5:10)とあり、ルターは万人祭司として、これを強調した。
私たち一人一人が祭司として、神に仕え、人と神との間をとりなす者とならねばならないのである。
“主よ、私を祭司にふさわしいものとして下さい。アーメン”
 

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