デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年1月のデボーション
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2007年1月1日(月) 聖書の箇所:レビ22章1〜33節/ 年間通読:創世記1〜3章
「彼らがこれを汚し、これがために、罪を獲て死ぬことのないためである。わたしは彼らを聖別する主である。」(9節)
  祭司についての教えと供え物として喜ばれない物について。私たちは、いつも聖なる主にふさわしいかを意識しながら、生活すべきである。私たちは主イエスにあって、私たちの身体的なことについては差別されないできよいものとされている。
私たちは贈り物をするとき相手が喜ぶ物を選ぶ。ましてや、私たちを血と命によってあがなわれたお方が喜ばれるように生活する、あるいはささげ物をする。それはある意味で当然のことではないだろうか。
“父よ、あがなわれた恵みを覚え、いつも主の聖別にふさわしい者として下さい。アーメン”
 

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2007年1月2日(火) 聖書の箇所:レビ23章1〜44節/ 年間通読:創世記4〜6章
「第七日には、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない。」(8節)
  安息日と祭日の聖会。安息日はまったき休みの日として休み、聖会を開くように命じられている。また、過ぎ越の祭と種入れぬパンの祭、初穂の祭、第七週の祭、贖罪の日と仮庵の祭とそれぞれの祭りの日は、聖会を開き、どんな労働もしてはならないと命じられている。
日毎のディボーションもそうであるが、主の前に静まることをおろそかにすると、あっという間に、この世の忙しさに流され、臨在を失ってしまう。
この正月、仕事を休み日常を離れ、主の前に時を聖別して、深く主と交わる時を持っていきたい。
“主よ、主の前に心と時を聖別します。満たして下さい。アーメン”
 

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2007年1月3日(水) 聖書の箇所:レビ24章1〜23節/ 年間通読:創世記7〜9章
「だれでも、その神をのろう者は、その罪を負わなければならない。」(15節)
  この章の後半に主の名を汚して呪った者が、主の前に裁かれ、石で撃ち殺されたことが書いてある。今日から見ると大変厳しい刑罰に見える。主イエスは「神を汚す言葉も、ゆるされる。」(マタイ12:31)と言われた。ゆるされない罪もある。しかしなぜこれはゆるされるのか。造り主を汚す言葉は決して消えないしゆるされない。死をもってしか償えない。
だが、その償いを主イエス御自身があの十字架で負われたのである。だから聖霊により信じる者はゆるされ救われるのである。どんなに大きな贖いを受けているか。
“主よ、滅ぶべき者が赦されている恵み感謝します。アーメン”
 

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2007年1月4日(木) 聖書の箇所:レビ25章1〜55節/ 年間通読:創世記10〜12章
「その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。」(10節)
  安息年とヨベルの年。第七年目は、安息年として種まきや刈り入れを休むとし、更に五〇年目はヨベルの年とされた。この年は、郊外の土地は元の持ち主に返され、同胞の奴隷は無条件で解放された。このヨベルの年は、主イエスにより成就した(ルカ4:18〜21)。
主が私たちの内におられる時、罪の奴隷から解放され、主の恵みによって永遠に自由にされるのである。何か捉えられて罪や何か束縛されている問題があるならば、主の前にそれを差し出して静まろう。再び解放される。
“神様、赦されて、負い目のない自由を感謝し、賛美します。アーメン”
 

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2007年1月5日(金) 聖書の箇所:レビ26章1〜46節/ 年間通読:創世記13〜16章
「それにもかかわらず、、彼らを捨てず、また忌みきらわず、彼らを滅ぼし尽さず、彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。」(26節)
  この章の最初に約束されている祝福もすばらしいが、その後のどんなに何度背いても、呪いと罰はあるが、それでも立ち帰るようにと言い、神様の愛は変わらないというメッセージである。人は一つうまくいかなくても自分はダメだと落ち込みやすい。しかし聖書の世界は、何度でも失敗がゆるされる。こんな忍耐深い神、無限の愛をもったお方が他にどこにいるだろうか。
“父よ、こんな私でも、なおも愛して下さっていることを感謝します。アーメン”
 

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2007年1月6日(土) 聖書の箇所:レビ27章1〜34節/ 年間通読:創世記17〜20章
「しかし、家畜のういごは、ういごとしてすでに主のものだから、、」(26節)
  誓願と十分の一。人はいろいろなものを喜んで主にささげることができた。それらは皆聖なるものとなった。だがささげられないものもあった。一つは汚れたもの、もう一つは、ういごや(収穫、収入の)十分の一である。それは、初めから主のものだからである。
主イエスは、財産は主人から与っているものとしてたとえを話された。私たちはすべて自分のものと勘違いしやすい。十分の一を主にお返しするのは勿論だが、財も才も賜物も全て主から与えられていることに気付かされるとき、喜んで信仰をもってささげられる。
“主よ、与えられた中から喜んで主にささげます。アーメン”
 

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2007年1月7日(主日) 聖書の箇所:民数記1 章1〜54節/ 年間通読:創世記21〜23章
「彼らはその氏族により、その父祖の家により、その名の数にしたがって二十歳以上のものが、ひとりびとり登録した。」(18節)
  民数記の内容は、民の数というより、荒野での生活が記されている。主の民がどのように生活すべきかを教えてくれる。 しかし今心を留めたいのは「ひとりびとり登録した」ということである。男子だけで60万人余りいたが、その一人一人の名が記されていたのである。
私たち一人一人は、主によって名を呼ばれている(ヨハネ10:3)。どうでもいい人は一人もいない。これが生活の土台である。いつも主に覚えられていることを自覚し、約束の天国を目ざそう。
“主よ、信仰、仕事、家庭、友情でいい加減になりませんように。アーメン”
 

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2007年1月8日(月) 聖書の箇所:民数記2章1〜34節/ 年間通読:創世記24〜27章
「イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、その旗にしたがって宿営し、おのおのその氏族に従い、その父祖の家に従って進んだ」。(34節)。
  各部族の編成、宿営、行軍における位置が記されている。イスラエルは、人数をきちっと数え、旗ごとに宿営と行軍をし、各々がその氏族ごとに集まり、そして、父祖の家に従って進んだのであった。秩序があり、統制が取れており、組織的であった。適当とか己が好むままにではなかった。神が決めた中で、事がなされたのであった。教会のあり方においても見習うべきものがある。
“主よ、神の秩序と調和の中に歩ませて下さい。アーメン”
 

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2007年1月9日(火) 聖書の箇所:民数記 3章1〜51節/ 年間通読:創世記28〜31章
「わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう」。(12節)。
  レビ人の人口調査とその職務。レビはシメオンと共に欺きと殺戮と強奪の故に罰を受け、のろわれた(創世記49:7)が、その氏族から、モーセとアロンが出た。そしてまた、ういごはその後に生まれるものをも代表するものであることから、レビ人は民全体を代表して、神に直接に仕えるようになった。神の恵みである。
“イエスさま、あなたの故に私たちが神のものとされている事を感謝します。アーメン”
 

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2007年1月10日(水) 聖書の箇所:民数記4章1〜49節/ 年間通読:創世記32〜35章
「彼らは主の命により、モーセによって任じられ、おのおのその働きにつき、かつその運ぶところを受け持った。こうして彼らは主のモーセに命じられたように数えられたのである」(49節)。  
  レビ人の中の、“30歳以上50歳以下で、務につき、会見の幕屋で働くことの出来る者”の人口調査と彼らのなすべき具体的な規定。このことは主がモーセに語られ、そしてモーセによって民に語られた神の言葉であった。分担すべき任務とゲルションとメラリの氏族への指揮者(アロンのイタマル)も決められ、一糸乱れず整然となされた。
“主よ、与えられた務を主の命として受け止めさせて下さい。アーメン”
 

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2007年1月11日(木) 聖書の箇所:民数記5章1〜31節/ 年間通読:創世記36〜39章
「イスラエルの人々に告げなさい、『男または女が、もし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、その犯した罪を告白し、その物の価にその五分の一を加えて、彼がとがを犯した相手方に渡し、そのとがをことごとく償わなければならない」。(6,7節)。
  身の汚れ、主への不信の罪、妻の背信に関する規定。人への罪はその人だけに対する罪だけでなく、主に対する罪である。その罪を告白して、贖罪がなされ、なおかつ、その価に5分の1を加えて、償わなければならなかったのである。
“主よ、あなたの十字架の贖いを感謝します。アーメン”
 

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2007年1月12日(金) 聖書の箇所:民数記6章1〜27節/ 年間通読:創世記40〜42章
「こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう」。(27節)。
  ナジル人の規定と祭司の祝福。アロンとその子たち(祭司)はイスラエルの民を祝福する務があった(23節)。それは主御自身の守りと恵みと平安という祝福を主の名によって祈ることである。アブラハムが選ばれたのは“地のすべてのやからが、祝福を受けるためであった”(創世記12:3)。
私たちも同じく、キリストの名によって、実をもたらすために選ばれたのである。祝福という実である。そして、私たちも周りの人もその祝福の実に与るのである。
“主よ、キリストの名によって、祝福の実をもたらすものとさせて下さい。アーメン”
 

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2007年1月13日(土) 聖書の箇所:民数記7章1〜89節/ 年間通読:創世記43〜46章
「以上は祭壇に油を注ぐ日に、イスラエルのつかさたちが、祭壇を奉納する供え物として、ささげたものである」。(84節)。
  祭壇奉献のための12部族のつかさの供え物。祭壇に油が注がれることによって、聖別がなされ、12部族のつかさによって、一人ずつ順番に12日間、全く同じ供え物が奉納された。全く同じものが12回記されている。これはどの部族も神の前に平等であり、神さまが同じく、御顔を向けておられることを意味する。
新約の私たちは、一人一人が正に平等で、かけがえのない存在なのである。
“主よ、あなたがこの私に等しく目を留めていて下さる事を感謝します。アーメン”
 

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2007年1月14日(主日) 聖書の箇所:民数記8章1〜26節/ 年間通読:創世記47〜49章
「レビびとをイスラエルの人々のうちから取って、彼らを清めなさい」。(14節)。
  アロンへの燭台のともし火のともし方とレビ人の聖別。神の奉仕に与る者には献身と聖別が必要である。神は聖であるから、それに仕える者には、神のものになり(献身)、聖となること(きよめ)が不可欠である。また、聖別は神の定めた方法によってなされなければならなかった。
私たち一人一人が神の働きに与るものとして、私たちにも当てはまるものである。そしてまた、この献身ときよめとは区別されるが、不可分の関係にあるのである。
“主よ、あなたにすべてを献げ、御血によって、全く聖なるものとして下さい。アーメン”
 

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2007年1月15日(月) 聖書の箇所:民数記9章1〜23節/ 年間通読:創世記 50章
「しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう」(8節)
  これは、過越の祭の期間に身を汚した者たちが、なぜ自分たちは主の供え物をささげることができないのかと尋ねた時のモーセの答えである。この言葉の背後に、尋ねた者たちが祭を守り、供え物を献げたいという願いが隠されている。そして、神はそれを「良し」として下さった。
しかし、神は、(祭が)できる者が主への供え物を「しない」時は、その者は罪を負う、とも言われている(13節)。実践の大切さである。主に聴き、それを実践することをもう一度覚えたい。
“主よ、まずあなたに聴くことを教えて下さい。また、それを実践する力を下さい。アーメン”
 

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2007年1月16日(火) 聖書の箇所:民数記10章1〜36節/ 年間通読:ルカ 1章
「こうして彼らは、主がモーセによって、命じられたところにしたがって、道に進むことを始めた。」(13節)
  しばらくイスラエルの民はシナイの荒野に留まっていたが、ここから(11節)、また民が動き出す。会見の幕屋(参照:出エジプト40:17以後)において、その時、神様から民へ与えられるべき言葉はすべて語られた。民はその命じられた言葉に従って生きるべく、第一歩を踏み出したのだ。
長い神様からの教えは、次の行動への準備であった。あなたは、み言葉をどう聴いているだろうか。
“主よ、あなたのみ言葉によって、道を示し、私たちを整えて下さい。アーメン”
 

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2007年1月17日(水) 聖書の箇所:民数記11章1〜35節/ 年間通読:ルカ 2〜3章
「またわたしはあなたの上にある霊を、彼らにも分け与えるであろう。」(17節)
  イスラエルの民が動き出して、最初にした事は、つぶやくことであった(1節)。主は、それに対して厳しいさばきをもって臨まれた。それは、民のかたくなさがもたらしたものであるが、まさに指導者モーセへの神様からのテストでもあった。責任の分与と、それを担うに足る賜物の分与が、神様によってなされているのを見る。
モーセが役不足であったのではない。神様はモーセに、協力者、助け手の必要を理解させ、それを与えられたのだ。神の共同体はこのように建てられてきた。
“主よ、私にも霊を注ぎ、教会の重荷を共に担うことの出来る者にして下さい。アーメン”
 

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2007年1月18日(木) 聖書の箇所:民数記12章1〜16節/ 年間通読:ルカ 4〜5章
「なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか。」(8節)
  残念なことに、責任と賜物の分与がなされると、リーダーの助け手たちが、思い上がり、その置かれている立場をわきまえないということがしばしばある。ここではモーセの実の兄と姉がそのような過ちをおかす。姉ミリアムはのちに赦されるが、彼女は神様によって建てられた器に逆らい、愚かな行いをした罰を受けることになる。
指導者が公平な評価の目にさらされることは大切であるが、それをわれわれの思い上がりの材料にしてはならない。同じ「はかり」であなたもさばかれる。
“主よ、物事をきちんとわきまえることの出来る心と目を私たちに与えて下さい。アーメン”
 

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2007年1月19日(金) 聖書の箇所:民数記13章1〜33節/ 年間通読:ルカ 6〜7章
「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。」(30節)
  これはカレブのことばである。イスラエルのかしらたち(3節)がカナンの地を探るために出て行った時、彼もその中にいた。他の斥候(セッコウ)たちは、その地のすばらしさを目の当たりにしつつも、口をそろえて、その地に攻め込むことは困難であると言い張った。しかし、カレブとヨシュアだけが、神の約束を真剣にうけとめ、信じたのである。そして「約束の地」を受け継ぐべく民を奮起させようとする。
祝福と困難は同時に来る。しかし祝福を受ける者は、困難に打ち勝つ者である。
“主よ。あなたの約束を信じ、困難を乗り越える力と信仰を与えて下さい。アーメン”
 

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2007年1月20日(土) 聖書の箇所:民数記14章1〜45節/ 年間通読:ルカ 8章
「主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」(9節)
  13章のつづきである。イスラエルの民が困難さを前に失望したのと対照に、ヨシュアはその目の前の大きな課題を、神様を中心に見ている、「主が良しとされるなら」(8節)、「主が…共におられますから」(9節)。そして、この「主が共にいるかいないか」が大きな違いを生むのだ。
私たちはどれだけ、日々の問題の中で、神様を視野に入れ、神中心に生きているだろうか。また、わたしたちはどのような神様が共にいると信じているのだろうか。主が、今日も私と共にいて下さるのだ。
“主よ、あなたに不可能はありません。私の課題を委ねますので、取り扱って下さい。アーメン”
 

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2007年1月21日(主日) 聖書の箇所:民数記15章1〜41節/ 年間通読:ルカ 9章
「あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起こして、それを行い、あなた方の神に聖なる者とならなければならない。」(40節)
  ここでは、主への自発の供え物の規定、あがないの犠牲としての供え物の規定、主の導きに従った生き方の大切さが語られている。罪は血を流すことによってしか赦されない。否、本来、聖なる神様によって、罪を犯す者は滅ぼされても仕方がないのである。その身代わりが犠牲である。しかし、もっと大切なのは主の教えている御心にかなった生活をすることである。聖なる者となろう。
“主よ、イエス様の血潮、完全な人としての歩みを、私のものとして下さい。アーメン”
 

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2007年1月22日(月) 聖書の箇所:民数記16章1〜50節/ 年間通読:ルカ10〜11章
「あす、主は、主につくものはだれ、聖なる者はだれであるかを示して、その人をみもとに近づけられるであろう。すなわち、その選んだ人を、みもとに近づけられるであろう」。(5節)。
  コラ、ダタン、アビラムの神の器と神への反逆である。コラはレビ人として、“主の幕屋の務”(9)という光栄ある務に任じられながら、祭司になろうとし、ダタンとアビラムは荒野での苦しい生活の責任はモーセであると言って、反逆した。彼らは皆生きながら、陰府に下っていった。しかし、モーセとアロンは主に最も近い幕屋の入口にいた(18)のであった。
“主よ、あなたに近づく、聖なるものとして下さい。アーメン”
 

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2007年1月23日(火) 聖書の箇所:民数記17章1〜13節/ 年間通読:ルカ12〜13章
「その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた」。(8節)。
  “わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう”(5)とあり、また、“つぶやくのをやめさせるであろう”(5)とある。そして、レビ族であるアロンのつえがそのようになったのである。
神が選んだ者への特別な神の取り扱いがここにある。このことはまた、アロンの働きが十分なされており、神の祝福があることを現すのである。
“主よ、あなたによって選ばれた者が実を結ぶことによって証しさせて下さい。アーメン”
 

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2007年1月24日(水) 聖書の箇所:民数記18章1〜32節/ 年間通読:ルカ14〜15章
「あなたはイスラエルの人々の地のうちに、嗣業をもってはならない。また彼らのうちに、何の分をも持ってはならない。彼らのうちにあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である」(20節)。 
  主がアロンに対していわれた言葉である。嗣業とは「賜物」を意味し、資産、相続財産、相続地をさす。祭司には土地が分け与えられなかった。
全能の主、ありとあらゆるものを所有したもう豊かな、満ち溢れる主御自身が賜物であり、資産なのである。何の不足もないのである。
“主よ、あなたが新約においては私たちに対しても、嗣業となっていて下さる事を感謝します。アーメン”
 

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2007年1月25日(木) 聖書の箇所:民数記19章1〜22節/ 年間通読:ルカ16〜18章
「これはイスラエルの人々の会衆のため、汚れを清める水をつくるために備えるものであって、罪を清めるものである」。(9節)。 
  清めの水の事が記されている。心を清め、からだを清める清い水の事である。新約においては、勿論、イエス・キリストの十字架の犠牲、十字架の血をさしているが、もし水という事から言えば、イエスさまは“わたしが与える水”(ヨハネ4:14)、“生ける水”(ヨハネ7:38)とも言われた。それは聖霊の事である。
“主よ、イエスさまの血潮により、聖霊によって、罪が清められる事を感謝します。アーメン”
 

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2007年1月26日(金) 聖書の箇所:民数記20章1〜29節/ 年間通読:ルカ19〜20章
「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。(8節)。
  メリバの水とアロンの死。イスラエルの民はまたモーセとアロンに迫って、モーセと争い、不平不満を言った。そのときモーセとアロンは会衆を去り、幕屋の入口でひれ伏したとあるが、神の前にでて、神を礼拝したのであった。すると、神の栄光が現れて、上記の言葉を語られたのであった。岩に命じる事が言われたが、彼は二度たたいてしまった。
“主よ、あなたの勝利を信じてへりくだりをもって従わせて下さい。アーメン”
 

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2007年1月27日(土) 聖書の箇所:民数記21章1〜35節/ 年間通読:ルカ21〜22章
「すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生き」。(9節)。
  この青銅のへびは十字架に上げられたイエス・キリストをさしている(ヨハネ3:14)。十字架にかけられたイエス・キリストを信じて仰ぐだけで、死んでいた霊(魂)が生かされるのである。神によって永遠の命が与えられ、神の国に生きる者となるのである。
そこには、人間の功績や頑張りは全くなく、ただ神からの一方的な、恵みがあるだけである。それを信じ受け入れるだけでよいのである。
“主よ、本当に十字架を信じさせて下さい。アーメン”
 

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2007年1月28日(主日) 聖書の箇所:民数記22章1〜26節/ 年間通読:ルカ23〜24章
「神はバラムに言われた、『あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである』」。(12節)。
  バラクとバラム。モアブの王バラクはイスラエルの民を恐れて、イスラエルの民を異教の預言者バラムにのろわせようとしたが、神はその事を辞めさせたのである。神が祝福された者をのろうような事があってはならないのである。ほかの宗教のものであろうと、唯一にして、全人類の神に逆らう事があっては絶対に罰をまぬかれないのである。
“主よ、あなたの祝福を感謝します。その祝福の中を歩ませて下さい。アーメン”
 

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2007年1月29日(月) 聖書の箇所:民数記23章1〜30節/ 年間通読:出エジプト 1〜3章
「神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。」(19節)
  これはバラムの言葉である。前章の「ろばと主の使い」(21-35節)の出来事が、バラムを謙らせ、主の語ることだけをとりつぐように促した。バラクがいくらイスラエルを呪わせようとしても、バラムは主の語ることに従った。バラムはイスラエルの祝福を語ったのである。なぜなら、神が祝福されたものを変えることはできないからである(20節)。主は語ったことを成し遂げられるお方なのだ。
“主よ、あなたのご支配の中で全能の御手が今日も私を助け支えて下さるように。アーメン”
 

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2007年1月30日(火) 聖書の箇所:民数記24章1〜25節/ 年間通読:出エジプト 4〜6章
「その時、神の霊が臨んだ…。」(3節)
  バラムが今までしてきたことは、魔術を使って何かをするということであった。しかし、イスラエルを祝福することが、主の心にかなうのを見た時(1節)、魔術を求めることをやめて、ただイスラエルの民を見た。そして、その時、神の霊がバラムに臨み、神が授けた言葉を話し始めた。聖書ではオカルト的なことを避けるようにと言っている(申命記18:11, 第二列王記21:6)。そのようなことをせずとも、神様は働かれるのである。まして、神を信じる者のために神が働かないことはない。
“主よ、あなたの霊を私にも注ぎ、あなたのみ心をわきまえさせて下さい。アーメン”
 

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2007年1月31日(水) 聖書の箇所:民数記25章1〜18節/ 年間通読:出エジプト 7〜9章
「このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける…」(12節)
  ここには、目をふさぎたくなるようなことが書かれている。イスラエルの人はみだらな事をし、祭司ピネハスが、あるイスラエル人を槍で突いたと記されている。ピネハスのしたことは一見残酷にも見える。しかし、彼の罪に対する怒りは、罪をその人と共に滅ぼさずにはおれない程のものであった。
同じく、神の(ただ)しさ、(きよ)さは、少しの罪をも見過ごしにできないほど完全に義しく聖い。だから、キリストの身代わりの十字架なしには、私たちの赦しも、救いもあり得なかった。
“主よ、滅ぶべき者が赦され、救われている恵み感謝します。アーメン”
 

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