デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年2月のデボーション
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2007年2月1日(木) 聖書の箇所:民数記26章1〜65節/ 年間通読:出エジプト 10〜11章
「大きい部族には多くの嗣業を与え、小さい部族には少しの嗣業を与えなさい。」(54節) 
  この章に書かれている神様の命令による人口調査は、神様の公平さを民に示している。もちろん神様は、民の数をご存知であったし、また、ただモーセに指示を出して、嗣業を分配するという方法をとることもできたはずである。しかし、数を調べさせ、くじを引かせ、その公平さを民に確認させている。それは、民に対する神様のご配慮であった。神様は時として、私たち自身が労力と時間を費やすことによって、色々なことがわかるようにして下さることがあるのだ。
“主よ、神の公平さ、一つ一つの出来事の意味を理解できるように助けてください。アーメン”
 

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2007年2月2日(金) 聖書の箇所:民数記27章1〜23節/ 年間通読:出エジプト 12〜14章
「あなたはそれを見てから、兄弟アロンのようにその民に加えられるであろう。」(13節)
  モーセは約束の地を目の前にして、そこに入ることが許されなかった。「アロンのようにその民に加えられる」とは、モーセの死を意味する。たった一度のモーセの失敗(民数記20:7‐13)、それは私たちの目には、ほんの小さなことに思えるようなものである。
しかし、神によって立てられた者の責任は重く、失敗には厳しい判断がなされている。神を知っている者、多くを任されているのは特権であり、恵みであるが、そのような者からは、より多くのものが求められている。
“主よ、私に与えられている分を果たし、その責任を全うできるように助けて下さい。アーメン”
 

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2007年2月3日(土) 聖書の箇所:民数記28章1〜31節/ 年間通読:出エジプト 15〜16章
「これらはみな、全きものでなければならない」(31節)
  これは、神様が得をしたいとか、何か余分に私たちから奪おうとしているということではない。神は、私たちに全ての物を与えて下さる、与え主である。献げ物は、神様こそが与え主であることを認める行為であり、その神様に献げるものは、完全な神様にふさわしいものが献げられるべきなのである。
また、私たちの献げ物は、私たち自身をそれに反映している。私自身、完全なものとして、主のものとして、主の前に出るのである。
“主よ、私を完全な者と造り変え、主のみ前に出るにふさわしく整えて下さい。アーメン”
 

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2007年2月4日(主日) 聖書の箇所:民数記29章1〜40節/ 年間通読:出エジプト 17〜18章
「モーセは主が命じられた事をことごとくイスラエルの人々に告げた。」(40節)
  ここでは、いわゆる宗教儀式に関することが、細かに書かれている。これらは、現代で言うマニュアル書に相当する。歴史・文化を越えて現代の日本を、この細かい規定の中に押し込むことは難しい。
けれども、ここにあるメッセージ、教えのエッセンスは十分に現代でも通用する。そして何よりも、私たちの信じている神様は、私たちに語りかけてくださる神であり、日々新たに語って下さる方である。私たちも、教会の中で、日本の社会に神の言葉を伝えたいものである。
“主よ、私にもみ言葉を語ってください。それを伝えることができるように助けてください。
 アーメン”
 

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2007年2月5日(月) 聖書の箇所:民数記30章1〜16節/ 年間通読:出エジプト19〜20章
「しかし、彼女の父がそれを聞いた日に、それを承認しない時は、彼女はその誓願、またはその身に断った物断ちをすべてやめることができる。父が承認しないのであるから、主は彼女をゆるされるであろう」。(5節)。
  これは29章39節以外の女性の誓願に関する規定で、神に対して、何かを献げようとするとか、物断ちをしようとする時のものである。誓願は守らなければならないものであるが、父と娘、夫と妻の健全な承認の下になされることが大切なのである。
度を越えた熱心さでなく、主の御心(ヤコブ4:15)にかなってなす事が大切なのである。
“主よ、あなたの御心に従わせて下さい。アーメン”
 

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2007年2月6日(火) 聖書の箇所:民数記31章1〜54節/ 年間通読:出エジプト21〜22
「しもべらは、指揮下のいくさびとを数えましたが、われわれのうち、ひとりも欠けた者はありませんでした」。(49節)。
  “ミデアンびとを打ち悩ましなさい”(民数25:17)という御言葉の実行である。イスラエルの男性がミデアンの女を連れてきたのでイスラエル人が神に審かれて、疫病になった。その男と女が殺されたので疫病はやんだが、2万4千人が死んだ(民数25:8,9)。
これに対する神の厳しい審きである。それ故、神の特別な助けと守りのもとに、戦いがなされたのであった。そこで“主の前に命のあがない”(50節)をしている。
“主よ、あなたの審きにあうことのないように憐れんで下さい。アーメン”
 

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2007年2月7日(水) 聖書の箇所:民数記32章1〜42節 / 年間通読:出エジプト23〜24章
「しかし、しもべらはみな武装して、あなたの言われるとおり、主の前に渡って行って戦います」。(27節)。
  ガドとルベンの子孫はヨルダンの東側のギレアデを領地として与えられる事をモーセに願い出た。それに対して、モーセは「あなたがたの不信仰の故にイスラエルの民の戦う意欲を失わせ、この民を主は荒野にすておき、またあなたがたはこの民を滅ぼしてしまう」と言われた。イスラエルの民はみな一体でなければ滅びがあるのである。これは教会にも当てはまると言って良い。私たちは、主をかしらとして一つのからだである事を覚えたいものである。
“主よ、共に戦うものとして下さい。アーメン”
 

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2007年2月8日(木) 聖書の箇所:民数記33章1〜56節/ 年間通読:出エジプト25〜26章
「その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、すべての石像をこぼち、すべての鋳像をこぼち、すべての高き所を破壊しなければならない」。(52節)。
  出エジプト以来の旅行記録である。その場所ごとに、また、その時々における神の恵みと守りと導きを整理する事は大切である。その後で、これからの事について、主はモーセに語られたのであった。神に逆らう民、偶像、天体礼拝(高き所)をことごとく破壊する事が命ぜられている。これは、私たちの霊と心とに当てはめて考える事が出来る。全ききよめと聖霊の満たしである。
“主よ、全くきよめ、聖霊に満たして下さい。アーメン”
 

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2007年2月9日(金) 聖書の箇所:民数記34章1〜29節 / 年間通読:出エジプト27〜28章
「イスラエルの人々に命じて言いなさい。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの嗣業となるべき地はカナンの地で、その全域は次のとおりである」。(2節)。
  カナンの地の境界線と分配人が記されている。神はイスラエルにそれに必要な土地を与えるのであった。それを超えて、他の国を侵略してはならないのである。
これは現代でも当てはまる大切な事である。また、これは霊的に当てはめて見ると、神が与えて下さったはかりに従って、奉仕し、仕えることが大切なのである(ローマ12:3)。
同時に神の賜物を十分生かし用いる事も忘れてはならないのである(第2テモテ1:6)。
“主よ、賜物を用いさせて下さい。アーメン”
 

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2007年2月10日(土) 聖書の箇所:民数記35章1〜34節/ 年間通読:出エジプト29〜30章
「これらの六つの町は、イスラエルの人々と、他国の人および寄留者のために、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである」。(15節)。
  レビびとの町とのがれの町である。旧約時代は殺人罪の赦しの対象はあやまって犯した殺人であった。故意のものは殺されたのであった。そして、この過失による殺人はのがれの町に行く事によって、助かったのであった。のがれの町はイエスさまによる赦しの型でもある。しかも、新約では故意の殺人もその赦しの対象である。なんという恵みであろうか。
 “主よ、イエスさまの赦しの恵みを感謝します。アーメン”
 

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2007年2月11日(主日) 聖書の箇所:民数記36章1〜13節/ 年間通読:出エジプト31〜32章
「ゼロペハデの娘たちについて、主が命じられたことはこうである。すなわち『彼女たちはその心にかなう者にとついでもよいが、ただその父祖の部族の一族にのみ、とつがなければならない』」。(6節)。
 女性に相続地が与えられた事である(民数記27:7)。 同時に部族から他の部族に土地が移らないようにという事との調整がなされている。クリスチャンの権利や自由という事と神の御心の遂行という事に関係してくる事でもある。
“ただその自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい”(ガラテヤ5:13)とある。
“主よ、自由や権利をあなたの御心の遂行のために用いさせて下さい。アーメン”
 

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2007年2月12日(月) 聖書の箇所:申命記1章1〜46節/ 年間通読:出エジプト 33〜34章
「モーセはヨルダンの向こうのモアブの地で、みずから、この律法の説明に当った」(5節)
  申命記は、神のしもべモーセが、主によって再び授けられた命令を、民に語ったのをしたためた書である。この民とは、今や出エジプトから40年の月日が流れ(3節および民数記32:13、33:38を参照)、出エジプトや十戒授与のことをよく知らない世代にかわっている。モーセは、新しい地にこの新しい世代の民が進むに当たり、みずから信仰と教えの継承を行ったのである。
正しい信仰と教えの継承なしに、私たちの次の世代の未来はあり得ない。
“主よ、次の世代への正しい信仰と、教えの継承ができますように助けて下さい。アーメン”
 

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2007年2月13日(火) 聖書の箇所:申命記2章1〜37節/ 年間通読:出エジプト 35〜37章
「あなたの神、主がこの四十年の間、あなたと共におられたので、あなたは何も乏しいことがなかった」(7節) 
  1章6節より始まったモーセのイスラエルの歴史を回顧する言葉は、4章40節まで続くが、2章はその一部である。40年間、イスラエルの民は荒野を放浪するが、その間、神様は彼らを見捨てていたのではない(申命記8:2参照)。神様は民と共に荒野を放浪し、共にいて下さり、民を守っておられたのだ。
この神様は、あなたが苦しいときにも、共にいて下さるお方である。神様の約束は確かである。この神様から離れることは愚かではないか?
“主よ、自分勝手に生きるのでなく、神と共にいる生き方を選ぶことができますように。アーメン”
 

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2007年2月14日(水) 聖書の箇所:申命記3章1〜29節/ 年間通読:出エジプト 38〜40章
「おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう」(28節)
  神様はモーセにヨシュアが跡継ぎとなることを示し、後継者ヨシュアを教えて、励ますようにと命じている。モーセ自身「やっとこれから」「まだまだ、これから」と思っていた時(24-25節)のことだ。神様はモーセに、イスラエルの大指導者であり続けることでなく、次の指導者の良き教育者となるように、求められた。
現代のキリスト教会の世代交代の秘訣も、ここにあるのではないか。
“主よ、教える者も、引き継ぐ者も、互いにへりくだり、主のために前進できますよう。アーメン”
 

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2007年2月15日(木) 聖書の箇所:申命記4章1〜49節/ 年間通読:マタイ 1〜4章
「ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。」(9節)
  私たちは、神様についての教え、神様ご自身による教えを変えてはならない(1-2節)。そして、神様は、私たちが呼び求める時、近くにいて下さるのである(7-8節)。
しかし、誰が神様の教えを破り、また誰が神様から離れていってしまうのだろうか。それは、私たち人間の方ではないか。いわゆる「困ったときの神頼み」だけであって良いのだろうか。
私たちが、いつも慎み、また自分を守ることが大切なのである。共にいる神様が、私たちを助けて下さらないはずはないのだから…。
“主よ、自分を守り、また、あなたと共にいることができるよう、弱い私を助けて下さい。
 アーメン”
 

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2007年2月16日(金) 聖書の箇所:申命記5章1〜33節/ 年間通読:マタイ 5〜7章
「イスラエルよ、きょう、わたしがあなたがたの耳に語る定めと、おきてを聞き、これを学び、これを守って行え。」(1節)
  有名な「シェマー」と言われる聖句である。「聞け、イスラエルよ!」、この言葉に導かれて、神の民イスラエルが守るべきこと、特に気をつけるべきことが述べられる。その最初は、十戒である。
さて、私たちは十戒を、ただ私たちを縛りつけ、私たちの生活を窮屈にさせる律法だと理解しているだろうか。それとも、それが私たちにさいわいを与えるためのものだと受け止めているだろうか(29節)。聖書はどのように語っているだろうか。
“主よ、あなたの御心・み言葉を守り、行い、幸いの道を選ぶことができますように。アーメン”
 

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2007年2月17日(土) 聖書の箇所:申命記6章1〜25節 / 年間通読:マタイ 8〜10章
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」(4節)
  第二番目の「シェマー イスラエル」(聞け、イスラエルよ)という言葉である。ここでは、神様が唯一であることが語られ、そして、この神様を「愛す」(5節)べきことが明言されている。ただ、驚くことは、神様を愛することと御言葉を守ることが、決して信仰継承と切り離されて扱われていないということである。
あなたが、神様を愛することと、神様のことを子孫・家族・周りの人々に伝えていくことは、別のことではない。そして、周囲への証しは、あなたが信仰に生きる時に始まる。
“主よ、心と、精神、力を尽くしてあなたを愛する人生に生かして下さい。アーメン”
 

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2007年2月18日(主日) 聖書の箇所:申命記7章1〜26節/ 年間通読:マタイ 11〜13章
「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。」(6節) 
  申命記7章は非常に厳しい感じもする。神様の命令をすべて守るように(1節他)と言われているが、「誰もそんなの守れない」と思う人がいるかも知れない。勿論、この地上にある限り、完全無欠ということはあり得ない。それは救われた者も同じである。しかし、神を信じる者、神を愛する者としての歩みは、ここに示されている基準、また聖なる生活を満たすものなのである。
神様の恵みによって、聖霊の助けを頂きながら、私たちは変えられ、成長し、そこに歩んでいくのである。
“主よ、私を聖なる者とし、また成長できるように助け、私と共に歩んで下さい。アーメン”
 

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2007年2月19日(月) 聖書の箇所:申命記 8章1〜20節/ 年間通読:マタイ14〜16章
「先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった」。(16節)。
  荒野はイスラエルの民に対する神の試練と訓練の場であった。マナを食べさせた事がそうであったとある。食物がない中で、不平と不満をもって、神につぶやいた時に、神はマナを降らせた。それは、神さまが私たちを生かし、また、常に神により頼み、更に、神の言葉こそ、人を本当に生かすのであるということを知らせ、さいわいにする為であったのである。
“主よ、毎日をあなたににより頼んで生きる者とさせて下さい。アーメン”
 

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2007年2月20日(火) 聖書の箇所:申命記 9章1〜29節/ 年間通読:マタイ17〜19章
「しかし彼らは、あなたの民、あなたの嗣業であって、あなたが大いなる力と伸ばした腕とをもって導き出されたのです」。(29節)。
  この民が悪いから主はあなたの前から追い払われるとある(4,5)。また、それはイスラエルの民が正しいからでない。イスラエルの民は“強情な民”(6)なのである。偶像礼拝に陥って主が滅ぼすと決めた民なのである。しかし、モーセのとりなしの故に、また、先祖に誓った誓いを覚えて、エジプトから大いなる力をもって贖いだした神の民であるが故に、イスラエルをカナンの地に導かれるのである。
“主よ、御愛と恵みによって、救われた事を感謝します。アーメン”
 

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2007年2月21日(水) 聖書の箇所:申命記10章1〜22節/ 年間通読:マタイ20〜22章
「すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである」(12,13節)。 
  主がイスラエルの民に求めている事がこれである。神を畏れ敬い、愛し、仕え、神の御心の中に歩む事である。そして、“さいわい”を得る事である。神の戒めと命令は、私たちが神に従う事によって、祝福を得る為に与えられたのであった。
“主よ、あなたの御心に歩む事によって、さいわいを得させて下さい。アーメン”
 

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2007年2月22日(木) 聖書の箇所:申命記11章1〜32節/ 年間通読:マタイ23〜25章
「もしわたしがあなたがたに命じるこのすべての命令をよく守って行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、主につき従うならば、 主はこの国々の民を皆、あなたがたの前から追い払われ、あなたがたはあなたがたよりも大きく、かつ強い国々を取るに至るであろう」。(22,23節)。
  ここに「このすべての命令」、また「そのすべての道」と記されている。すべてなのである。自分が好きだとか、自分がこれは得意だからというのでなく、神の命令と道はすべて守ることが大切なのである。
“主よ、あなたを愛するが故にすべてにおいて従わせて下さい。アーメン”
 

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2007年2月23日(金) 聖書の箇所:申命記12章1〜32節/ 年間通読:マタイ19〜27章
「あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」。(32節)。
  主の住まいとしての幕屋、或いは神殿に燔祭や十分の一や誓願の供え物、自発の供え物を携えて行って、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して得るすべての物を喜び楽しむ事が命じられている(6,7)。そしてここでも、神が命じるそのままを、加えることなく、減らすことなく、行う事が言われている。神が言われるその如くに従うべきなのである。
“主よ、あなたの言われるありのままを受け入れ、実践させて下さい。アーメン”
 

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2007年2月24日(土) 聖書の箇所:申命記13章1〜29節
年間通読:マタイ28章 レビ4〜6章
「あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである」。(13節)。
  預言者や夢みる者がしるしや奇跡を示して、他の神々に、従い仕えようと言ってもそれに聞き従ってはならないと警告している。しるしや奇跡は悪魔的な、他の神々も行う事が出来るという事である。騙されてはいけないのである。
“主よ、あなたからのものかそうでないかを確かめさせて下さい。アーメン”
 

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2007年2月25日(主日) 聖書の箇所:申命記14章1〜29節/ 年間通読:レビ7〜9章
「あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた」。(2節)
  イスラエルの民は「主の聖なる民だ」とある。主の為だけに仕え、礼拝するものとして他と区別された民なのである。クリスチャンも同じく神のために聖別された民である。傷もしみもない小羊のようなキリストの血によって、聖別されたのである。また、宝の民とされているのである。これも一方的な神の愛によって選ばれたからである。
“主よ、あなたが私たちをイエスさまの贖いにおいて宝の民とされている事を感謝します。
 アーメン”
 

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2007年2月26日(月) 聖書の箇所:申命記15章1〜23節/ 年間通読:レビ 7〜9章
「あなたがたのうちに貧しいものはなくなるであろう」(4節) 
  この章では所有物の4つのこと、(1)貸したお金の免除、(2)貧しい者への施し、(3)邦人奴隷の解放、(4)家畜のうい子の聖別、が言われている。共通の法則は、人間そのものが、利益や所有物に優先し(1-18節)、また、全ての所有物は神様が与え給う(7-11, 19-23節)ということである。
「主のゆるし」(2節)を、「主があなたを恵まれたように」(14節)、あなたが自分の隣人や貧しい者にしていくことが大切なのである。全てのものは神様から与えられ、主があなたを祝福されたからである。
“主よ、あなたから頂いた全ての祝福を周りの人々に、分け与える者として下さい。アーメン”
 

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2007年2月27日(火) 聖書の箇所:申命記16章1〜22節/ 年間通読:レビ 10〜12章
「あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない」(17節)
  旧約時代の「祭儀」が前半に語られている。神様がして下さったすばらしい恵みに目をとめ、それを年毎に、また「祭り」を行う毎にそれを思い起こすためである。そして、これらの「祭り」は神様が下さる祝福を喜び楽しむためのものである。ただし、それは自分の快楽のためではなく、「主のために」(15節)行う祭りである。主の祝福は、正しく理解され、神への感謝となるべきなのだ。
“主よ、あなたが与えてくださっている祝福を一つ一つ覚えます。そして感謝します。アーメン”
 

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2007年2月28日(水) 聖書の箇所:申命記17章1〜20節/ 年間通読:レビ 13〜14章
「また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。」(16節)
  この御言葉は王に立てられる者への忠告である。権威ある立場に立てられた者は、その権威を私物化してはならないということである。
しかし、この言葉は現代に生きる私たちに、無関係ではない。私たちはクリスチャンとしての良き証しを立てるために、老後、子供の教育費、日々の生活のためにお金を蓄える必要がある。
しかし、それは神様を第一としなくて良いということでは決してないのだ。神の栄光ために将来に備え、主の栄光のためにそれを使う者でありたい。
“主よ、あなたこそが与え主です。私にその管理者としての務めを果たさせて下さい。アーメン”
 

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