デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年3月のデボーション
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2007年3月1日(木) 聖書の箇所:申命記18章1〜22節/ 年間通読:レビ 15〜18章
「あなたの神、主の前にあなたは全き者でなければならない。」(13節)
  この章では、宗教的指導者である祭司(レビ人)と預言者に関する規定、彼らに従うことと、また偽者(ニセモノ)を見破る方法が書かれている。本物の宗教的、霊的指導者は、神によって選ばれ(5節)立てられ(15節)、神の命じられることを語るので(19節)、その言葉が成就する(22節)。
さて、ここで言われる「全き」ということは、これらの人を通して「神にのみ」聴くという文脈で語られている。中心は神に聴くということであって、この神から心移りをしてはならないということなのである。
“主よ、偽者を見極める目、あなたに聴く耳、それを行う心と力を、与えて下さい。アーメン”
 

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2007年3月2日(金) 聖書の箇所:申命記19章1〜21節/ 年間通読:レビ 19〜21章
「罪のない者の血が流されないようにするためである。」(10節)
  逃れの町と呼ばれる場が作られるための理由が述べられている。故意(わざと)でなく犯した罪(殺人)は赦される、とある。
確かに彼は犯罪者であるが、聖書はそのような人を罪人とは呼ばず、逃れの町において「罪のない者」として扱う。勿論、悪意をもってすることを、決して神様はお見逃しにはならない(21節)。
しかし、全く罪のないキリストの血が十字架の上で流されたことによって、私たちがたとえ悪意をもって犯した罪でも赦され、キリストにおいて「罪のない者」とされるのだ。
“主よ、「罪なき者」と呼んで下さる恵みを感謝します、それに相応しく歩めますように。アーメン”
 

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2007年3月3日(土) 聖書の箇所:申命記20章1〜20節 / 年間通読:レビ 22〜24章
「イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。…」(3節)
  (4番目の「シェマー イスラエル」<聞け、イスラエルよ>)。
20章は戦いの心備えを教えている。私たちは、戦いに集中していないと勝てないし、恐れがあると勝つことができない。また将来を見据えて戦う必要がある。この敵とは何も実際の人間だけではない。
私たちの困難が敵となり得る。敵を恐れる必要がないのは、主が共におられ、主が戦って下さるから(4節)である。主と共に戦うのだ。
“主よ、今、与えられている困難にこれから立ち向かっていきます、共にいて下さい。アーメン”
 

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2007年3月4日(主日) 聖書の箇所:申命記21章1〜23節/ 年間通読:レビ 25〜26章
「あなたがたのうちから悪を除き去らねければならない」(21節)
  この章には、(1)行き倒れの死人の葬り、(2)女性捕虜の扱い、(3)相続、(5)教育の行きづまり、(5)死刑にされた遺体の扱い、が書かれている。
聖書は、生活の非常に細かいところまで、基準を示している。生活において人をどのように丁重に扱い、人に接していくかということを教えている。
たとえ、犯罪人であっても、死体をさらし物にしないようにと規定しているのは驚きだ。また、人を、特に親を、尊敬した歩みができないことは、悪とされている。あなたの対人意識はどうだろうか。
“主よ、隣人を愛する心・尊敬の念、また弱い人を公平に扱い配慮する心を与えて下さい。アーメン”
 

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2007年3月5日(月) 聖書の箇所:申命記22章1〜30節/ 年間通読:レビ27章 マルコ1,2章
「身にまとう上着の四すみに、ふさをつけなければならない」。(12節)。
  動物や物の紛失物は、自分のものと同じように取り扱う事。そして、女が男の着物を着たり、男が女の着物を着ることを禁じているが異教の習慣であったのかもしれない。更に鳥に対する配慮。尚、不自然な組み合わせの禁止。離婚に関して等が記されている。
さて、冒頭の御言葉であるが、これは民数記15章37節から41節にその理由が書かれてある。ふさを見て主のもろもろの戒めを思い起こすためである。そして、みだらな行いをしないためである。
“主よ、いつもあなたをわたしの前に置くようにして下さい。アーメン”
 

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2007年3月6日(火) 聖書の箇所:申命記23章1〜25節/ 年間通読:マルコ3〜5章
「しかし、あなたの神、主はバラムの言うことを聞こうともせず、あなたの神、主はあなたのために、そののろいを変えて、祝福とされた。あなたの神、主があなたを愛されたからである」。(5節)。
  バラクがバラムを呼んでイスラエルの民を呪わせようとしたが(民数22〜24章)、バラムはイスラエルを祝福する事が主の御心にかなう事を見たので祝福の言葉を述べたのであった(民数24:1)。それは「あなたの神、主があなたを愛されたからである」とあるとおり愛の故であった。
“主よ、あなたの強い、変わらない愛を感謝します。アーメン”
 

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2007年3月7日(水) 聖書の箇所:申命記24章1〜22節/ 年間通読:マルコ6〜8章
「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう」。(19節)。
  寄留の他国人と孤児と寡婦と言う弱い者に対する愛がこのような形で命じられている。束を置き忘れるということは過失であるが、それをとりに引き返すなと言う事はそのような中にも神の摂理を見る事ができるというのである。それが祝福となるのである。
“主よ、私たちにも弱い者に対する愛を与えて下さい。アーメン”
 

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2007年3月8日(木) 聖書の箇所:申命記25章1〜19節/ 年間通読:マルコ9〜10章
「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない」。(4節)。 
  「くつこ」とは漢字では“口籠”と書き、食べたり、噛み付いたりしないために、牛とか馬などに、かぶせるために鉄または縄の網で作った籠の事である。ここでは牛に用いられているが、牧師、伝道者に当てはめられて言われている(第1コリント9:9、第1テモテ5:18)。
お金を第一の目的でなく、第一は愛の故に、神からの使命の故に働くのであるが、当然、報酬は受ける事が出来るのであり、差し上げるべきなのである。これは、ほかの職業についても当てはまるものと思われる。
“主よ、あなたが報いと言う望みを与えて下さる事を感謝します。アーメン”
 

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2007年3月9日(金) 聖書の箇所:申命記26章1〜19節/ 年間通読:マルコ11〜13章
「あなたの神、主が賜わる国にできる、地のすべての実の初物を取ってかごに入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる所へ携えて行かなければならない」。(2節)。
  主が与えられた土地であり、主が与えられた産物であるという事を現し、感謝する事をどのように現すかである。「すべての実の初物」をとってかごに入れて主がその名を置くために選ばれた所(幕屋及び神殿)に持っていっていくように命じられている。これは過去と現在への感謝を表すものである。
“父なる神さま、過去に対しても、現在に対しても、心から感謝させて下さい。アーメン”
 

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2007年3月10日(土) 聖書の箇所:申命記27章1〜26節/ 年間通読:マルコ14〜16章
「またモーセとレビびとたる祭司たちとは、イスラエルのすべての人々に言った、「イスラエルよ、静かに聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。
それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、わたしが、きょう、命じる戒めと定めとを行わなければならない」。(9,10)節)。 
  信仰の今とも言うべき事が「きょう」と言う言葉で表されている。今私たちは、神さまと生きた関係を持つ必要がある。私たちは主の民であるから、主のみ旨に生きるのである。
“主よ、あなたの民である事の故に、み旨の中を歩ませて下さい。アーメン”
 

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2007年3月11日(主日) 聖書の箇所:申命記28章1〜68節/ 年間通読:民数記1〜3章
「あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう」。(3節)。 
  主に聞き従い、主の戒めを守り行なうならば、祝福があらゆる所で、あらゆる事柄においてあるのである。しかし、聞き従わなければ、呪われるのである(15)。ところで、新約においては、どうなのであろうか。
新約においてはイエス・キリストを信じて従うか、信じないで従わないかである。キリストにおいて、豊かな恵みが注がれ、祝福が与えられるのである。キリストと結び合わされて、罪が赦され、その命と御言葉に生きる事により、祝福があるのである。
“主よ、キリストにしっかりと結び合わされて、豊かな実を得させて下さい。アーメン”
 

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2007年3月12日(月) 聖書の箇所:申命記29章1〜29節/ 年間通読:民数記 4〜6章
「わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。」(14節)
  29章は、28章までとは区切られた形で、再びイスラエルの民と神様との契約・誓いを書き始める。この契約は、もともと、初代の出エジプトを経験した人々に与えられたものであるが、御言葉にあるように、それが次の世代、つまり、この29章が語られた時に生きている第二世代とそれに続く者を含むものであったことがわかる。モーセはそれを確認し、すでに与えられた恵みを人々に思い起こさせている。現代にも、キリストにあって同じ神様からの恵みが注がれる事を覚えよう。
“主よ、イスラエルを恵んでくださったあなたが、私をも恵んで下さいますように。アーメン”
 

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2007年3月13日(火) 聖書の箇所:申命記30章1〜20節/ 年間通読:民数記 7〜9章
「あなたは命を選ばなければならない。」(30節)
  聖書が語る道は二つだけである。死か命かのいずれかだ。確かにイスラエルの民は、神様によって選ばれ、神様がご自身をお示しになり、約束を与えられた「選びの民」であった。しかし神様はそれと同時に、民が「主の声に聞き従うか」どうか、テストされていることに注意したい。信仰、救いは、確かに神様から一方的に恵みによって与えられるが、実際に、それを受け取り、そのように生きるのかどうかは、私たちに任されていることなのである。あなたはどちらを選ぶだろうか。
“主よ、私も命の道を選んで歩んでいきたいです。弱い私を助けていて下さい。アーメン”
 

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2007年3月14日(水) 聖書の箇所:申命記31章1〜30節/ 年間通読:民数記 10〜13章
「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。」(8節)
  この御言葉は、イスラエルの民が新しい地に入っていく直前に与えられた言葉であるが、神様は、民の不忠実さと、頑固さ、将来の反逆を、すでに知っておられた(16-29節)。それでも、神様は民に先立って約束の地に入り、民を守る約束をし、また前章までのように、神様を中心とした生活へと民を招かれたのである。人間の罪の根深さと同時に、神の愛と忍耐を改めて教えられる。
“主よ、イエス様の贖いの御業と、聖霊の助けによる救いに、改めて感謝します。アーメン”
 

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2007年3月15日(木) 聖書の箇所:申命記32章1〜52節/ 年間通読:民数記 14〜16章
 「この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。」(47節)
  モーセの歌は神様が本当の神様であり、信頼に値するお方であることを言い表している。神様は力ある支配者であり、敵を手に渡されるという神様の約束があるが、民の神様への反逆も歌の中に記されている(15-26節)。
さて、44節以降はモーセが約束の地に入ることができない理由を書いているが、それはたった一度のミスが原因であったとされる。これは指導者の責任の重さ、神様の言葉の厳粛さ、そして神様への背きは必ず刈り取る時が来るという警告でもある。
“主よ、あなたの言葉の厳粛さを受け止め、それを実践できるように助けて下さい。アーメン”
 

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2007年3月16日(金) 聖書の箇所:申命記33章1〜29節/ 年間通読:民数記 17〜20章
「神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した。」(1節)
  モーセが遺言として、民に祝福の言葉を残している。それぞれが、神様からの祝福の言葉を与えられる中、ルベン族だけが、「これが、本当に祝福なのか?」と問いたくなるような言葉を与えられるが、これはルベンが犯した大きな罪のゆえである(創世記35章、49章)。
このことから言えることは、本来、罪を犯した者は、祝福を得ることができないということなのである。だから、今日、私たちが祝福を得ることができるのは、神様の憐れみと、キリストの犠牲の大きさのゆえなのである。
“主よ、祝福に値しないような私にも祝福を与えてくださっていることを感謝します。アーメン”
 

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2007年3月17日(土) 聖書の箇所:申命記34章1〜12節/ 年間通読:民数記 21〜23章
「モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。」(10節)
  申命記32章で見たように、モーセは約束の地に入ることができないと、神様からの宣告を受けた。しかし、この34章を読む時に明らかなように、神様とモーセはずっと親しい関係にあり続けたし、モーセ程の預言者はその後も起こらなかったのだ。
ではモーセはどのような気持ちで、死んだのであろうか?悔しかっただろうか?ひどいと思っただろうか?想像にしか過ぎないが、そのようなことはなかっただろう。神様の意図をよく理解し、へりくだってそれを受け止めたと思う。
“主よ、私たちもあなたに近い者、あなたのみ心を知る者として下さい。アーメン”
 

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2007年3月18日(主日) 聖書の箇所:ヨシュア記1章1〜17節/ 年間通読:民数記 24〜26章
「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与える」(3節)
  ヨシュア記を読むと、この書の中で「足」が重要な意味を持っていることに気づく。信仰の一歩を踏み出し、信仰に立つことが、体の具体的な器官・「足」に関係づけられて記されている。約束の地へと信仰の一歩を踏み出す時、現実には足が約束の地との接点である。
ヨルダン川を渡る時、神の使いに会った時、敵の王を倒す時、足の裏がどこにあるか気を付けて読んで欲しい。
“主よ、今遣わされている場で、神様の約束を信じ、信仰の一歩を踏み出させて下さい。アーメン”
 

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2007年3月19日(月) 聖書の箇所:ヨシュア記2章1〜24節/ 年間通読:民数記27〜30章
「そして彼女は赤いひもを窓に結んだ」。(21節)。
  二人の斥候がエリコの町に遣わされ、遊女ラハブという家に泊まったが、それが王に報告されてしまったのであった。しかし、ラハブは彼らを屋上にかくまい、追手からを守り、逃がしたのであった。
その時、「あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください」(12)と言う条件を出したのであった。それを彼らが受け入れ、赤い糸のひもを結びつけるように言ったのであった。
これは、十字架を信じることの雛形とも言う事ができる。
“主よ、十字架の恵みを信じさせて下さい。アーメン”
 

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2007年3月20日(火) 聖書の箇所:ヨシュア記3章1〜17節/ 年間通読:民数記31〜33章
「箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、―― 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った」。(15,16節)。
  ここには、カナンの地を与えると言うしるしが記されている。紅海を分けた同じ主がヨシュアと共にいまして、救いのみ業をなされたのである。
“主よ、あなたの大きな救いのみ力を感謝します。アーメン”
 

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2007年3月21日(水) 聖書の箇所:ヨシュア記4章1〜24節
年間通読:民数記34〜36章, ヨハネ1章
「主の契約の箱をかく祭司たちはヨルダンの中から上がってきたが、祭司たちの足の裏がかわいた地にあがると同時に、ヨルダンの水はもとの所に流れかえって、以前のように、その岸にことごとくあふれた」。(18節)。
  ヨルダン川がせき止められたのが神の特別なみ業である事を分からせるために、「祭司たちの足の裏がかわいた地にあがると同時に」以前のように戻ったのであった。神が働いたのであって、決して偶然ではないのである。今も、神は約束を、信じるものに対し、求めるものに対し、み業をなされるのである。
“主よ、大いなる力をもって、救いのみ業を行って下さい。アーメン”
 

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2007年3月22日(木) 聖書の箇所:ヨシュア記5章1〜15節/ 年間通読:ヨハネ2〜4章
「すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である』。ヨシュアはそのようにした」。(15節)。
  ヨシュアは自分が軍勢の将として、イスラエルの民を率いて、行こうとしていたところ、軍勢の将は神であるという事(このひとりの人は受肉前の御子とも言われている)を知らされたのであった。
ヨシュアにはその将の前に全くへりくだって、明け渡す事が求められていたのであったが、その命令に、従順に従ったのであった。
“主よ、あなたが先頭に立って戦うお方であることを信じさせて下さい。アーメン”
 

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2007年3月23日(金) 聖書の箇所:ヨシュア記6章1〜27節/ 年間通読:ヨハネ5〜6章
「七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、『呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった』」。(16節)。
  「主はヨシュアに言われた、『見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている』」(2)とある。しかし、ここで忘れてはならない事は神が与えると言われたものは神の方法をもって与えて下さるという事である。イスラエルの民は、戦わずして、勝利したのであった。彼らが求まられていた事は神の方法に従うことであった。
“主よ、あなたの方法に従わせて下さい。アーメン”
 

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2007年3月24日(土) 聖書の箇所:ヨシュア記7章1〜26節/ 年間通読:ヨハネ7〜8章
「あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう」。(12節)。
  イスラエルの民はアイに破れたが、それは、少ない人数で戦ったからではなかったのである。敗因はアカンが触れてはならないものを欲しくなって取り、主の倉に納めなければならない銀と金を自分のものにして隠していた故に、主にのろわるべきものとなっていたので、主が共にいなかったからであった。
“主よ、のろわるべき罪を徹底的にきよめて取り除いて下さい。アーメン”
 

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2007年3月25日(主日) 聖書の箇所:ヨシュア記8章1〜35節/ 年間通読:ヨハネ9〜11章
「モーセが命じたすべての言葉のうち、ヨシュアがイスラエルの全会衆および女と子どもたち、ならびにイスラエルのうちに住む寄留の他国人の前で、読まなかったものは一つもなかった」。(35節)。
  アイに対する勝利が記されている。アカンとその家族が石で撃ち殺され、火でもって焼いた事によって、主の怒りはおさまり、主がイスラエルの民と共におられるようになった。それから、用意周到な作戦を立てて、それを実行して、勝利を得たのであった。
そして、ヨシュアは神に献げ物 をし、御言葉をことごとく民に読み聞かせたのであった。
“主よ、侮ることなく、へりくだって、戦いに臨ませて下さい。アーメン”
 

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2007年3月26日(月) 聖書の箇所:ヨシュア記9章1〜27節/ 年間通読:ヨハネ12〜14章
「そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ、主のさしずを求めようとはしなかった。」(14節)
  ギベオンの住民は策略を巡らしてヨシュアとイスラエルを欺き、和を講じることに成功した。ここで聖書は淡々と出来事を記しているが、たった一言イスラエルが重大な信仰の基本を逸脱したことを述べている。8章の終わりには、モーセの律法を読み、聞いたことが記されているのに。私たちは、神の言葉を聞くという信仰の基本を学び続ける必要がある。どのように主のさしずを求めるのだろうか、み言葉をどう生活に適応すべきなのか、それを体得していく必要がある。
“主よ、実生活の中で、み言葉に聞き、実践できるように成長させて下さい。アーメン”
 

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2007年3月27日(火) 聖書の箇所:ヨシュア記10章1〜43節/ 年間通読:ヨハネ15〜19章
「その時、主はヨシュアに言われた、「彼らを恐れてはならない」」(8節)
  ヨシュアとすべての民は、ギベオンの人々を助けるためにのぼって行った。その時主はヨシュアに語られた。
私たちは、信仰においてもその他のことにおいても失敗をすれば、後ろ向きになりやすい。しかし私たちは、主のみ言葉を聞く以外に進むことのできる道はない。そして主は、失敗も恐れもご存知で、新しく語って下さる。
すぐに対処し立ち向かわなければならない現実を前にして、ヨシュアはどれ程主に飢え渇き求めたことだろうか。彼の心は、出来事でなく主に向いていたのではないか。
“父よ、私の目をあなたに注いでいます。どうすべきか教えて下さい。アーメン”
 

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2007年3月28日(水) 聖書の箇所:ヨシュア記11章1〜23節
年間通読:ヨハネ20,21章、申命記1,2章
「ヨシュアはこれらすべての王たちと、長いあいだ戦った。」(18節)
  11章にはその後どのようにカナンを征服したか記されてある。列記してあるので短期間のことのように感じられるが長い時間がかかったのである。
私たちが、悪魔の策略を打ち破り、主の約束の実を実際に勝ち取っていくことも一生かかっての長期戦である。瞬発的な踏ん張りも大事だがそれだけでは持ちこたえられない。現場だけに目を奪われると、目標を見失い疲れてしまう。主の再来を見据えて、絶えず主の言葉を確認しよう。常勝の秘訣は力よりも兵站(補給路)である。
“神様、主の再臨を待ち望みつつ、一歩一歩足の裏で踏んで前進できますように。アーメン”
 

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2007年3月29日(木) 聖書の箇所:ヨシュア記12章1〜24節/ 年間通読:民数記 14〜16章
「ヨシュアと、イスラエルの人々とが、撃ち滅ぼした国の王たちは、次のとおりである。」(7節)
  この章には、ヨルダン川の東側および西側でイスラエルの人々が討ち滅ぼした王たちがもう一度記されている。これらの国々はその悪が満ちて、滅ぼされ、イスラエルに与えられたのである。
私たちには、神様から信仰によってどんな恵みを与えられたかを振り返る時が必要である。キリストの十字架をとおして、何が除かれ、何が与えられたのか。どのように変えられて、どこへ向かっているのか。一日一回、週に一日、また節目ごとに与えられた恵みを確認し前進しよう。
“主よ、主から豊かな命が与えられたことをしっかりと確認して、感謝できますように。アーメン”
 

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2007年3月30日(金) 聖書の箇所:ヨシュア記13章1〜33節/ 年間通読:民数記 17〜20章
「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。」(1節)
  日本でも、退職者の人材活用が言われて久しい。ヨシュアも約束の地、取るべき所は取ったと思っていたに違いない。やっと戦争がやんだと一息ついていたにのだろう。しかし主の見るところは違っていた。
私たちが取っていない嗣業の地とは、なんだろうか。罪との戦い、習慣的なものとの戦いだろうか、信仰の土台は据えられたか?感情やコントロールや自制、愛、喜びなどの御霊の実、未信者の家族・親族、友人等々。ああ何と多く残っていることか。だが主が得させて下さる(6節)。
“主よ、取るべき地が多く残っています。主に信頼してもう一度立ち上がります。アーメン”
 

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2007年3月31日(土) 聖書の箇所:ヨシュア記14章1〜15節/ 年間通読:民数記 21〜23章
「わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。」(11節)
  カレブの嗣業について。カレブは12人の斥候の一人であった。他は民の心をくじいたが、カレブとヨシュアは全く主に信頼し、従った(民数記13、14章)。言葉と行動の両方が何と力強いことであろうか。
私たちは過去の成功、栄光、信仰に頼っては足場を失うが、神様からのみ言葉や恵み、信仰の勝利を財産として、へりくだって正しく用いるなら、それはさらなる信仰の勝利へとつながる。今日の勝利は、明日の勝利への近道である。
“主よ、今日この日、恵みで満たして下さい。それが明日の勝利につながることを感謝します。 アーメン”
 

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