デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年4月のデボーション
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2007年4月1日(主日) 聖書の箇所:ヨシュア記15章1〜63節/ 年間通読:民数記 24〜26章
「カレブは彼女に、何を望むのかとたずねた。」(18節)
  ユダ部族の得た嗣業の地であるが、キリアテ・セペルを得たときのエピソードが記されている。カレブの弟オテニエルがその地を取り、カレブの娘を妻として得る。その時、彼らがカレブに畑を、二つの泉を求めた。
創造主なる神様は、時折私たちに「何を望むのか」と具体的に尋ねておられる。豊かに与えることのできるお方である。私たちは、自分は満ち足りてるように思うかもしれない。しかし主はもっと与えることができる。どん欲なほどにもっともっと主の恵みを求めていこう。「カレブは彼女に上の泉と下の泉とを与えた。」 
“主よ、私のこの必要を与えて下さい。アーメン”
 

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2007年4月2日(月) 聖書の箇所:ヨシュア記16章1〜10節/ 年間通読:申命記16〜19章
「こうしてヨセフの子孫のマナセと、エフライムとは、その嗣業を受けた」。(4節)。
  ヨセフ族の領土(マナセ族とエフライム族)。神の恵みにより、ヨセフは2人分を嗣業として受ける事になり、それがマナセ族とエフライム族とに分け与えられたのであった。“その枝はかきねを越えるであろう”(創世記49:22c)とのヤコブを通しての御言葉の通りであった。
ヤコブの12人の子供の子孫に与えられるべきなのに、こうなると一部族分が足りなくなる。そこで、レビ族には土地でなく神御自身が嗣業として与えられたのであった。
“主よ、私たちにも、かきねを越えるような祝福を下さい。アーメン”
 

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2007年4月3日(火) 聖書の箇所:ヨシュア記17章1〜18節/ 年間通読:申命記20〜23章
「山地をもあなたのものとしなければなりません。それは林ではあるが、切り開いて、向こうの端まで、自分のものとしなければなりません。カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」。(18節)。
  ここには与えられるのをただ待つという信仰でなく、神さまの導きに従って、切り開いていく信仰が言われている。私たちにも、自分たちで、神にあって、端まで切り開く信仰が大切である。また、敵がどんなに強そうでも、神の故に追い払う事ができるのである。
“主よ、あなたにあって、端まで切り開き通す信仰をお与え下さい。アーメン”
 

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2007年4月4日(水) 聖書の箇所:ヨシュア記18章1〜28節/ 年間通読:申命記24〜27章
「ヨシュアはイスラエルの人々に言った、『あなた方は、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか』」。(3節)。
  この言葉も積極的な、求めていく信仰を勧めている。これからあなた方が取りに行く地は、主が既にあなた方に与えられた土地だと言うのである。主が既に備え、与えてくださった土地を私たちのものとして、取りに行くのである。その為に、図面にしなさいとヨシュアは命じておられる。どの土地かと境界線はどこかを明確にすることが求められているのである。
私たちも、いつまでも、御心と信じて、何を求むべきかを明確にする事が大切である。
“主よ、求むべきものを明確にさせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月5日(木) 聖書の箇所:ヨシュア記19章1〜51節/ 年間通読:申命記28〜29章
「これらは、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエルの子孫の部族の族長たちが、シロにおいて会見の幕屋の入口で、主の前に、くじを引いて分け与えた嗣業である」。(51節)。
  くじを引いて土地を分け与えたのであった。これに立ち会ったのが、祭司エレアザルとヨシュアと族長たちであった。また、“主の前に”にある。ただ代表者の前だけでなく、いつも主が中心であり、くじを引くにも、主の導きを信じて行ったのであった。
私たちもいつも主の前において業を進める事が大切である。
“主よ、全ての事においてあなたのみ前においてなさせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月6日(金) 聖書の箇所:ヨシュア記20章1〜51節/ 年間通読:申命記30〜32章
「イスラエルの人々に言いなさい、『先にわたしがモーセによって言っておいた、のがれの町を選び定め、 あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい」。(2,3節)。
  のがれの町。のがれの町についてはモーセによって言われていたものであった(出エジプト21:13、民数記35章)。この6つの町はレビ人の町でもあった。あやまって殺した場合はそこにのがれる事によって、赦されたのであったが、会衆の前でのさばきがなされなければならなかった。そして、大祭司が死んだ後、自分の町に帰る事ができた。
“主よ、イエスさまがのがれの町となっていてくださる事を感謝します。アーメン”
 

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2007年4月7日(土) 聖書の箇所:ヨシュア記21章1〜45節
年間通読:申命記33〜34章,使徒1章
「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した」。(45節)。
  主の約束の真実な事が言われている。“すべての良いこと”とあるが、主は私たちに良いことをなそうとしておられる恵み深いお方なのである。そして、“一つとしてたがわず、みな実現した”とは、徹底した誠実さをもって御業をなさるお方なのでもある。私たちは主が言われた良き約束はかならず実現するのだという事を全面的に信じる信仰の人になろうではないか。
“主よ、あなたの御言葉をその通りに信じさせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月8日(主日) 聖書の箇所:ヨシュア記22章1〜34節/ 年間通読:使徒2〜4章
「ルベンの子孫とガドの子孫は、その祭壇を「あかし」と名づけて言った、『これは、われわれの間にあって、主が神にいますという証をするものである』」。(34節)。
  ルベンの子孫とガドの子孫とマナセの半部族の土地の分配が終わるまで共にいたのであった。その後で、彼らはヨルダンの向こう側の自分たちの土地に帰り、そして、祭壇を築いた。しかしこれが誤解をまねいたのであった。しかし、よく説明する事によって、誤解を解くことができた。
“主よ、早合点をしないで、良く説明を聞く事ができるようにして下さい。アーメン”
 

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2007年4月9日(月) 聖書の箇所:ヨシュア記23章1〜16節/ 年間通読:使徒 5〜7章
「それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない。」(11節)
  主がイスラエルに安息を賜わってのちヨシュアが民に命じた言葉である。エジプトで奴隷として苦しんでいた彼らがカナンの地で安息を得られたのは、彼らの神、主が戦われたからである。主がどんなによくして下さったかを覚えて、主に仕えるのである。
私たちもキリストの十字架によって罪の世界から解放され、よみがえりの主によって永遠の命が与えられている。滅びの中よりあがない出された主の犠牲と愛に気付かされ、慎みをもって、精一杯に主を愛していくのである。
“父よ、この無価値な者に与えられた命を感謝し、愛し、仕えます。アーメン”
 

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2007年4月10日(火) 聖書の箇所:ヨシュア記24章1〜33節/ 年間通読:使徒8〜10章
「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。」(15節)
  この章では、もう一度、イスラエルと神様との契約が確認されている。苦しみと呪いを変えて、安息と祝福を賜わる主を愛し、仕えるのか、それとも全能の主に打ち破られた異なる神々に仕えるのかと問われている。
あなたは、昨日、今日だれに仕えて過ごしたであろうか。異なる神々とは、偶像もそうであるが、目の前の上司、最も身近な隣人、あるいは自身の野望や持ち物、趣味であるかもしれない。どこに命の源があるのかもう一度静まり、主に仕えたい。家族も共に。
“主よ、異なる神々を捨てます。私も私の家族も主に仕えます。アーメン”
 

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2007年4月11日(水) 聖書の箇所:士師記1章1〜36節/ 年間通読:使徒11〜13章
「主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追い出すことができなかった。」(19節)
  士師とはさばきづかさであり、カナン征服後、おもに各部族の救助者となった人々のことである。この章からは、ヨシュアの死後も、勢いをもって、カナンを勝ち取っている様子がうかがえる。ところが、主が共におられたのに、平地の強い民を追い出すことができなかった。
私たちも主を信じたら思い通りに行くのではない。カナンに入るのにも時があった。忍耐をもって主の時を待ち望んでいこう。
 “神様、主のみ心を願いつつできないことがあります。待ち望みます。アーメン”
 

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2007年4月12日(木) 聖書の箇所:士師記2章1〜23節/ 年間通読:使徒14〜16章
「これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。」(16節)
  この章から、ヨシュアの時代が去り、イスラエルの人々が、主を知らず、主の業を知らず、かえって他の神々に仕え悪を行ったことが記されている。彼らはさばきづかさ(士師)が起こされると主に従ったが、士師が死ぬと主に背き、他の民から苦しめられることになった。
主の祝福がとどまるということは、主を知り、主との深い交わりの中にあるところに起こってくる。絶えず主との交わりがなければ、主がわからなくなり信仰も命を失ってしまう。自らも主を深く知り、またこの信仰を次世代に手渡していきたい。
“主よ、深い交わりの中に主を知り、み心を行います。アーメン”
 

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2007年4月13日(金) 聖書の箇所:士師記3章1〜31節/ 年間通読:使徒17〜19章
「しかし、イスラエルの人々が主に呼ばわったとき、」(9,15節)
  イスラエルの民はさばきづかさが死ぬと、主をはなれ、自分勝手な道を進み、悪を行った。私たちが、十字架によるあがないと復活による命に与ったことは、他に代えられないすばらしいことであるが、この命にふさわしい生活が身に付くには、一つ一つのことを主の前に問いながら判断し、考えと行動が変えられていく必要がある。
あがないの尊さを知りながらも、幾度となく、主をはなれ、過ちを繰り返すことがあるかもしれない。それでも「主に呼ばわったとき」再び救いの道は開かれるのだ。
“主よ、主の愛を知りながら、過ちばかりです。しかし主よ、ゆるして下さい。アーメン”
 

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2007年4月14日(土) 聖書の箇所:士師記4章1〜24節/ 年間通読:使徒20〜22章
「イスラエルの神、主はあなたに、こう命じられるではありませんか、」(6節)
  女預言者デボラが主のみ声を聞いて、バラクに伝えたところである。バラクも招かれたことにいろいろと思いを巡らしたにちがいない。だがまさか、一万人の兵で、鉄の戦車九百両をもつシセラと戦えと言われたときには驚いたのではないか。鉄の戦車と歩兵。戦力(質)の差は、歴然としていた。
あなたは、まさかと思うような主の召しに、どう応えるだろうか。バラクは、デボラの助けを得て、立ち上がることができた。「必ずあなたと一緒に行きます」(9節)。共に支え合う信仰の友はなんという恵みであろうか。
“主よ、使命を果たします。信仰・祈りの友を感謝します。アーメン”
 

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2007年4月15日(主日) 聖書の箇所:士師記5章1〜31節/ 年間通読:使徒23〜25章
「わたしの心は民のうちの喜び勇んで進み出たイスラエルのつかさたちと共にある。主をさんびせよ。」(9節)
  デボラとバラクの勝利の賛美である。3,4節は、人の力による勝利でなく、主御自身が勝利されたことを表している。だが同時にその場に立つのは、主を信じて戦いに出た「人々」であった(13〜15,18節)。一方で思案してとどまり、助けなかった部族もあった(15〜17節)。
私たちの父なる神様は、この世(私たち)を愛し、その救いのために御子を惜しまず与えられた。主の憐れみを受けた者は、傍観者ではあり得ない。主の情熱のゆえに。友を滅びから救いたいがゆえに。
“主よ、主の情熱の故に宣教の戦いを戦います。勝利を感謝します。アーメン”
 

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2007年4月16日(月) 聖書の箇所:士師記6章1〜40節/ 年間通読:使徒26〜28章
「あなたの父の雄牛と七歳の第二の雄牛とを取り、あなたの父のもっているバアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像を切り倒し、」。(25節)。
  イスラエルの人々がミデアンびとに国を荒され、非常に衰えた時に、主に呼ばわると、主は彼らから解放するために、神によって、ギデオンが立てられた。神によって、立てられた事を、ギデオンが知った後、すぐに、神がギデオンに求めた事は、父の偶像の祭壇を打ち壊し、偶像を切り倒す事であった。働きの前に、偶像を壊す事が大切なのである。
“主よ、私たちもまず偶像を処分させて下さい。アーメン”
 

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2007年4月17日(火) 聖書の箇所:士師記7章1〜25節/ 年間通読:ヨシュア1〜4章
「主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」」。(7節)。
  主の戦いにおいては、人数が多い事でなく、主に栄光が帰せられる事が大切なのである。だから、3万2千人から、1万人にまで減らしたが、それでも主は多いと言われ、3百人まで減らした。3百人と13万5千人(8:10の数を足すと)との戦いである。到底勝ち目はなかったが、作戦を立て、夜に攻撃した。同時に、神が働いて同士討ちさせたのであった。
“主よ、あなたの勝利を見させて下さい。アーメン”
 

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2007年4月18日(水) 聖書の箇所:士師記8章1〜35節/ 年間通読:ヨシュア5〜8章
「ギデオンは彼らに言った、『わたしはあなた方を治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます』」。(23節)。
  ギデオンは神に立てられた器に過ぎないのであると言う彼の自覚が明確に述べられている。そして、子が治めてもいけないとも語っている。主が治めるのである。これは教会にも当てはめて言えることである。教会は神の教会であり、主の教会である。だから、主が治めるのである。その後、ギデオンは、せっかく立派なすばらしい事を語ったにも拘わらず、わなに陥ってしまったことは残念であった。
“主よ、あなたが支配者である事をいつも覚えさせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月19日(木) 聖書の箇所:士師記9章1〜57節/ 年間通読:ヨシュア9〜11章
「これはエルバアルの七十人の子が受けた暴虐と彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクの上と、彼の手を強めてその兄弟を殺させたシケムの人々の上とに報いとなってきたのである」。(24節)。
  神の刑罰がアビメレクと彼に加担したシケムに臨んだ(9:56,57)。また、これは、ヨタムによって言われた言葉(9:20)の実現でもあった。神は悪をそのままにしておかれることはなく、その悪に対する罰が下されるのである。
私たちは自分で復讐する事なく、神の怒りに任せる事が大切である。
“主よ、悪に負ける事なく、善をもって悪に勝たせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月20日(金) 聖書の箇所:士師記10章1〜18節/ 年間通読:ヨシュア12〜15章
「そうして彼らは自分たちのうちから異なる神々を取り除いて、主に仕えた。それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった」。(16節)。
  バアル、アシタロテ、スリヤの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々そしてペリシテの神々にイスラエルの民は仕えるようになってしまった(6)。これは主の前における悪であり、罪である。主もあきれて突き放したようなように、“あなたがたが選んだ神々に行って呼ばわり、・・・彼らにあなたがたを救わせるがよい”(14)と言われた。しかし、イスラエルは悔い改めたのであった。 
“主よ、真の悔い改めをなさせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月21日(土) 聖書の箇所:士師記11章1〜40節/ 年間通読:ヨシュア16〜19章
「わたしはあなたに何も悪い事をしたこともないのに、あなたはわたしと戦って、わたしに害を加えようとします。審判者であられる主よ、どうぞ、きょう、イスラエルの人々とアンモンの人々との間をおさばきください」。(27節)。
  エフタのアンモンの王への使者の祈りである。アンモンの王はこれを聞き入れなかったので、エフタに滅ぼされた。“主の霊がエフタに臨み”(29)とあるように、主が働いたのであった。しかし、残念な事に、彼は主にとんでもない誓願を立てて、自分の一人娘を燔祭として献げ、失ってしまったのであった。
“主よ、御心にかなう事を示し、それをなさせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月22日(主日) 聖書の箇所:士師記12章1〜15節/ 年間通読:ヨシュア20〜22章
「その時エフライムびとの倒れたものは四万二千人であった」。(6節)。 
  エフライムのエフタに対する言いがかり(1)と差別的言葉(4)に対する報復である。大きな群れであったエフライム族は士師記8章の1節でも“戦いに、なぜわれわれを呼ばなかったのか”とギデオンを責めている。ギデオンは知恵をもって答えて事なきを得た。しかし、ここでは戦いになってしまい、4万2千人もの者が殺されたのであった。指導権争いと大きな群れの傲慢さの結果であった。非常に残念なことである。そして、それからも神は士師を起こして、イスラエルを治めさせたのであった。
“主よ、あなたの前にへりくだりを与えて下さい。アーメン”
 

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2007年4月23日(月) 聖書の箇所:士師記 13章1〜25節
年間通読: ヨシュア 23,24章、ローマ1章
「マノアは彼が主の使であるのを知らなかったからである。」(16節)
  マノアが、そこにいる人が主の使いであると知らなかったとあるが不思議なことである。彼自身がもう一度その人が現れるように主に願った結果だからである。士師の時代は、神様がどんなお方か、自分たちにどんなすばらしいことをされたのか、十分によくわかっていなかった。それが聖なる民の迷走につながっている。
主を正しく知る必要がある。主は律法を守り、子らにも教えよと繰り返し言われている(申6:2)が、簡単にはこぶことではない。まず自分が神に会い、それを伝えるのである。マノアは主の不思議を見た(19節)。
“父よ、あなたをよくわからせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月24日(火) 聖書の箇所:士師記 14章1〜20節/ 年間通読:ローマ 2〜5章
「わたしは自分の父にも母にも解き明かさなかった。どうしてあなたに解き明かせよう。」(16節)
  神様を良く知ることは第一に大切であるが、人を良く知ることも大切である。聖書の個々に記されていることが、聖書全体でどう評価されているか気をつけたい。
聖書は、人間関係の第一を夫婦においている(創2:24他)。父母でない、子でもない、友人でもない、まして会社や趣味でもない。優先順位を間違えると家庭も自分もぐらつく。しかしこれが難しい。よく祈りつつ、夫婦でよく話し合ってはどうか、子供や仕事のことではなく、自分と相手のことを。互いに尊重しながら。
“主よ、愛する人を感謝します。お互いにもっとよく理解できますように。アーメン”
 

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2007年4月25日(水) 聖書の箇所:士師記 15章1〜20節/ 年間通読:ローマ 6〜8章
「それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。」(19節)
  サムソンは、主に用いられた一方で、主のみ心にかなわないことも多い。キリストにある現代とこの時代では、倫理観も違うので、全く同じに論じることはできないが、14章最後の行動は、自分でも、罪を認めたのであろう(3節)。それでも主は、彼を用い、イスラエルを治めさせられた(20節)。主のみ心にかなって歩むことは大切であるし、時に訓練を要する。だからといって、自分の欠点や不完全さにばかり心を留めるべきではない。自分の弱さを知り、主に呼ばわることこそ主の喜ばれることであり、解決の道である。
“神様、不完全な者です。助けて下さい。アーメン”
 

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2007年4月26日(木) 聖書の箇所:士師記16章1〜31節/ 年間通読:ローマ9〜11章
「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、」(28節)
  サムソンの弱点は、髪の毛というより女性(異性)であった。偽の愛であることを知りながらも、ほんのいっときの安らぎをそこに求めずにはおれなかったのである。現代も同じである。不思議なことに彼が不品行の中にいるときも、神様は彼を用いている。
教会の中でも、外面的な活躍がその人の主にある「きよさ」を保障するのではない。 それは、神様のみ言葉と主の十字架の前にへりくだり、砕かれることによるのである。主は彼の最後の祈りを聞かれたが、彼はもっと用いられたはずである。
“主よ、日々、主のみ言葉により、心を新たに造りかえ、用いて下さい。アーメン”
 

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2007年4月27日(金) 聖書の箇所:士師記17章1〜13節/ 年間通読:ローマ12〜15章
「そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。」(6節)
  ここでは、主を神としているようで、その実、造り主を礼拝しておらず、自分で勝手に偶像を造り、祭司を立て、礼拝している。私たちは、私たちの救いの道を開かれた主を自分の王とし、主の目に正しいことが基準であることを忘れてはならない。その基準を示しているのが聖書である。だから毎日、主なる王の基準に自分を照らし合わせるのである。
そして、私たちの周りには、自分を基準とする人も多くいる。この人たちにも、永遠に変わらない基準を知って欲しい。
“主よ、主を王として、主の目にかなうことを行わせて下さい。アーメン”
 

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2007年4月28日(土) 聖書の箇所: 士師記18章1〜31節
年間通読:ローマ16章、士師1〜2章
「その日までまだ嗣業の地を得なかったので自分たちの住むべき嗣業の地を求めていた。」(1節)
  ダン部族が、北方(のダン)にどのように嗣業の地を得たか記されている。確かに約束の地は与えられたが、その内容を見ると、信仰、道徳の規準は神様から、全くはなれていた。嗣業も大切であるが、主からはなれては何の意味もない。
私たちは、それぞれ社会で固有の所属と責任をもっている。はたしてそれは、主の前にどんな意味をもっているだろうか。その意味をわからずに、さまよっていることはないだろうか。主を中心に置くとき、その意味を見出すとき、そこは神の嗣業の地となる。
“主よ、主がなぜここに私を置かれたか教えて下さい。アーメン”
 

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2007年4月29日(主日) 聖書の箇所:士師記19章1〜30節/ 年間通読:士師3〜5章
「この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」(30節)
  イスラエルの中で、主に滅ぼされたソドム、ゴモラと同じような残虐非道なことが、起こった。 著者は、「これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。」(2:10)と述べている。
私たちの社会でも、驚くような事件が次々と起こってくる。ニュースでもいろいろな原因を探っているが、根本的な原因は、主を知らない、神を離れて自分の道を行くことにあると聖書は言っている。主の聖、義、主の愛とゆるしを知り、この社会が、世界が、主の元に立ち帰ってゆくように祈り、福音を伝えよう。
“主よ、世界が主に立ち帰り、神の愛が満ちますように。アーメン”
 

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2007年4月30日(月) 聖書の箇所:士師記20章1〜48節/ 年間通読:士師6〜8章
「こうしてイスラエルの人々は皆集まり、一致結束して町を攻めようとした」。(11節)。
  イスラエルの氏族の内ベニヤミン族がかつてなかった罪を犯したので、イスラエルの民はその罪を取り除くために、“主のもとに集まり”(1)、まず、罪を犯した人々を渡すようにベニヤミンに迫ったが、それを聞き入れなかった(13)。そこで、彼らは主の導きを求めつつ攻めて行ったが、イスラエルは、最初、2万2千人、続いて、1万8千人が打ち倒された。そして、尚、主の導きを求め、作戦を立てて攻め、勝利を得たのであった。
“主よ、如何なる時にも、あなたの導きを求めさせて下さい。アーメン”
 
 

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