デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年5月のデボーション
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2007年5月1日(火) 聖書の箇所:士師記21章1〜25節/ 年間通読:士師9〜11章
「そこで全会衆は人をつかわして、リンモンの岩におるベニヤミンの人々に平和を告げた」。(13節)。
  リンモンの岩に逃げていたベニヤミンの兵士たちは6百人(20:47)であった。イスラエルの人々は自分たちのうちからベニヤミンには娘を妻に与えないと誓った。すると、イスラエルから1つの部族が欠けることになるので、ヤベシ・ギレアデから4百人の処女を連れてきて、ベニヤミン人に与える事にして、平和を告げたのであった。それでも、足りなかったので、シロの娘たちのうちから好きなものを連れて帰り(略奪婚)、町々を立て直してそこに住んだ。
“主よ、神の民にふさわしいものとして下さい。アーメン”
 

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2007年5月2日(水) 聖書の箇所:ルツ記1章1〜22節/ 年間通読:士師12〜14章
「しかしルツは言った、『あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です』」。(16節)。
  ルツの姑に対する愛と従順とを表した言葉である。また同時に、自分の民族から離れて神の民になり、イスラエルの神、主を信じると言う信仰告白でもある。嫁と姑の模範的関係がここにある。同時に、ナオミは自分の嫁に対して、良き証しを立てていたとも言える。更に、これは異邦人をも救いに入れたもう事の雛形でもあるのである。
“主よ、あなたの民でないものをあなたの民として下さルコとを感謝します。アーメン”
 

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2007年5月3日(木) 聖書の箇所:ルツ記2章1〜23節/ 年間通読:士師15〜18章
「どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。(12節)。
  神さまはルツをナオミの夫エリメレクの一族で非常に裕福なボアズの畑に“はからずも”(3)導かれた。ボアズはルツに特別な親切を表してくれた。それは、ルツのよい評判を聞いていたからであり、ルツの“雌鳥が雛を守り、養うような”愛と豊かさをもったイスラエルの神に対する信仰をも見てとっていたからであった。
“主よ、あなたの御翼のもとにおらせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月4日(金) 聖書の箇所:ルツ記3章1〜18節/ 年間通読:士師19〜21章
「『あなたは誰ですか』と言うと、彼女は答えた、『わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは最も近い親戚です』」。(9節)。
  この当時、家を継ぐものがない場合には、最も近い親戚のものが、その家を再興する義務を持っていた。その家の土地を買い、そこの家の嫁をめとる(ルツ4:5)という大きな犠牲を必要としたので、豊かで又憐れみがないとこれはできない事であった。イエスさまの贖いは私たちの最も近い親戚になることが前提とされたのであった(へブル2:11)。
“主よ、あなたが私たちの兄弟となって下さった事を感謝します。アーメン”
 

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2007年5月5日(土) 聖書の箇所:ルツ記4章1〜22節/ 年間通読:第1コリント1〜4章
「どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。(12節)。
  タマルとユダ(創世記38章)は嫁姑の関係であったが、二人の間に子が生まれたのであった。これは聖書が禁じている事であったが、神は、それを恵みに変えたのであった。ナオミは夫と2人の息子をもなくした苦しい、悲しみの中にあったが、息子の嫁ルツががボアズに贖われて、その妻となり、子を設けて、ナオミの子とされたのであった。なんという恵みであろうか。
“主よ、悲しみを慰めて下さることを感謝いたします。アーメン”
 

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2007年5月6日(主日) 聖書の箇所:サムエル記上1章1〜28節
年間通読:第1コリント5〜8章
「彼女は言った、『どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させて下さい』。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった」。(1節)。
  ハンナの祈りである。同時に、彼女は信仰に導かれたのであった。それ故、“その顔は、もはや悲しげではなくなった”のであった。私たちは、祈った祈りを信じて、かなえて下さると信じることが大切である。事が起こる前に、“既に得たり”と信じることである。するとそのようになって行くのである。
“主よ、祈った祈りを確信できるまで祈らせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月7日(月) 聖書の箇所:サムエル上 2章1〜36節
年間通読:第1コリント9〜12章
「ハンナは祈って言った、『わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、』」(1節)
  ハンナの祈り、主への賛美である。なぜ、賛美を歌うのか。主が、心の叫び、祈りに答えて下さったからである。喜びがあふれてくるから賛美を歌っているのである。それは単純にうれしいという喜びではない。聖なるお方(2節)、世界をすえられた(8節)全能なるお方がこの弱き者(4節)に触れて下さった、み業を成して下さったという、畏怖をもって、万感の思いをもって祈っているのである。
私たちもみ言葉によって、主に触れていただこう。そして賛美の祈りを捧げよう。
“父よ、あなたの大いなることを賛美します。救いのみ業を賛美します。アーメン”
 

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2007年5月8日(火) 聖書の箇所:サムエル記 上 3章1〜21節
年間通読:第1コリント13〜15章
「『しもべは聞きます。お話しください』。その時、主はサムエルに言われた」(10,11節)
  主の言葉がサムエルにはじめて現された時のことが記されている。サムエルは最初の3回はだれが語りかけられたかわからなかった。主はなぜ単刀直入に御自身を示されなかったのだろうか。聞くために心の備えをさせたのかもしれない。
ともすると私たちも主の語りかけに気付かないで、親しい人、他のものに目を向けている。主はあなたに語りかけておられる。しかし聞くための備えができていなければ、大切な内容をそれ以上語ることはできない。主に心を向けて、心を備えよう。
“主よ、あなたに心を向けます。しもべは聞きます。お話しください。アーメン”
 

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2007年5月9日(水) 聖書の箇所:サムエル記 上 4章1〜22節
年間通読:第1コリント16章、ルツ1〜3章
「また神の箱は奪われ、エリのふたりの子、ホフニとピネハスは殺された。」(11節)
  イスラエルの敗北、そして祭司エリの家に対する裁きの成就。戦場に神の臨在を現す主の契約の箱を持ってきたが、大敗北であった。
主は無力であったのか。そうではない。主を造り主として、全能なる救い主として恐れないで形だけ整えても無意味である。主は欺かれるようなお方ではない。エリの二人の子は再三に渡る主の警告を無視し、神様をあなどり、捧げ物を盗み、不品行をなし、罪を犯し続けた。そしてエリも本当の注意をしなかった。今こそ悔い改めるとき、主に立ち帰る時ではないか?
“神様、あなたへのあなどりを悔い改めます。おゆるしください。アーメン”
 

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2007年5月10日(木) 聖書の箇所:サムエル記 上 5章1〜12節
年間通読:ルツ4章、サムエル上1,2章
「次の日、早く起きて見ると、ダゴンが主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた」(3節)
  ペリシテ人は主の箱を偶像ダゴンに戦利品として捧げた。しかし、翌朝見るとダゴンの像は倒れていた。次の日は更にひどく、またその町も主によって撃たれた。あなどる人々の中に主の業は何もなされなかったが、主は自らその力を現された。主は御自身の栄光を現すのに何の助けも必要とされない。
しかし主を恐れる人々の上にもその栄光を現される。ダゴンを裁き、エジプトの神々を裁かれた主は、主イエスを王として再び来られ、地の全てを裁き、御自身の栄光を現される。
“主よ、今も全世界を治めるお方であることを覚え、証し、来臨を待ちます。アーメン”
 

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2007年5月11日(金) 聖書の箇所:サムエル記上 6章1〜21節
年間通読:サムエル上3〜6章
「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか。」(20節)
  ペリシテ人は、主に栄光を帰するようにして主の箱をイスラエルに返そうとし、主も不思議な方法で偶然でないことを示された。しかし主の箱を受け取ったベテシメシの人々もその取り扱い方を知らずに、大きな犠牲を出した。
士師の時代もそうであったが、私たちも、主をどのように礼拝するのか、どのように生活することがみ旨にかなうかを知らなければ、誤ってみ心に反してしまう。だからよく聖書のみ言葉に聞き、適応することが必要である。またそこに祝福がある。
“主よ、主のみ旨にかなうために、日々、聖書のみ言葉に聞き、適応できるように助けて下さい。アーメン”
 

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2007年5月12日(土) 聖書の箇所:サムエル記上 7章1〜17節
年間通読:サムエル上7〜10章
「その日、断食してその所で言った、『われわれは主に対して罪を犯した』。」(6節)
  イスラエルの悔い改め。イスラエルの人々が心から主の前に嘆いている。その一つの現われは、偶像を捨て、一心に主に仕えたことである。だがそれ以上に大切なことは、自らが悔い改めて主の前に出たことである。人の前でなく、主の前に。だれかれや状況のせいでなく、自らが砕かれ悔い改めた。
私たちの信仰の活性化、リバイバルも、キリストの十字架の前に心砕かれ悔い改めるところに起こってくる。主は私たちを新しく造りかえて下さる。「主は今に至るまでわれわれを助けられた。」(12節)
“主よ、私は罪を犯しました。十字架を仰ぎ悔い改めます。アーメン”
 

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2007年5月13日(主日) 聖書の箇所:サムエル記上 8章1〜22節
年間通読:サムエル上11〜13章
「主はサムエルに言われた、『民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。』」(7節)
  イスラエルの民がサムエルに王を立てるように求めたところである。サムエルは喜ばなかったとある。いろいろな意味が読みとれる。サムエルの息子たちが退けられたこと、自分も年老い捨てられるような気持ち、そして民が主を真の王として認めていないこと等々。だが主の答えは、民の言葉を受け入れることであった。その答えは、彼の考えとは違っていたし、最善とは思われなかったが、サムエルは主の言葉に信頼して従った。主は民の言葉を受け入れ、サムエルも主を王として従った。
“父よ、自分の考えでなく、主の答えに信頼し主に従う者として下さい。アーメン”
 

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2007年5月14日(月) 聖書の箇所:サムエル上 9章1〜27節
年間通読:サムエル上7〜10章
「サムエルがサウルを見た時、主は言われた、『見よ、わたしの言ったのはこの人である。この人がわたしの民を治めるであろう』」。(17節)。
  サムエルは長老や民の求め(サムエル上8:6、19,20)に応じて、主に伺いを立てたところ、“今その声に聞き従いなさい”(9)、“彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ”(22)と言う事であった。そこで、サムエルに一日前に告げられた通り、サウルがサムエルのところに来た時、上のみ言葉のように主はサムエルに語ったのであった。そして、サムエルはサウルの頭に油を注いだ(10:1)。
“主よ、すべてにおいてあなたに従わせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月15日(火) 聖書の箇所:サムエル上 10章1〜25節
年間通読:サムエル上11〜13章
「その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って新しい人となるでしょう」。(6節)。
  油を注がれた事は大切な、外側の、目に見える儀式であった。それは主の御霊が注がれる事をあらわしていた。そこで、この御言葉の約束が与えられたのであった。
主の御霊が下る時、預言がなされ、新しく変えられるのである。これは、新約の時代において、聖霊が下った時も同じであった。洗礼は水のバプテスマであるが、御霊にバプテスマされて、満たされる事をあらわしているのである。
“主よ、御霊によってバプテスマして下さい。アーメン”
 

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2007年5月16日(水) 聖書の箇所:サムエル上 11章1〜15節
年間通読:サムエル上14〜15章
「サウルがこの言葉を聞いた時、神の霊が激しく彼の上に臨んだので、彼の怒りははなはだしく燃えた」。(6節)。
  “そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、”(10:10)とあるが、同じような事が、また、サウルに起こった。これは、神の霊の満たしは繰り返し起こる事をあらわしている。新約聖書においても、同じである。
さて、イスラエルはアンモン人に主によって完全に勝利し、“民はギルガルへ行って、主の前にサウルを王として、酬恩祭を主の前にささげ、サウルとイスラエルの人々は皆、そのところで大いに祝った”(15)。ギルガルはカナンの地での出発の場所(ヨシュア5:9)であったが、主の前でのサウルを王としての再出発であった。
“主よ、すべてあなたの前で行わせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月17日(木) 聖書の箇所:サムエル上 12章1〜25節
年間通読:サムエル上16〜18章
「あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない」。(24節)。
  民は、“王を求める事は悪である”(19、8:7)と告白して、自分たちの求めが罪であったことを認めた。しかし、サムエルはそのことが罪であることを認めた(20)が、民が主に仕えることをやめないようにと励ましている。また、彼は民のために祈ることをやめて罪を犯すことはないと約束をした。どんな状況においても主に仕えることが大切なのである。
“主よ、あなたにいつも仕えさせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月18日(金) 聖書の箇所:サムエル上 13章1〜23節
年間通読:サムエル上19〜21章
「サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた」。(1節)。
  13章はサウルが王になったが、その治世が余りにも短い2年であった事の原因の一つを教えている。燔祭と酬恩祭をささげるのは祭司の務めであった。しかし、サムエルが来るのが遅れたので、自分で献げてしまったのであった。
例え、王であっても、主の定めた事には、絶対に従わなければならないのである。自分の分を超えて、してはならない事をしてしまったのであった。主に従う事と信仰と望みと忍耐とをもって、待つ事を忘れたのであった。
“主よ、あなたに従わせて下さり、あなたを忍耐をもって待ち望ませて下さい。アーメン”
 

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2007年5月19日(土) 聖書の箇所:サムエル上 14章1〜52節
年間通読:サムエル上22〜24章
「こうして民はヨナタンを救ったので彼は死を免れた」。(45c節)。
  サウルの命令に従わなかったのは、確かにその子ヨナタンであった。サウル王はたとい子であっても命令に従わなかった者は死ななければならないと固く決めていた。しかし、民の故にヨナタンは救われた。
この事は、命令には従わなければならないと言う事と、その命令を徹底させる事、更に、その命令の適切さが問われると言う事を教えるものである。サウルの命令は、無謀のものであり、不適切であった。その結果、民が罪に陥り、ヨナタンをも死なせようとさせてしまったのである。
“主よ、あなたの導きの中で事を行なわせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月20日(主日) 聖書の箇所:サムエル上 15章1〜35節
年間通読:サムエル上25〜27章
「サムエルは言った、『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪に勝る』」。(22節)。
  主のみ言葉に従うことが、何よりも大切なのである。礼拝とはひれ伏して、拝む事であり、また仕え従うことでもある。また礼拝は献身をもって、完結するのである。
であるから、主のみ言葉に聞き従うという事が、礼拝の度毎に確認され、実践されなければならない。犠牲をささげることに勝って、己をささげて従うことが大切なのである。
“主よ、あなたに献身し、あなたに従う者とさせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月21日(月) 聖書の箇所:サムエル上 16章1〜23節
年間通読:サムエル上28章 サムエル下1章
「人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」(7節)
  主は、サウルの不従順のために新しい王を選ばれた。サムエルは目の前の背の高いしっかりした人に油を注ごうとしたが、主が選ばれた人はその人ではなかった。私たちは、外見の素晴らしさに心を惹かれやすいが、主はいつも心の内を探られる。
主は、心のうちの何を見られるのであろうか。優しさか、勇気か、思いやりか。サウルがなぜ捨てられたかを考えると自ずから見えてくる。主に従う心、信頼する心、もっと言えば、主は、主に従う人に働いて、主の栄光を現して下さると信じて立つ心ではないだろうか。
“父よ、心から主に信頼し、従うものとして下さい。アーメン”
 

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2007年5月22日(火) 聖書の箇所:サムエル上17章1〜58節/ 年間通読:サムエル下2〜5章
「わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」(45節)
  ダビデとゴリアテとの対決。ゴリアテが、大声で戦いを挑んできたとき、イスラエルのすべての人は、非常に恐れ、避けて逃げた。しかしダビデは恐れなかった。確信を持って立ち向かっていった。それは神は「生ける神」(36節)であることを知り、またライオンやくまと戦い、それを経験していたからだ。
今も私たちの目の前で、生ける神に戦いを挑む者もいる。その時あなたはどうするか。何でもない日常生活の中に生ける主を味わい、確信を持って立ち向かいたい。
“主よ、生ける主を知り、勇気が与えられますように。アーメン”
 

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2007年5月23日(水) 聖書の箇所:サムエル上18章1〜30節
年間通読:サムエル下6〜10章
「サウルは、この日からのちダビデをうかがった。」(9節)
  主が共におられてダビデが活躍する一方で、サウルにねたみが起こってきた。自分以上に才能がある人、活躍している人、愛されている人を見て、サウルが考えたことは、王の地位を守ること、自分が他の人に増して認められることであった。そのためにはダビデは邪魔者となったのである。
このねたみがこの先サウル自身、周りの者をどれ程害していくかと考えると、本当に恐ろしい。この時サウルは、なぜ主が自分を離れられたかを考え、心から悔い改めるべきではなかったか。私たちの前にも主の十字架は輝いている。
“神様、ねたみを今、取り去って下さい。アーメン”
 

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2007年5月24日(木) 聖書の箇所:サムエル上19章1〜24節
年間通読:サムエル下11〜14章
「主から来る悪霊がサウルに臨んだ」(9節)
  一度はヨナタンの諫言を聞き、サウルの心は収まった。しかし、再びダビデが活躍すると再びダビデを殺そうとする思いに捕われてしまう。23節には、神の霊がサウルにも臨んで、一日中預言したことが記されている。しかしそこを離れると再びダビデを追いかけていく。
どんなに大きな主の働きをしたとしても、それは明日の信仰の保証にはならない。文字通り、日々、主のみ言葉に聞き、従うことほど大切なことはない。サタンは様々な形で、絶えず主を信じる者に戦いを挑んでくる。
“主よ、日々、主のみ言葉に聞き、サタンの働きに勝利できるように助けて下さい。アーメン”
 

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2007年5月25日(金) 聖書の箇所:サムエル上20章1〜42節
年間通読:サムエル下15〜18章
「ヨナタンは自分の命のように彼を愛していた。」(17節)
  ダビデとヨナタンの並々ならぬ友情が現されている。ヨナタンは、ダビデの活躍を自分のこと以上に喜び(18:1〜4)、ダビデの憂いを自分の憂いとし(34節)、命がけでダビデを助けた。神様の私たちに対する愛は、それ以上である。
主イエスは、罪人である私たちのために十字架で命を捨てられた。私たちはその愛を知って、友情をはぐくんでいきたい。ここで大切なことは、この友情の中心に神様がおられ、神の国のために働いていることである。この世にも熱い友情はある。しかし目的が問われる。
“主よ、主にあって友と深い交わりを持ち共に主のために労します。アーメン”
 

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2007年5月26日(土) 聖書の箇所:サムエル上21章1〜15節
年間通読:サムエル下19〜22章
「ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れた」(12節)
  ダビデの逃亡生活が始まる。最初に逃げた場所は、敵のペリシテ人の所であった。しかし案の定すぐに敵将ダビデとばれてしまった。ダビデは人々の言葉を聞き、非常に恐れた。真正面からぶつかったゴリアテは恐れなかったが、自分の危機を鋭く感じていた。
私たちは、主にあって恐れなくていいものと、恐れるべきものとをしっかりと判別する知恵を与えられたい。アキシ王は挙動を変えたダビデを見抜くことができなかった。これはまさに主が、アキシ王の目をふさぎ、ダビデを守られたのであった。
“主よ、恐れるべきものを知り、またそこから助け出されますように。アーメン”
 

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2007年5月27日(主日) 聖書の箇所:サムエル上22章1〜23節
年間通読:サムエル下23,24章、第2コリント1章
「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、」(3節)
  逃げたダビデのもとに多くの人々が集まってきた。しかし彼自身はどうなるかわからなかった。確かに油注がれ、主の霊に満たされ、勝利を得た。だが現状を見ると、王になるどころか、自分の命さえ危うかった。
私たちは、信仰をもったら何もかもうまくいくわけではない。むしろ信仰を貫いて生きようとするところに様々な困難や試練が起こってくる。どうなるかわからない、しかし主のほかに頼ることのできるまことの神様はおられない。この信頼・信仰こそ主が私たちに求めておられるものではないだろうか。そこにあきらめはない。
“父よ、あなたの他に私の神はいません。アーメン”
 

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2007年5月28日(月) 聖書の箇所:サムエル上23章1〜29節/ 年間通読:第2コリント2〜5章
「サウルの子ヨナタンは立って、ホレシにいるダビデのもとに行き、神によって彼を力づけた」。(16節)。
  ヨナタンはダビデを殺害しようとしているサウルの子であるにも拘らず、ダビデを愛していた(サム上18:1)。そして、自分が王になることでなく、ダビデが王になることを知っていたし、また、それをサウル自身も知っていたのであった。
しかし、サタンは、その事の実現を必死に阻もうとするのである。そこで、ヨナタンは神への信仰、神の力強い助けをもって彼を力づけたのであった。
“主よ、私たちも人間的でなく、神によって、力づけさせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月29日(火) 聖書の箇所:サムエル上24章1〜22節/ 年間通読:第2コリント6〜9章
「ダビデは従者たちに言った、『主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない』」。(6節)。
  神が油注がれた者は、同じく神に油注がれた者を尊敬すべきであり、主にあって助け合うべきである。ところが、王として油注がれたサウは、ダビデの命を執念深く狙っていたのであった。
しかし、ダビデはその敵であるサウロが今、自分の手に陥ったにも拘らず、彼を殺さなかった。ダビデは神を畏れていたからであった。
“主よ、人間でなく、神を畏れさせて下さい。アーメン”
 

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2007年5月30日(水) 聖書の箇所:サムエル上25章1〜44節
年間通読:第2コリント10〜13章
「ダビデはアビガイルが携えてきた物をその手から受けて、彼女に言った、『あなたは無事にのぼって、家に帰りなさい。わたしはあなたの声を聞きいれ、あなたの願いを許します』」。(35節)
  ナバルはダビデに対して、反抗的なことを言った。それ故に、一族全滅の危機に陥ってしまった。しかし、アビガイルの賢いすばやい行動と神への信仰とへりくだりととりなしによって危機から救われたのであった。ダビデ自身も、アビガイルの申し出を受け入れ、殺傷をせずに済んだのであった。このとりなしが私たちにも出来たなら、多くの人の救いに至るものと確信するのである。
“主よ、神への信仰に基づいた知恵とへりくだりとをお与え下さい。アーメン”
 

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2007年5月31日(木) 聖書の箇所:サムエル上26章1〜25節/ 年間通読:列王上1〜2章
「ダビデはまた言った、『主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう』」。(10節)
  再びサウルを殺すチャンスが訪れたにも拘らず、ダビデは従者に殺す事を許さなかった。主が真の審き主であり、主の時があると言う事を信じていたのであった。主に任せると言う信仰が大切である。それが「主は生きておられる」と言う信仰に表されている。主がことごとく知っておられ、御業をなされるという信仰である。
“主よ、あなたに全く委ねた信仰をお与え下さい。アーメン”
 
 

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