デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年6月のデボーション
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2007年6月1日(金) 聖書の箇所:サムエル上27章1〜12節 / 年間通読:列王上3〜6章
「ダビデは心にうちに言った、『わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地へのがれるほかはない。そうすればサウルはこの上イスラエルの地にわたしをくまなく捜すことはやめ、わたしは彼の手からのがれることができるであろう』」。(1節)
  とうとうダビデはイスラエルには自分の居場所がなくなり、イスラエルの敵であるペリシテ人の地に逃げていく以外なくなってしまった。そしてペリシテの王アキシの雇用兵となり、またチクラグを与えられたのであった。
“主よ、逃れの道を備えて下さる事を感謝します。アーメン”
 

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2007年6月2日(土) 聖書の箇所:サムエル上28章1〜25節/ 年間通読:列王上7〜8章
「また先にサウルは口寄せや占い師をその地から追放した」。(3b節)
  口寄せや占い師は“石で撃ち殺せ”(レビ20:27)とあり、占いや死人を呼び出す事はかたく禁じられていた(申命記18:9〜14)。それ故、サウルは彼らを皆イスラエルから絶ち滅ぼしたのであったが、なんと、彼は変装して、口寄せのところに行って、サムエルを呼び出すようにお願いしているのであった。
神に従いきれないで、神に捨てられた者の末路がここにある。彼にはもう神の導きが得られなくなってしまったのである。
“主よ、あなたに従うものとさせて下さい。アーメン”
 

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2007年6月3日(主日) 聖書の箇所:サムエル上29章1〜11節/ 年間通読:列王上9〜11章
「わたしは見て、あなたが神の使のようにりっぱな人であることを知っている」。(9節)
  ペリシテ人アキシのダビデに対する言葉である。ダビデがいかにペリシテの王に忠実であったかが分かる。ダビデは、自分の民イスラエルと戦う事にもなったのであったが、神のあわれみの故に、アキシにこれほどによく言われる中で、これを避けることが出来たのであった。
ペリシテの他の君たちが、ダビデと一緒に戦う事に反対したのであった。神の不思議な働きがこの事の内にもあったのであった。
“主よ、あなたのあわれみを感謝します。アーメン”
 

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2007年6月4日(月) 聖書の箇所:サムエル上30章1〜31節/ 年間通読:列王上12〜14章
「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」(6節)
  この時ダビデは孤立無援となった。チクラグに帰ると町のすべては焼かれ、妻子らは捕虜となり、連れ去られていた。そこで従者たちは、希望を失い、疲れ果て、ダビデを石で撃ち殺そうと言い出した。ダビデを慕ってきた人々の心は変わってしまった。
しかしその時、ダビデはその神、主に真正面から向かうことができた。主によって力づけた。もう一度主の言葉を聞き、勇気を取り戻し、そしてすべてを失うことなく取り戻すことができた。周りの言葉に揺れていたらすべては失われていた。主の守り(23節)。 
“父よ、あなたに向き合います。守りと勇気を感謝します。アーメン”
 

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2007年6月5日(火) 聖書の箇所:サムエル上31章1〜13節/ 年間通読:列王上15〜17章
「こうしてサウルとその三人の子たち、、、皆、この日共に死んだ。」(6節)
  サウル王達の死。イスラエルの敗北。イスラエルにとって本当に痛ましい戦いとなった。王とヨナタンを含む三人の王子、従者らの死。決定的な敗北により故郷を追われた人々。あってはならないはずの偶像の勝利。なぜ、どうしてと思うが、やはり神様への不従順によって、主の語りかけを聴くことができなくなってしまったことが最大の原因である。
時に私たちも、この世が強く、主の働きがわからなく感じるときがある。それでも創造主の他に神はいない。不従順を悔い改め、主の前にひざまずくばかりである。詩篇51:17。
“主よ、不従順を悔い改め、主に従います。アーメン”
 

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2007年6月6日(水) 聖書の箇所:サムエル下1章1〜27節/ 年間通読:列王上18〜19章
「ダビデはこの悲しみの歌をもって、サウルとその子ヨナタンのために哀悼した。」(17節)
  サウルとヨナタンの死のダビデへの告知とダビデの哀悼。ダビデがこの死の告知者を断罪し、この死を哀悼していることはおかしな感じがするかもしれない。しかしこれまでの記事からもサウル王は「主に油注がれた者」(16節)である、選ばれた主に間違いはないと絶対的な信頼をもって、主に従ったからである。心からへりくだり勇者であることを覚え哀悼した。
今キリストの十字架はすべての人を神のもとに招いている。一人でも滅びに至ることは、計り知れない痛みである。
“神様、一人の滅びをも痛まれる主と同じ思いとなって、祈り伝道できますように。アーメン”
 

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2007年6月7日(木) 聖書の箇所:サムエル下2章1〜32節/ 年間通読:列王上20〜21章
「今あなたがたは手を強くし、雄々しくあれ。」(7節)
  ダビデがユダ部族の王となったとき、サウル王の遺体を奪還し葬ったヤベシ・ギレアデの人々を祝福した。この祝福にはいろいろな意味があると思うが、彼らはサウル王に助け出されたことを忘れていなかった。イスラエルの敗北、王の死という真っ暗な中で、彼らは勇気を出し、敵陣に乗り込み目的を果たすことができた。かつてアンモン人を恐れ助けを求めるだけであった民は、状況に左右されない勇士に変えられた。恐れは人を萎縮させる。勇気は人に力を与える。主は、度々、恐れるな、勇気を出せと語られる。
“主よ、主を見て勇気を出し勝利できるように。アーメン”
 

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2007年6月8日(金) 聖書の箇所:サムエル下 3章1〜39節
年間通読:列王上22章 列王下1章
「ネルの子アブネルを殺したのは、王の意思によるものでないことを知った。」(37節)
  将軍アブネルの死。サウル家とダビデ家の争いが続いていた。そこに渦巻く様々な人間の欲の中で、ついに和解が成立しようとしていた。しかしその時ヨアブの謀略によりアブネルは殺された(列王上2:5参照)。彼は憎しみと復讐を押さえることができなかった。ダビデは主の民の王として立とうとしていたが、このヨアブを抑え罰する力もなかった。
私たちは信仰を貫き通そうとしても、様々な悪魔の妨げを受けることがある。主にあって忍耐と知恵とを持ってそれらから身を守り勝利する必要がある。
“主よ、妨害が起こるときも、守りたもう主を見上げられますように。アーメン”
 

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2007年6月9日(土) 聖書の箇所:サムエル下4章1〜12節 / 年間通読:列王下2〜3章
「わたしの命を、もろもろの苦難から救われた主は生きておられる。」(9節)
  サウルの子イシボセテの死。彼は自軍によって命を奪われた。略奪隊長らは、形勢の変化を見て功をあげようとした。今の社会でも、自分の功のために、あるいは自分の欲のために仲間や隣人を出し抜いたり、裏切ったり、傷ついたり傷つけたりする。
では、主の喜ばれる道は何であろうか。ダビデは油注がれた主を信じ、様々なわながめぐらされる中で、自分の力を頼むのでなく、策略に頼るのでなく、人脈に頼るのでなく、主の聖と義の中で主が約束を成就される時を待ち望んだ。
“主よ、私の命をもろもろの苦難から救われた主に感謝し、ほめたたえます。アーメン”
 

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2007年6月10日(主日) 聖書の箇所:サムエル下5章1〜25節/ 年間通読:列王下4〜5章
「そして彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。」(3節)
  ダビデ、イスラエルの王となる。サムエルに油注がれてからどれ程の月日を経たであろうか。また幾たび死の淵を通らされたことであろうか。しかしそこで主に信頼することを教えられたダビデはついに全イスラエルの王として油注がれた。これは神様の約束の成就である。同時に人々が主の器として承認したことでもある。
私たちも自分への主の約束の成就を見ることは感謝である。また、人々が主の人、クリスチャンとして「主が共におられ」る(10節)と認める者とならせていただきたい。
“父よ、私の生き方があなたの栄光を表し、人々が主を認めることができますように。アーメン”
 

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2007年6月11日(月) 聖書の箇所:サムエル下6章1〜23節/ 年間通読:列王下 6〜8章
「ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。」(5節)
  ぺリシテ軍撃破の戦勝記念と共に、神の箱をダビデの町に運びいれ、王朝を確立させるための恵みの行進である。ウザの割り込み(6〜8節)によって一時、その喜びにも冷や水がかかったようになったが、ダビデをはじめ、民たちは力一杯、神への感謝と喜びを表し続けた。
私達はともすれば日常の雑多な生活の中で、神への感謝を忘れてしまいがちになる。感謝は更なる感謝を呼び起こす。主にある喜びは更なる喜びを生む。主の配慮の愛は私達の生活の細部に至るまで及んで、私達の存在を支えておられる。感謝しよう!
“主の愛にいつも感謝できますように。アーメン”
 

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2007年6月12日(火) 聖書の箇所:サムエル下7章1〜29節/ 年間通読:列王下9〜10章
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。」(18節)
  ダビデの王朝の確立、イエスにおいて究極的に成就されることになる王国の恒久的な繁栄と、祝福の神の約束に対するダビデの驚きと感動が表されている。
私達に対する主にある恵みの約束も計り知れない。罪の許し、永遠の命、心の刷新と変容、そして内外に結ばれていく霊的な、永遠に残っていく実の数々と数えればきりがない。霊の目が閉ざされているとこの恵みの認識が鈍り、不平と不満と惰性の信仰生活に陥る。
大いなる恵みの約束を信じ、求め、我等の生涯を通じて主の御名が大いに崇められるよう、心から祈りたい。
“あなたの顧み、計り知れない主の恵みに感謝します。アーメン”
 

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2007年6月13日(水) 聖書の箇所:サムエル下8章1〜18節/ 年間通読:列王下11〜14章
「主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。」 (6節) 
  ダビデによる王権は敵対する隣国の制圧と領土の拡大とともにますます、強固なものとされていった。この破竹の勢いの背後に前章に記されているように、神の恵みの約束とそれに対するダビデの感謝と、約束された恵みを信じる信仰があることを忘れてはならない。
死にさえも打ち勝ち、永遠の命の授与という形で、究極の勝利を与えてくださる主は、人生のあらゆる困難な局面においても、多様な勝利を与えてくださる。主が私達の信仰を通じ、確実に勝利を与えることができるように、主の勝利に感謝し、それを日々信ずる者でありたい。
“主よ、人生のあらゆる部分におけるあなたの勝利を信じます。
 勝利の業がさらになされますように。アーメン”
 

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2007年6月14日(木) 聖書の箇所:サムエル下9章1〜13節/ 年間通読:列王下15〜17章
「こうしてメピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした。」(11b節)
  当時、王朝が代わる時、前王朝の一族が抹殺されるのが常であった。サウルの血を引くメピボセテも当然殺されても仕方がない境遇にあった。しかし主にある無二の親友ヨナタンの子であるメピボセテを前に、そんな当時の戦時下の常識はどうでもよかった。サウル家の所有の地とその財産を返還し、自分の子供の一人のように愛し、養った。
父なる神は主イエスにあって、敵対していた私達を自らの懐に招きいれ、ダビデに勝る愛をもって、真の神の子として最上の物に生涯を満ちたらせ、養ってくださるのだ。
“主よ、あなたの親に勝る愛、いつくしみ、実際なる養いを感謝します。アーメン”
 

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2007年6月15日(金) 聖書の箇所:サムエル下10章1〜19節/ 年間通読:列王下18〜19章
「勇ましくしてください。われわれの民のため、われわれの神の町々のため、勇ましくしましょう。どうぞ主が良いと思われることをされるように」(12節) 
  誤解からアンモン人とその雇われの軍隊と交戦状態に陥ったイスラエル軍だが、見事に雇われ兵のスリヤ人部隊を撃破した。神を信じ、神の守りを確信する者等と、自らの利潤しか頭にない異教の民では戦いに対する動機と姿勢において天と地ほどの違いがある。
私達の人生においてもこの主にある確信を持って主のための歩みをなすか、そうでないかで大きく変わってくる。勇ましく人生の中で遭遇するあらゆる局面を迎えたい、主が伴われるということの事実と最善をなしてくださる主の真実なる業を固く信じて...。
“あなたにある勇気を与えてください。アーメン”
 

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2007年6月16日(土) 聖書の箇所:サムエル下11章1〜27節/ 年間通読:列王下20〜22章
「しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。」(27節)
  神様の前に潔く歩んできたダビデであったが、神様の前に姦淫と殺人という大きな罪を犯してしまった。「王」という責任の重い、孤独な戦いをしてきた。緊張の糸がゆるんだのかもしれない。悪魔はいつもすきをねらっている。また小さな誘惑を野放しにすると重大な罪の結果を招く。
私たちはいつもサタンと命の戦いにある緊張を持っているだろうか。特に今日、クリスチャンに、性的な堕落が入り込み、神の御名を汚していると言われている。11節の「あなたの魂は生きています。」とは主の招きの声ではなかったか。
“神様。私の罪を悔い改めます。信じます。アーメン”
 

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2007年6月17日(主日) 聖書の箇所:サムエル上12章1〜31節/ 年間通読:列王下23〜25章
「わたしは主に罪をおかしました」「主もまたあなたの罪を除かれました。」(13節)
  ダビデはナタンを通しての『あなたがその人です』、『どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事を行ったのですか』という指摘により、罪を認め告白をした。人に対する罪とともに、“主”に対して罪を犯したことが大切である。
詩篇51:4にも、『わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪いことを行い』とある。けれども、すぐさま罪が除かれたことが、宣言されたが、この時は、残念ながら罪ののろいは取り除かれなかった。
しかし、キリストはのろいからもあがないだしてくださったのである(ガラテヤ3:13)。
“神様。呪いをとり去って下さい。アーメン”
 

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2007年6月18日(月) 聖書の箇所:サムエル下13章1〜39節/ 年間通読:ガラテヤ1〜3章
「ダビデ王はこれらの事をことごとく聞いて、ひじょうに怒った。」(21節)
  ダビデ家の醜聞が始まる。主に仕える家族にあってはならないことが次々と起こってくる。現代もクリスチャン家庭であっても、この世と同じような様々な問題が起こりうる。どう対処すべきか非常に悩まされるし、祈りなくしては通過出来得ないことを覚える。
ダビデは家庭内の不品行を聞き、非常に怒った。しかしどのような行動をとり、子を戒めたのだろうか。私たちもみ言葉を実生活にどう適応するのかが重要である。もちろん子供や相手の性格や状況などにより対応も変わりうる。箴言13:24
“父よ、様々な問題にとまどいます。あなたの知恵を必要としています。アーメン”
 

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2007年6月19日(火) 聖書の箇所:サムエル下 14章1〜33節/ 年間通読:ガラテヤ4〜6章
「王は言った、『彼を自分の家に引きこもらせるがよい。わたしの顔を見てはならない』。」(24節)
  ダビデ王は息子アブサロムにどう対応すべきであったであろうか。当然と言えば当然の自宅謹慎。しかし満2年合わなかったのではアブサロムが苛立つのも無理はない。かと言って開き直った32節の言葉の中に、主への恐れ、悔恨はない。ウリヤ、バテシバに対する罪が、ダビデの心を鈍らせたのかもしれない。
私たちは、自らがゆるされた罪人に過ぎないことをさらけ出すほかない。しかし罪を主に赦され、神の子として生きることの尊さ、喜びこそが偽らざるあかしである。ただ主を示すばかりである。詩篇51:17
“主よ、尊い赦しを感謝します。アーメン”
 

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2007年6月20日(水) 聖書の箇所:サムエル下15章1〜37節/ 年間通読:歴代誌上1〜3章
「もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、、」(25節)
  アブサロムの反乱。この箇所は、単に歴史を書いているのではない。聖書には、神様の救いの歴史が書かれている。そこでは常に、聖なる神様の基準を物差しとし人の信仰が問われている。神様の前では、決して勝てば官軍ということはない。多くの人がアブサロムの魅力、親愛の言葉、強さに惹かれ従った。ダビデは主に心を向けつつ、間一髪脱出した。
この社会で、隣人の間で、また日頃見聞きするものに対し、時勢に流されないで、いつも神様の基準でどうなのかという視点をもち、行動しなければならない。
“神様、あなたの視点で判断し行動できますように。アーメン”
 

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2007年6月21日(木) 聖書の箇所:サムエル下16章1〜23節/ 年間通読:歴代誌上4〜6章
「彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。」(11節)
  シメイの言動はそばにいた勇士達には、黙っておれない事態であった。しかしダビデは主の許しの中にあることを認め黙認した。事実彼はサウル家について良心の責められることは何もなかった。だから主に委ねることができた。そうでなかったら挑発に乗っていたかもしれない。
私たちは日常で様々な自分への否定的言動に会う。特に身近な者の言動は応える。しかし私たちは「のろいにかえて、善に報いてくださる」(12節)主に、命もプライドも委ね、希望を持つことができる。
“主よ、あなたは私の苦しみをご存知です。人の呪いを変えて、祝福してください。アーメン”
 

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2007年6月22日(金) 聖書の箇所:サムエル下17章1〜29節/ 年間通読:歴代誌上7〜10章
「それは主がアブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからである。」(14節)
  聖書は、アヒトペルの良い計略が破られたのは主が定められたことであると言っている。もし彼の計略が実行されていたらその夜、ダビデの命はなかった。
なぜ主は彼の計略を退けられたのか。一つは主がダビデを王として立てたからである。もう一つは、彼が自分の知恵に頼り、主を恐れず主の言葉を軽んじたからである(16章21節参照)。
私たちは、会社や社会の法則と神の言葉とのどちらを上にして生活しているだろうか。世で優れていることが神の前に優れているとは限らない。
“主よ、主の前の善を選びます。アーメン”
 

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2007年6月23日(土) 聖書の箇所:サムエル下18章1〜33節/ 年間通読:歴代誌上11〜14章
「わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。」(33節)
  命を狙う息子に対する勝利は、その死によって敗北に見間違うほどの落胆に取って代わった。ここに父ダビデの常軌を逸するほどの愛慕が表わされている。ヨアブと全く違っている。この愛慕は、神様の私たちに対する愛をも表わしている。
父なる神様は、私たちがどんなに神様から離れあるいは逆らい、その地位を手に入れようとしても、創造主として私たちをかけがえのない者として愛して下さった。だから永遠の命を得るために、御子を罪の身代わりとして遣わされた。この愛を今受けよう。
“主よ、限りない愛、主イエスの身代わりの死、私のためと信じます。アーメン”
 

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2007年6月24日(主日) 聖書の箇所:サムエル下19章1〜43節
年間通読:歴代誌上15〜17章
「わが主、王と共に彼を渡って行かせてください。」(37節)
  ダビデの帰還。ダビデと相対する異なる立場の人々がいる。詫びて命乞いをするシメイ、身を飾らずに王の帰る日を待ち望んだメピボセテ、忠誠と思われていたが欺きが明らかになったヂバ、王と苦難を共にし、祝福を受け、子と思われるキムハムをも王の恩恵に与らせたバルジライ。クリスチャンは、天へと迎えに来られる救い主キリストの来られる日を待ち望んでいる。私たちはどのように迎えるのであろうか。その日、恐れながらではなく、家族や隣人をも信仰の祝福に導き、喜んで主を迎える者でありたい。
“父よ、精一杯にみ心を行い、主の日を待ち望みます。アーメン”
 

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2007年6月25日(月) 聖書の箇所:サムエル下20章1〜26節/ 年間通読:歴代誌上18〜21章
「ひとりの賢い女が町から呼ばわった」(16節)
  今度は、ビクリの子、ベミヤミンびとでシバというよこしまなものが反旗をひるがえし、それにイスラエルの人々は皆従っていった。シバはアベルという町に逃げ込んでしまった。ヨアブはその町の城壁を崩そうとして撃った。
その時、町を守ろうとして、勇気を出して、ヨアブと話したのがこの女性であった。彼女は知恵をもって、その町の民の所に行ったので、彼らはシバの首をヨアブの前に投げ出したのである(22節)。ひとりの賢い女の勇気と知恵が町を救ったのであった。
“主よ、私たちに神の知恵をあたえて下さい。アーメン”
 

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2007年6月26日(火) 聖書の箇所:サムエル下21章1〜22節/ 年間通読:歴代誌上22〜25章
「この後、その地のために、神は祈りを聞かれた。」(14節)
  ここでは「サウルとその家に血を流した罪がある」と言われている通り、地がのろわれ、3年ききんがあったとある。その解決には、罪を犯したサウルの家のものが7人殺されるということになり、それが実行された時に、のろいから解かれて、ききんからも解放されたのである。
これは、因縁ということで他の宗教で、よく取り上げることである。しかしイエスキリストの十字架の死はそのようなのろいからも完全に私たちを解放し(ガラテヤ3:13)、義として下さったのである。
“主よ、キリストの十字架を感謝します。アーメン”
 

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2007年6月27日(水) 聖書の箇所:サムエル下22章1〜51節/ 年間通読:歴代誌上26〜28章
「主は生きておられる。
 わが岩はほむべきかな。わが神、わが救いの岩はあがむべきかな。」(47節)
 この歌は詩篇第18篇と殆ど同じである。主が、岩、城、救う者、盾、救いの角、高きやぐら、避け所、救主などにたとえられている。幾多の死の危険に遭遇したダビデにとっては、これはただ単にたとえ以上の実際的体験であったと言える。そして、終わりの部分で、「主が生きておられる」と歌い、主を賛美しているのである。
また、「もろもろの国民の中であなたをたたえ、あなたのみ名をもめ歌うであろう」(50)と伝道に心が向けられているのをも見る。
“主よ、あなたが生きておられ、何よりも信頼できるお方であることを感謝します。アーメン”
 

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2007年6月28日(木) 聖書の箇所:サムエル下23章1〜39節
年間通読:歴代誌上29章〜歴代誌下2章
「どうして彼はわたしの救と願いを、皆なしとげられぬことがあろうか」(5c節)
  ダビデの最後の歌の一節である。神が必ず救い、願いを聞いて下さるという絶対的な確信が言われている。これは勿論、彼の小さい時から死にいたるまでの体験に基づくものである。私たちの信仰の歩みにおいても同じである。否、それ以上なのである。イエス・キリストのとりなしの故に、また、彼の名の故に、彼の十字架と復活の故に、聖霊のとりなしの故に、われらの祈りと願いは、確実に聞かれるのである。 ハレルヤ!
“主よ、私たちの祈りと願いとをお聞き下さるが故にあなたを賛美します。アーメン”
 

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2007年6月29日(金) 聖書の箇所:サムエル下24章1〜25節/ 年間通読:歴代誌下3〜6章
「わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」(24節)
  主に燔祭をささげる時のダビデの姿勢が言われている。燔祭は献身をあらわす大切な献げ物であるが、献身は痛みと犠牲をともなうものであることを教えるものである。軽々しく献身はなすべきものではない。十分に祈り、御心と信じたなら、大胆に、すべてを捨てて、献げるべきなのである。
献金においても同じである。私たちは余った、極わずかのものを献げるのでなく、思い切った、痛みを覚えるものを献げることが大切である。
“主よ、イエスさまの愛に応えて、犠牲をともなった献身や献金をさせて下さい。アーメン”
 

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2007年6月30日(土) 聖書の箇所:列王 上 1章1〜53節/ 年間通読:歴代誌下7〜10章
「彼はきて、わたしの位に座し、わたしに代って王となるであろう。」(35節)
  年老いたダビデに代わり、王位を継承しようと考えたのが、四男のアドニヤであった。妻でありソロモンの母であるバテ・シバの切実なる訴えに、ソロモンを王にすると誓ったことを思い出したダビデはギホンで祭司ツァドク、預言者ナタンにより油をそそがせ、新たな王としての就任式を執り行わせた。
私達の人生における王としてのキリストの就任式はいつだったか。キリストが私達の人生の、心の王位に座られるよう、お迎えしようではないか。
“主よ、今日もあなたが私のすべての主であられますように。アーメン”
 

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