デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年7月のデボーション
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2007年7月1日(主日) 聖書の箇所:列王記上2章1〜節/ 年間通読:歴代誌下11〜14章
「こうして国はソロモンの手に堅く立った。」(46節)
  新しい王として就任したソロモンであるが、王位を脅かす氾濫分子も抱えていた。王位転覆を狙うアドニヤ、霊的に盲目な祭司アビヤタル、アドニヤに組する軍団長ヨアブ、シメイらであった。主にあってこれらを討伐、罷免し、新体制作りを行った。
私たちの心の中の氾濫分子は何か?我々の王、キリスト様を憂えさせる悪しき思い、不信仰、偶像、悪習慣、不品行はないだろうか。キリストの王位がより確かなものとされ、よけいなものは神の霊によりそり落としていただこう。
“主よ、私達の心を刷新し、堅く信仰に立たせてください。アーメン”
 

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2007年7月2日(月) 聖書の箇所:列王記上3章1〜28節/ 年間通読:歴代誌下15〜18章
「あなたに何を与えようか、求めなさい。」(5節) 
  ソロモンの夢。夢の中でソロモンは、主から何が欲しいか問われ、訴えを正しく聞きわける心を求めた。これは主によしとされた。主イエスもみ前に来た人に度々「何をして欲しいのか」と問うている。同じことを主は今の私たちにも問うている。
主は私たちの必要に豊かに与えたいと願っておられる。しかし求め、飢え渇きがなければどんなすばらしいものも受け取り損なってしまう。あなたの求めは何か、長命、富、安全、ライバルへ勝利、知恵などか。豊かに与えて下さる方に最も大切なものを求めたい。ルカ11:13  
“父よ、渇いています。聖霊で満たして下さい。アーメン”
 

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2007年7月3日(火) 聖書の箇所:列王記上4章1〜34節/ 年間通読:歴代誌下19〜22章
「神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。」(29節) 
  ソロモンは、夢の中で主に祈ったように、また夢で主が約束されたように、民の声を聞き分ける心、善悪をわきまえること、多くの知恵と悟りとが与えられた。
現代は情報の時代と言われ、多くの情報の中で大切な情報をいち早く見分けることが求められている。聖書はこのソロモンの知恵は、自分の才能によるのでなく、神から授けられたものであると言っている。
私たちは、命の源として「神の知恵たるキリスト」(第1コリント1:24)を中心に置くことによって命を得、広く重要なものを見分けることができるのである。 
“主よ、主の命の知恵で満たして下さい。アーメン”
 

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2007年7月4日(水) 聖書の箇所:列王記上5章1〜18節/ 年間通読:歴代誌下23〜25章
「主が父ダビデに言われたように、わが神、主の名のために宮を建てようと思います。」(5節)
  あなたの子が主の宮を建てるとは、ダビデに対する主の約束であった(サムエル下7:13)。
しかしその約束が成就するためには、その子自身もその約束を神様から受け取る必要があった。上記の言葉は、まさにソロモンの意志を表わした言葉である。
「私たちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」(エペソ2:10) あなた自身この主の約束を受け取り、キリストのからだである教会の成長と神の国の完成を目指して主に仕えることを決断してはどうだろうか。
“神様、約束を感謝して受け、良い行いをします。アーメン”
 

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2007年7月5日(木) 聖書の箇所:列王記上6章1〜38節/ 年間通読:歴代誌下26〜29章
「そこで主の言葉がソロモンに臨んだ、」(11節)
  主の宮の建設。周到な準備がなされ主の宮の建設が始まった。スケールの大きいものであった。しかし7年もの歳月の工事、始まればすべて自動的に進ものではない。主は建設の途中でもソロモンに臨んで彼を励まされた。その内容は、約束の確認である。ここにはソロモンも主の「すべての戒めを守り、それに従って歩むならば」(12節)とある。
私たちの信仰生活も基本に忠実(礼拝、み言葉、祈り、愛の交わり)が大切である。しかしそれは、惰性ではなく、生き生きと新しく「臨んだ」言葉である。
“主よ、祝福を感謝します。約束を確認し忠実に歩みます。アーメン”
 

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2007年7月6日(金) 聖書の箇所:列王記上7章1〜51節/ 年間通読:歴代誌下30〜32章
「こうしてソロモン王が主の宮のために造るすべての細工は終った。」(51節)
  王宮の建設と主の宮の細工。6章に引き続き、主の宮の建設について、青銅の柱や細工や器ものについて記されている。7年もの歳月をかけ、多くの専門家の知恵、労働力も注ぎ、壮大で中は金ピカ神殿ができあがった。
しかし主イエスは「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6:29)と言っておられる。神様の御手の内にある尊さを覚える。当時をはるかにしのぐ摩天楼。どう生きて良いかわからない、砂粒ほどにしか見えない一人一人が主にはいとおしいのである。
“主よ、大切な者とみて下さり感謝します。アーメン”
 

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2007年7月7日(土) 聖書の箇所:列王記上8章1〜66節/ 年間通読:歴代誌下33〜36章
「見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。」(27節)
  主の宮の奉献式。ソロモンは完成した主の宮に主の契約の箱や器物を携え入れ、また多くの犠牲をささげて、主の宮を奉献した。その時主語自身が、雲が主の宮に満ちて、主の栄光を表わされた。ソロモンはこの後、この宮に向かって祈るならどんな罪も赦しその願いも聞いて下さるようにととりなしている。
その祈りは、私たちがどんな過ちを犯しても、悔い改めるならば主は赦し、顧みて下さる恵みへと私たちを導いている。その前に主の栄光を賛美することがそれをさらに容易にする。
“天地の創造者、全き救い主、私たちの内に住んで下さる主を賛美します。アーメン”
 

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2007年7月8日(主日) 聖書の箇所:列王記上9章1〜43節/ 年間通読:エペソ1〜4章
「しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず」(6節)
  主の宮の奉献後、再び主はソロモンに現れ、ダビデとの契約を確認して下さった。主の名をこの神殿に永久に置いて下さる。しかし気をつけなければならないことは、もし、主に背いて他の神々に仕えるならば、投げ捨てられることである。主の聖の前に、主の民と他の民の区別はない。
私たちの救いと祝福も一時であってはならない。与えられた救いと祝福が維持拡大また継承されていく必要がある。その土台となるのが、礼拝とデボーションである。み言葉により日々新たにされて歩もう。
“父よ、主イエスの来られる日まで、信仰が成長し、継承されますように。アーメン”
 

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2007年7月9日(月) 聖書の箇所:列王記上10章1〜29節
年間通読:エペソ5,6章、エズラ1,2章
「今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。」(7節)
  シバ(今のエチオピア)の女王は、ソロモンの名声や知恵を聞いて、試みようとしてやってきた。しかしソロモンの知恵、食卓、伺候、服装、献げ物、あらゆるものに心を奪われてしまった。私たちが目指している神の国もそんな感じであろう。
私たちは、想像をはるかに超えた栄光の姿、よみがえりのキリストと同じ永遠に朽ちない霊のからだに変えられる。死も恐れも苦しみもなく、今にも増して主の愛と平安と喜びに満ちあふれると約束されている。神の国を目指そう。
“父よ、神の子とされた喜びの中で、栄光の姿に変えられる約束を待ち望みます。アーメン”
 

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2007年7月10日(火) 聖書の箇所:列王記上 11章1〜43節/ 年間通読:エズラ3〜6章
「他の神々に従ってはならないと命じられた」(10節)
  ソロモン王は多くの外国の妻を持った。そのことが、彼を主なる神から離れさせた。この出来事がやがて王国の分裂、滅亡に至ることを思うとき厳粛な思いにさせられる。若者にとって、どのような結婚を望むのか、信仰を共有できるのか、これは重要なポイントである。また私たちがこの信仰をどのように家族に伝え継承するかは、大きな祈りの課題である。しかしまず私たちが、偶像や占いを離れあらゆる罪を離れ、また時と場所を聖別し御言葉に心を傾けることである。今この時を逃してはならない。
“主よ。わたしの心を探り、あらゆる偶像と罪から聖別して下さい。アーメン”
 

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2007年7月11日(水) 聖書の箇所:列王記上12章1〜33節/ 年間通読:エズラ7〜9章
「きょう、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えるとき、」(7節)
  新しく王になったレハベアム王の質問に対する、老人たちの応答の言葉である。彼らはレハベアム王に対して民に仕えなさいとすすめた。私たちの主イエスは、神の御子であられたにもかかわらず、人となり、十字架の死に至るまで従順であられた。それ故に神は万物の上に彼の名を置かれた。
この主の愛を覚えるときに、私たちは、神様にも他の人にも、へりくだって仕えるのである。キリストに仕えるように仕えるのである。そこに主は共に働いて下さって、伝道の実、愛の業の実を結ばせて下さる。
“神様。主の十字架を覚えつつ、仕える者として下さい。アーメン”
 

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2007年7月12日(木) 聖書の箇所:列王記上 13章1〜34節
年間通読:エズラ10章,ピリピ1,2章
「こうして彼はほかの道を行き、ベテルに来た道からは帰らなかった。」(10節)
  一人の預言者が主の命によって、ユダからベテルに遣わされてきた。そしてヤラベアム王が作った祭壇が裂けた。主は彼に、来た道と別の道から帰るように言われた。残念ながら彼は主の言葉を守らず災難にあった。ヤラベアム王も主の預言によって始められた王朝であるのに偶像にそれてしまった。
私たちの救いは、主の尊い血潮によって始められた。主は私たちを罪の世から聖別し、神の子供として下さった。もはや罪の世界に戻る道はあり得ない。むしろ信仰を完成して下さる主にすがり、主の証しを続けよう。
“神様。主の道を進みます。もう戻りません。アーメン”
 

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2007年7月13日(金) 聖書の箇所:列王記上14章1〜31節
年間通読:ピリピ3,4章,ネヘミヤ1,2章
「彼はイスラエルの神、主にむかって良い思いをいだいていたからです。」(13節)
  ヤラベアム王の子が病気になり、王が妻に預言者を訪ねさせた。その子は死に、王族は滅ぼされ、その子だけが墓に葬られると預言者は語った。何とも切ない箇所である。主が立てられたはずの王が、主を離れ裁かれることは悲しいことである。しかしその一方で、主に背いて滅ぼされる王家の中に「主にむかって良い思い」をいだく者がいたことは、何という希望と慰めであろうか。誰もが生まれながらに罪人である。が、キリストを通して、神を思う思いが与えられ、神の子と変えられている。
“主よ。罪の中に生まれた私が、救われて御心を思えることを感謝します。アーメン”
 

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2007年7月14日(土) 聖書の箇所:列王記上 15章1〜34節/ 年間通読:ネヘミヤ3〜5章
「アサはその父ダビデがしたように主の目にかなう事をし、神殿男娼を国から追い出し、先祖たちの造ったもろもろの偶像を除いた」(12節)
  「主の目にかなう事をする」ということは王にとって、すべての民にとって、神の民としての基本であり、また大切な事である。その具体的な事が、神殿男娼(男の同性愛)を追い出し、偶像を除去した事であった。偶像とは、悪霊なのである(第1コリント10:20)。そして、その偶像礼拝は倒錯した性関係が必ずと言ってよいほど伴なうのである。私たちは今も働く悪霊の働きを警戒し、偶像を捨て、性的罪から聖別される必要がある。
“主よ、悪霊の働きから解放して下さい。アーメン”
 

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2007年7月15日(主日) 聖書の箇所:列王記上 16章1〜34節/ 年間通読:ネヘミヤ6〜8章
「そこで主の言葉がハナニの子エヒウに臨み、バアシャを責めて言った」(1節)
 
  預言者エヒウによってバアシャに対する神のさばきが宣告される。この章にはイスラエルの王、バアシャ、ジムリ、オムリ、そしてアハブが出て来るが、みな悪王であった。しかし、そのような中に、主の預言者が遣わされていたのである。私たちは、ユダからベテルに神の人が遣わされたのを見た(上列王13章)。預言者は相手が王であっても、自分の命をも顧みず、大胆に主の言葉を語ったのである。
”主よ、どのような中にも大胆にあなた御言葉を語らせて下さい。アーメン”
 

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2007年7月16日(月) 聖書の箇所:列王記上 17章1〜24節/ 年間通読:ネヘミヤ9〜11章
「しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、、」(13節)
  エリヤと干ばつ。エリヤは主の預言者として当分雨が降らないことを告げた。エリヤ自身も飲食に困る。主は行き先を告げられた。これは最後のパンを食べて死のうとしているやもめへの言葉である。
私たちが救われたと言うことは、全く価値観が変えられたことである。神の命によってのみ生きるからである。だから私たちは、まず、主の前に静まりみ言葉を聞く、その後、一日の仕事に取りかかる。まず主の前にすべてを捧げる。その後自分の分を得る。価値の転換は順序に現れる。
“父よ、まず捧げます。豊かに満たして下さることを感謝します。アーメン”
 

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2007年7月17日(火) 聖書の箇所:列王記上18章1〜46節
年間通読:ネヘミヤ12、13章、ルカ1,2章
「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。」(21節)
  エリヤとバアル預言者との対決。アハブ王の政策により、多くの主の預言者は殺され、そこに立ったのはエリヤ一人であった。多くの民は「長い物には巻かれろ」と言わんばかりに権力者のなすがままに従っていった。彼らは自ら善悪の判断をせず、また創造主なる神への信仰に立たなかった。
あなたの行動はどうだろうか。半端な信仰というものはない。ないのと同じだ。信仰に立つことは命よりも大切なものをもっていることだ。主も火をもって答えて下さると知っているからこそ立てるのだ。
“主よ、迷わず主に従います。私の祈りに必ず答えて下さることを感謝します。アーメン”
 

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2007年7月18日(水) 聖書の箇所:列王記上 19章1〜21節/ 年間通読:コロサイ1〜4章
「火の後に静かな細い声が聞えた。」(12節)
  エリヤの落胆と再出発。山頂対決は大勝利であった。恐らく敵の息の根を止めたと思ったのであろう。そうでないとわかってエリヤは、生きる気力すら失い、糸の切れた凧のようにさまよった。
今も多くの人が燃え尽きて人生をさまよっている。主はエリヤに必要な休息、体の栄養を与えられた。そして私たちの霊を回復させるのは、静かな細い主のみ声である。風、地震、火の中でなく静かなみ声である。私たちが静まるとき、主の底なしのいたわりと愛、簡単ではない偶像に対する先の先まで見通された計画を見ることができる。
“神様、静かなみ声を感謝します。アーメン”
 

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2007年7月19日(木) 聖書の箇所:列王記上20章1〜43節/ 年間通読:エステル1〜4章
「主はこう仰せられる、『わたしが滅ぼそうと定めた人を、あなたは自分の手から放して行かせたので、あなたの命は彼の命に代り、あなたの民は彼の民に代るであろう』と」。(42節)
  主は山でも谷でも勝利をとられ栄光を表わされた。しかしアハブ王は敵王の首を取らなかった。私たちは主が滅ぼすと定めたものを留め置いてはならない。敵である悪魔は、しつこくしつこく信仰に戦いを挑んでくる。主が捨てるべきことを示されたのにとっておくならば、必ずそれがあなたの信仰と命を奪う。その恐ろしさを肝に銘じて、明確な決断をしよう。
“主よ、主が喜ばれない物は、一つ残らず、あの十字架につけられました。感謝です。アーメン”
 

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2007年7月20日(金) 聖書の箇所:列王記上21章1〜29節/ 年間通読:エステル5〜8章
「『主はこう仰せられる、あなたは殺したのか、また取ったのか』と。」(19節)
  アハブの侮りとナボテの死。主の嗣業を守った者に、主を呪った汚名を着せ殺す。その嗣業の地を略奪した。恐るべき主に対する侮りである。しかし、主の目は、天地すべてのわざに行き届いている。その罪に正義と公平の裁きを下された。
今の社会も様々な悪徳が幅を利かせ、義人を食い物にしているように見える。しかし主は、その「時」に義の審判を下される。悪は決して特にはならない。義は決して損にはならない。主が帳尻を合わされる。だが主はアハブのへりくだりをも心に留められる。
“主よ、義なる審判者をほめたたえ、悔い改めてへりくだり仕えます。アーメン”
 

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2007年7月21日(土) 聖書の箇所:列王記上22章1〜53節
年間通読:エステル9,10章、第1テサロニケ1,2章
「ヨシャパテは父アサのすべての道に歩み、それを離れることなく、主の目にかなう事をした。ただし、」(43節) 
  アハズの死。預言の成就。列王記は各王が「主の目」にどうであったかを評価の基準にしている。単なる歴史書ではなく、聖書の他の書物同様、神の救いの歴史を示している。このヨシャパテ王は、“条件付き”合格といえる。主の前には功績もある(46節)。確かに悪気はない。しかしアハズ王と姻戚になったり(44)、彼の身代わりとなったりとその善意が「主の目の前に悪を行」う者に利用されている。
私たちは愛について霊的な鋭い感覚を養わなければならない。(ピリピ2:9〜)
“神様、日々成長し霊的な判断力が増し加わりますように。アーメン”
 

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2007年7月22日(主日) 聖書の箇所:列王記下1章1〜18節
年間通読:第1テサロニケ3〜5章、ヨブ1,2章
「それはイスラエルに、その言葉を求むべき神がないためであるか。」(16節)
  アハジヤは偶像に病気のことを尋ねさせた。主は預言者エリヤを介してその病について答えられた。私たちは命をあがなわれた創造主に完全に信頼して、尋ねるべきである。
偶像や占いに頼っている者はいないか。あるいは医者や薬、その道の専門家に頼っている者はいないか。彼らも主に用いられる。それらに頼ってないとしても主に頼っているだろうか。まず主に信頼して祈るべきである。聖書のみ言葉をもって示し答えて下さる。
“父よ、あなたの僕であるこの者の命を尊い者とみなしてください。
 全能のみ手をもっていやし、守って下さい。アーメン”
 

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2007年7月23日(月) 聖書の箇所:列王記下2章1〜25節 / 年間通読:ヨブ2〜5章
「エリシャは言った、
『どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください』。」(9節)
  天に引き上げられる時、イスラエルの大預言者、エリヤは弟子、エリシャに何が欲しいのかを尋ねた。エリシャは明確にエリヤの後継者になるために、彼の2倍の霊力を求めた。私達は神に召されたクリスチャンとして、それぞれの職務と使命を全うするために、どうしても神の霊の力を日々、頂いていかなくては進み行かない。
神の霊に満たされ、いつも新鮮な信仰と、ビジョンに溢れ、そしてなによりも、神と人とを愛する愛に満たしていただき、それぞれに与えられた使命を全うするという、最善の生涯を送らせていただきたい。
“今日もあなたの霊に満たして、溢れさせ、生き生きと、信仰者として歩ませてください。
 アーメン”
 

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2007年7月24日(火) 聖書の箇所:列王記下3章1〜27節/ 年間通読:ヨブ6〜9章
「これは主の目には小さい事である。主はモアブびとをも、あなたがたの手に渡される。」(18節)
  イスラエル、ユダ、エドムの王は結託してモアブ討伐をもくろむ。しかし、連合軍は遠回りを余儀なくされた上、大切な水をも浪費してしまった(9節)。困り果ててエリシャにあって主に伺いを立てた王たちに、主は枯れた谷に水を流れさせ、同時に戦いにも勝利を与えることを約束された。
奇跡と思えることが、主にあっては小さいことなのだ。私達の周りには解決策の見出されないような難問がいっぱいだ。しかし、われらの主はその難問・奇問に解決の道を備えられないほど、小さなお方ではないことを強く覚えたい。
“不可能を可能にしてくださる主よ、感謝します。アーメン”
 

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2007年7月25日(水) 聖書の箇所:列王記下4章1〜44節/ 年間通読:ヨブ10〜13章
「そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。」(34節)
  エリシャを神の聖なる者として敬い、心遣っていたシュネムの女の子供が突如、死んだ。エリシャは神に復活の奇跡の業を祈り、死んだ子供と体を合せるようにすると、子供は息を吹き返した。
キリストも受肉という驚くべき事実を通じて、私達、人間存在と究極的な合一をなしてくださったと言える。体と体、手と手、心と心を合せることで、私達のあらゆる部分に神の命と霊を吹き込み、私達をまるごと再生してくださる。
“主よ、あなたの命を注ぎ、ますますわれらを回復させたまえ。アーメン”
 

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2007年7月26日(木) 聖書の箇所:列王記下5章1〜27節/ 年間通読:ヨブ14〜17章
「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。
 そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう。」(10節)
  重い皮膚病にかかり、苦しんでいた敵国の名将、ナアマンにエリシャはヨルダンで7度、身を洗え、と語る。もちろんナアマンは憤慨する〈11〜12節〉。彼のプライド、人間的な常識、自我というものがエリシャを通して示された“神の救い”の“受け取り”を妨げたのであった。
私達の常識が、自信が、神による問題解決の業を妨げることがある。私達の思いに神を近づけさせるのではなく、神の御思い、ご計画に身を委ね、信頼するものでなければならない。その多くの場合において、神の問題解決方法は私達のそれとは全く違うものであることをしっかりと認識しつつ・・・。
“主がいつもわれらの内外に、御業をなせる開かれた信仰を持たせてください。アーメン”
 

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2007年7月27日(金) 聖書の箇所:列王記下6章1〜33節/ 年間通読:ヨブ18〜21章
「そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。」(17節)
  エリシャによって策略を見抜き、なかなか罠に陥らないこう着状態に業を煮やした敵国アラムの王は、エリシャのいるドタンの町を軍隊に包囲させた。恐れるエリシャの召使らだが、神は彼らの目を開き、大いなる天の軍勢の守りを見させた。
心の目が霞むと神の臨在、力、愛、慈しみを感じ取れなくなる。心の目がいつも開かれて、神の臨在の勝利に酔いしれるものでありたい。そのためには心の目薬、聖書、祈り、教会生活が不可欠だ。
“主よ、いつも心の目を開いてあなたを見させてください。アーメン”
 

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2007年7月28日(土) 聖書の箇所:列王記下7章1〜20節/ 年間通読:ヨブ22〜25章
「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、」(9節)
  主の苦しみと十字架が私たちのためであったこと、そして死を打ち破りよみがえられたことを覚えよう。主はエルサレムを包囲している軍隊を散らされた。それを最初に知ったのが、重い皮膚病の4人であった。4人は勇気を出して伝えたが、簡単には信じてもらえなかった。しかし事実は確かに明らかになった。
私たちは今神の国の福音を受けている。これを伝えないことはよくない。なかなか信じてもらえなくてもやがて真実は明らかになる。
“主よ。喜びと忍耐をもって福音を伝えさせて下さい。アーメン”
 

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2007年7月29日(主日) 聖書の箇所:列王記下8章1〜29節/ 年間通読:ヨブ26〜29章
「神の人がひとみを定めて彼の恥じるまでに見つめ、やがて泣き出した」(11節)
  ハザエルがなぜ泣くのか聞くとエリシャは、「あなたがイスラエルの人々にしようとする害悪を知っているからです。」と答えた。神の預言者は、神の厳しい裁きの言葉も告げるのであるが、イスラエルを深く愛し、その苦しみを共に感じる人であった。その思いは神様から出ている。主の十字架も神様の愛から出たものである。
私たちも主の愛を受けたのだから、主と同じ思いとなって、家族・子供を、同僚を、隣人を愛し、苦しみを共にし、神様の峻厳と憐れみを伝えさせていただきたい。
“主よ。十字架の愛の深さを知って、主と同じ愛で人を愛する者として下さい。アーメン”
 

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2007年7月30日(月) 聖書の箇所:列王記下 9章1〜37節/ 年間通読:ヨブ30〜32章
「主が彼について、この預言をされたことを記憶しなさい。」(25節)
  エヒウはエリシャの使者から王としての油注ぎを受けると直ちに行動し、アハブの子ヨラム王を殺した。その場所は、奇しくもアハブがナボテを殺し奪い取ったブドウ畑の場所であった。主は時至って、その預言を成就された。
私たちは神様から約束のお言葉をいただくことができる。しかしなかなかそれが成就しないときもある。けれども主の約束は、必ず成就するときが来る。だから落胆したり、希望を失わないように気をつけよう。忍耐と信仰をもって待ち望もう。やがてその時が来る。(2ペテロ3:9〜)
“父よ、約束が成ることを信じ、忍耐をもって待ち望みます。アーメン”
 

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2007年7月31日(火) 聖書の箇所:列王記下10章1〜36節/ 年間通読:ヨブ33〜36章
「しかしエヒウはイスラエルの神、主の律法を心をつくして守り行おうとはせず、、」(31節)
  エヒウは王となって偶像であるバアルをイスラエルから徹底的に取り除いた。これは神様の預言の成就でもあり、30節には「あなたはわたしの目にかなうことを行うにあたって、それをよく行い」と神様からもとても良く評価されている。しかし次の31節には全く反対のことが記されてあり、ヤラベアムの造った偶像を離れなかったことが記されている。
悔い改めて主の救いに入ったならば、自分を救った方にすべて従うところに、主の祝福が満ちあふれる。朽ちない命に変えられたのだからそのような生き方をしたい。
 “主よ、朽ちない命にふさわしい者として下さい。アーメン”
 

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