デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年8月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
     1  2  3  4  5
 6  7  8  9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

 
【今月のディボーション】 【ホームページへ】



 
 
2007年8月1日(水) 聖書の箇所:列王記下11章1〜21節/ 年間通読:ヨブ37〜39章
「かくてエホヤダは主と王および民との間に、皆主の民となるという契約を立てさせ、」(17節)
  アハジヤ王の死に際し、その母アタリヤが暴挙に出て国を治めた。唯一難を逃れた後継者ヨアシと祭司エホヤダの勇気ある行動から7年後ヨアシが王となり、アタリヤは殺され、バアルの祭壇は破壊された。この時、王と民は皆主の民となるという契約を立てた。
私たちの信仰のリバイバルも主との契約を再確認するところから始まる。個人においても、教会でも、国家規模でも、勇気を出して偶像と戦い、主を主として第一とするところに、主も共に働いて、栄光を表わし、真の平和へと導いて下さる。マタイ6:24
“神様、主の民となる契約を確認します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月2日(木) 聖書の箇所:列王記下12章1〜21節
年間通読:ヨブ40〜42章、第2テサロニケ1章
「主の宮にある金をことごとく取って、スリヤ王のハザエルに贈った」。(18節)
  ヨアシは幼くして王となり、主の宮を修復した者として評価が高い。しかしこの時の行動は全く異なっている。主のために大きな事業をしたことはすばらしい。しかし、他の国々では普通のことかもしれないが、主に聖別して捧げたものを取り出してきて敵の手に渡してしまった。
私たちが危機的状況に陥るとき、主に捧げたものを自分に取り返して、自分が主権を握ってしまうことはないだろうか。主イエスの命をもって私を贖われた主は、人生の隅々まで支え、助け、最善をなして下さるのではないだろうか。
“主よ、私自身を主に捧げました。いつでも主の僕です。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月3日(金) 聖書の箇所:列王記下 13章1〜25節
年間通読:第2テサロニケ2,3章、詩篇1,2篇
「主はアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約のゆえにイスラエルを恵み、これをあわれみ、これを顧みて滅ぼすことを好まず、なおこれをみ前から捨てられなかった。」(23節)
  アブラハムらが全く主に信頼したことが、このイスラエルの民に対する無限とも言うべき慈しみの源となっている。一方「ネバテの子ヤラベアムの罪」(2節)が主の怒りを招いている。私たちはキリストの神へのまったき信頼を通して、神様からの限りない愛を受けている。主はどんな罪過があっても立ち帰る者を抱かれる。しかしせっかくの恵みだからこそ、まったき信頼をもって人々に神様の祝福を分け与える者でありたい。
“主よ、主に全く信頼します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月4日(土) 聖書の箇所:列王記下14章1〜29節/ 年間通読:詩篇3〜7篇
「しかし主はイスラエルの名を天が下から消し去ろうとは言われなかった。」(27節)
  北イスラエルの王を見るといつも「ネバテの子ヤラベアムの罪を離れなかった」とある。王が次々変わっても、偶像に供え物を捧げ続けている。これは創造主の前に決して赦されざる冒涜である。しかし主は、それでも忍耐をして、イスラエルが悔い改めるのを待ち、滅ぼされなかった。その中に預言者を遣わし(25節)部分的ではあるが回復を約束された。
主は今も偶像に満ちあふれた地に対しても、忍耐をもって悔い改めの時を待ち望んでおられる。また私たちを主のみ心を知る預言者として遣わしておられる。
“神様、この地の民を赦しあわれんで下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月5日(主日) 聖書の箇所:列王記下15章1〜38節/ 年間通読:詩篇8〜12篇
「彼は主の目にかなう事を行い、」(3節)
  アザリヤ(別名ウジヤ)王に対する総評価である。これまでの王を見てきても「主の目にかなう事を行った」と言われつつも、様々な不信仰で失敗し、条件付きと言われる王が多くある。アザリヤもその一人である。高慢になって「主に撃たれた」(5節)。ところがその重い皮膚病のままで離れ家に住みつつ王であり続け、最終的に良い王と言われている。
信仰の世界では、失敗しないことも大切なことであるが、失敗の後の心からの悔い改め、赦しの確信はもっともっとずっと大切ですばらしいことである。
“父よ、主イエスの十字架による完全なあがないを信じ悔い改めます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月6日(月) 聖書の箇所:列王記下 16章1〜20節/ 年間通読:詩篇13篇〜17篇
「スリアの王レヂンおよびレマリアの子であるイスラエルの王ペカがエルサレムに攻め上って、アハズを囲んだが、勝つことができなかった」(5節)
  アハズはユダの王であったが、「主の目にかなう事を先祖ダビデのようには行わなかった」(1)とある。このようなアハズ王が敗れなかったのは、ただ神の憐れみ以外なかったと言える。
そしてアッシリアの王に頼り、また、異教の祭壇を真似て作ったことも主の喜ばれない事であったといえる。そのことの故にユダは略奪者の手に渡されたのである(列王下17:19,20)。
“主よ、主の目にかなう事を行わせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月7日(火) 聖書の箇所:列王記下 17章1〜41節/ 年間通読:詩篇18篇〜21篇
「ただ大きな力と伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から導き上った主をのみ敬い、これを拝み、これに犠牲をささげなければならない」(36節)
  救ってくださった主のみを敬い、礼拝するようにと言うことは、繰り返し、語られたが、イスラエルの民はそれに従い切れないで、他の神々を敬い、礼拝してしまったのである。そのために北イスラエルも、ユダも共にさばかれたのである。これは、人間の弱さと罪深さを教えるのである。
“主よ、罪深い私たちに救い主イエスさまを与えて下さったことを感謝致します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月8日(水) 聖書の箇所:列王記下 18章1〜37節/ 年間通読:詩篇22篇〜26篇
「主が彼と共におられれたので、すべて彼が出て戦うところで功をあらわした」。(7節)
  ヒゼキヤ王はイスラエルの神、主に信頼した故に「彼の後にも先にもユダのすべてののうちに彼に及ぶものはなかった」とある。そして、そのように主に信頼した故に主が共にいて下さり、戦いに勝つことができたのである。
主に全く信頼し、主にのみ従うときに主が共にいて下さるのである。
インマヌエル、即ち、主が我らと共にいて下さるということほどすばらしい事はないのである。
十字架や復活そして聖霊の降臨も主が共にいて下さるためのものである。
罪と死に対して勝利したからこそ、主が共にいて下さることに救いと勝利があるのである。
“主よ、あなたにのみ全く信頼しますから、あなたが私と共にいて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月9日(木) 聖書の箇所:列王記下 19章1〜37節/ 年間通読:詩篇27篇〜31篇
「主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてごらんください」(16節)
  ヒゼキヤの危機における祈りであるが、彼は生きておられる神の前に出て、アッスリヤの王セナケりブからの手紙をひろげ、そして、熱心に、真剣に祈ったのである。正にそれは目と耳を持っておられるお方が目の前におられる如くであった。
それに対して、イザヤを通して、主は「わしに祈ったことは聞いた」と言われたのである。そしてその如くくに神は奇跡的にヒゼキヤに勝利を与えて下さったのである。
“主よ、私たちもあなたに聞かれる祈りを祈らせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月10日(金) 聖書の箇所:列王記下 20章1〜21節/ 年間通読:詩篇32篇〜35篇
「わたしはあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう」。(5節)
  ここでもヒゼキヤは病気にかかった時、涙の祈りをささげている。これに対して言われた主の言葉がこれである。
主は私たちに目をとめておられ、私たちを顧みていて下さるのである。だから、必ず、私たちの叫びを聞いて下さり、御業をなして下さるのである。この時も、神さまは死ぬべきヒゼキヤの病をいやして、宮に上るようにして下さったのである。
“主よ、私たちの祈りをお聞きくださることを感謝致します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月11日(土) 聖書の箇所:列王記下 21章1〜26節/ 年間通読:詩篇36篇〜39篇
「もし、彼らがわたしが命じたすべての事、およびわたしのしもべモーセが命じたすべての律法を守り行うならば、イスラエルの足を、わたしが彼らの先祖たちに与えた地から、重ねて迷い出させないであろう」(8節)
  宗教改革を行い、偶像を神殿から一掃し、祭壇を立て直したヒゼキヤの子、マナセは悪の限りを尽くし、父、ヒゼキヤの宗教改革を台無しにしただけでなく、将来の、神による南王国への徹底的なさばきをも引き起こしてしまう。
神が民たちにひたすら求めていたのは、律法の堅守であったが、民たちにはそれができなかった。究極的な意味における律法の堅守、勤行はキリストの内住による心の刷新であるとは、新約の普遍のメッセージである。この恵みに生きよう!
“主よ、わが内に生き、あなたに忠実、誠実なものに変えてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月12日(主日) 聖書の箇所:列王記下 22章1〜20節/ 年間通読:詩篇40篇〜44篇
「あなたは、わたしがこの所と、ここに住んでいる民にむかって、これは荒れ地となり、のろいとなるであろうと言うのを聞いた時、心に悔い、主の前にへりくだり、衣を裂いてわたしの前に泣いたゆえ、わたしもまたあなたの言うことを聞いたのであると主は言われる。」(19節)
  南王国ユダの末期の王の一人あるヨシヤの懸命なる悔い改めにより、主はヨシヤの時代におけるさばきをとどめた。
私達の祈り、信仰は絶えず、形骸化の流れとの戦いを強いられている。“形”は大事であるが、心の伴わない“形”ほど、恐ろしいものはない。主は生けるお方であるから、生きた、新鮮な、心からの告白、求め、傾聴、謙りを持っての礼拝が不可欠だ。
“あなたの前に真実な礼拝をいつもささげさせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月13日(月) 聖書の箇所:列王記下23章1〜37節/ 年間通読:詩篇45〜49篇
「次いで(ヨシヤ)王は柱のかたわらに立って、主の前に契約を立て、」(3節)
  律法の書の言葉を聞いたヨシヤ王は、民の長老を集め、それを聞かせた。そして主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし精神をつくして、主の戒めを守ることを誓った。ユダヤで忘れられていた神様の言葉にもう一度立った時であった。彼は、それを行動に移し、主の宮をはじめ、全国にあるバアル、アシラ、天の万象、モレク、太陽その他の偶像を一掃し、過ぎ越の祭りを執り行なった。私たちも今日、主の言葉に立って、行動しよう。偶像を一掃し、十字架によるあがない主をほめたたえよう。
“父よ、偶像を一掃し、喜んで、心を尽して主に従います。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月14日(火) 聖書の箇所:列王記下 24章1〜20節/ 年間通読:詩篇50〜54篇
「このような事の起ったのは主の怒りによるので、主はついに彼らをみ前から払いすてられた。」(20節)
  ヨシヤ王の宗教改革にもかかわらず、それに続く王たちは、主の目に悪を行った。その結果は、25章へと続き、バビロンへの捕囚とユダ王国の滅亡に至る。このことは私たちに真の悔い改めの必要を警告している。
神様は私たちがどんなに背いても、何度裏切っても忍耐しておられたが、やがて裁きの時は来る。私たちは神様のみ前にどう言い開きをすることができるだろうか。十字架で命のあがないをなして下さったキリストによるほか立つすべはない。ローマ7:25 
“主よ、罪の法則の虜・惨めな者ですが、主キリストにあって、主に感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月15日(水) 聖書の箇所:列王記下25章1〜30節/ 年間通読:詩篇55〜59篇
「すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出してねんごろに彼を慰め、、」(27,28節)
  ついにユダ王国が滅亡した。神様の祝福を受け継ぐために選ばれたアブラハムの子孫であったが、神様に背いたときに他の民と同じように裁かれている。神様は義を義、罪を罪とされるお方であってなんの差別もない。だが人の不義によって神様の存在や働きがなくなるのではなかった。
主は民が捕われた地で、へりくだり、主を求める民を養い、慰め、特別なみ業をなされた。偶像や自分の力に頼ることをやめて、主の憐れみを求めて悔い改めよう。
“創造主である神様、憐れみを求めます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月16日(木) 聖書の箇所:歴代誌 上 1章1〜54節/ 年間通読:詩篇60〜64篇
「アダム、セツ、エノス、」。(1節)
  歴代誌のヘブル語の意味は「日々の出来事」である。サムエル記、列王記を補完している部分もある。人類の最初アダムから始まり、捕囚からの帰還命令に至ることによって、神様の深い憐れみが歴史全体に注がれていることを表わしている。これはやがてイエス・キリストによる救いの成就に至る道である。
また祭儀の発展と再興をとおして、神様を離れ罪に陥った人々が、もう一度神様の憐れみにより、主に立ち帰り、神様との関係を回復することによって、祝福を回復することを表わしている。
“主よ、世の初めから深い憐れみが注がれていることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月17日(金) 聖書の箇所:歴代誌 上2章1〜55節/ 年間通読:詩篇65〜68篇
「アカルは奉納物について罪を犯し、イスラエルを悩ました者である。」(7節)
  ユダヤ部族の系図。アカルとはヨシュア記7章のアカンのことである。彼は、主に捧げるべき奉納物を「見て、ほしくなり、それを取」った。それが神様の臨在を失わせ、イスラエルの敗北につながり、犠牲者も出した。神様に捧げるべきものを取ることは大きな罪である。約束の地を受け継ぐのにわずかな物に心奪われて主をないがしろにすることは愚かである。
私たちはまず十一献金をしっかりと捧げたい。主イエスの命によるあがない、永遠の命の継承を思えば自分のすべてを捧げても足りない。
“神様、あがないの命と受け継ぐものの大きさを覚え喜んで捧げます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月18日(土) 聖書の箇所:歴代誌 上3章1〜24節/ 年間通読:詩篇69〜72篇
「ヘブロンで生れたダビデの子らは次のとおりである。」(1節)
  ダビデの系図。ダビデの子らと王の系譜。こうしてみるとダビデは多くの妻を持ち、たくさんの子供がいたことがわかる。サムエル記に見るように、幾人かは、兄弟を殺したり、親の命を狙ったりと父ダビデの大きな心の痛みとなった。私たちにとっても家族に対する証しや伝道は生やさしいものではない。まずは自身のみ言葉に従順かつ喜びにあふれた信仰が大切である。
また同時に主に栄光を帰して、主のなされたみ業をことあるごとに語っていく必要もあるのではないか(申命記13:9)。
“主よ、あなたによって与えられた私の喜びが、家族にも満ちあふれますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月19日(主日) 聖書の箇所:歴代誌 上4章1〜43節/ 年間通読:詩篇73〜77篇
「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。(10節)
  ヤベヅの祈り。ヤベヅとは苦悩という意味である。しかし彼は、イスラエルの神に祈って、その兄弟のうちで最も尊ばれる者となった。
 新約に生きる私たちは、信仰によって朽ちる者が朽ちない者に変えられ、この地においても豊かな祝福を受けている(マルコ10:29〜)。
私たちは様々な苦しみをも受けるかもしれない。しかし主の十字架を仰ぐときそれも力強い神様の恵みと祝福に変えられていることに気付かされる。
“父よ、私を豊かに恵み、災いから守って下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月20日(月) 聖書の箇所:歴代誌 上5章1〜26節 / 年間通読:詩篇 78、79、80篇
「これは彼らが戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので、神はその願いを聞かれたからである。」(20節)
  ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨルダン川の東側に嗣業を得た部族であった。1節を見るとルベンは不品行によって、長子の権を失った。しかしこの2部族半は、神様に寄り頼んで大きな勝利を得ることができた。それなのに彼らは、他の神々を慕い、約束の地から移されてしまった。
私たちは、主のあがないによって、神の御国を継ぐ者とされている。選ばれて、主にあって始められた信仰の歩み、たゆまず主を見上げ、完成させていただこう。(イザヤ4:31)
“父よ。逆境の時も順境の時も主を頼む者として下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月21日(火) 聖書の箇所:歴代誌 上6章1〜81節/ 年間通読:詩篇 81〜85篇
「コハテびとの子らのうちヘマンは歌をうたう者、ヘマンはヨエルの子、ヨエルはサムエルの子」(33節)
  この章にはレビ族の系図が記されている。ここには預言者サムエルの孫が主を賛美する奉仕をしている。サムエル記上8章1〜3節を見ると、サムエルの子らは、不正な裁きをして、神に喜ばれない者であった。詳しくは記されていないが、孫のヘマンが賛美の奉仕をするに至るまでにどんな紆余曲折があっただろうか。またどれだけの祈りが背後にあったことだろうか。
今の私たちも多くの祈りによって支えられている。私たちも忍耐をもって祈り続けよう。
“私の悩みをご存じの主よ。救って下さい。祈り続けます。信頼します。賛美します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月22日(水) 聖書の箇所:歴代誌 上7章1〜40節/ 年間通読:詩篇 86〜89篇
「イッサカルのすべての氏族のうちの兄弟たちで系図によって、数えられた大勇士は合わせて八万七千人あった。」(5節)
  この章には、イッサカル、ベニヤミン、ナフタリ、エフライム、アセルの各部族の系図が記されている。この系図は、ヤコブと共にエジプトに下った時代から、捕囚を経て帰還までの数百年以上の長い期間の中で一人一人数えられている。
主イエスにあって救われた者は、時代を超え地域民族を越えて一人も漏れることなく「いのちの書」に名前が記されている。その中に私達の名も記されており、主と同じ復活の姿に変えられる時を待ち望んでいる。
“主よ。この小さき者も天に名が記されていること(ルカ10:20)を感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月23日(木) 聖書の箇所:歴代誌 上8章1〜40節 / 年間通読:詩篇 90〜94篇
「ウラムの子らは大勇士で、よく弓を射る者であった。彼は多くの子と孫をもち、百五十人もあった。」(40節)
  ベニヤミン族の系図であるが、後半はサウル王の系図である。普通の歴史で考えれば、サウル王家は、ダビデ王朝に変わったときに滅ぼされていたはずである。しかしむしろ力も数も祝されている。これはサウルの子ヨナタン(33節)による。ヨナタンはダビデを愛し、苦難の時に「神によって彼を力づけた」(サム上23:16)。また神様から離れている父に、真実に仕えることも大変なことであったろう。
主は今も全てを委ねて主に仕える者を求めておられる。
“私を救って下さった神様。あなたにお仕えしたいです。私の全てを献げます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月24日(金) 聖書の箇所:歴代誌 上9章1〜44節/ 年間通読:詩篇 95〜99篇
「その領地の町々に最初に住んだものはイスラエルびと、祭司、レビびとおよび宮に仕えるしもべたちであった。」(2節)
  ここに神の宮に仕えた人々の系図が記されている。この宮での奉仕には、祭司やレビ人はもちろんであるが、他にも多くの人々が役割をになっていた。私たちの教会も多くの人々の奉仕によって、なっている。
私たちは自分の賜物を知り、それを用いて主に仕えているだろうか。またその奉仕の中心は礼拝であり、主をほめたたえ、自分を献げることである。宮の奉仕者はエルサレムに住んで奉仕に備えていた。私たちも主日の前に心を備えよう。
“神様。心整えられて主を礼拝し、賜物をもって奉仕できますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月25日(土) 聖書の箇所:歴代誌 上10章1〜14節/ 年間通読:詩篇 100〜104篇
「それで主は彼を殺し,その国を移してエッサイの子ダビデに与えられた」(14節)
  サウロの滅びが記されている。“主にむかって犯した罪のために死んだ”(13節)とあるが、それは第一に主の言葉を守らなかったという罪であり、第二に口寄せに問うこと(13節)をしたということである。
私達も御言葉を守って,主に従うことが大切である。また、口寄せに問うということであるが、これは悪霊に聞くことである。これは神の御言葉に従わないことから来る結果といえる。
“主よ、あなたの御言葉に素直に,従順に,喜んで従うものとさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月26日(主日) 聖書の箇所:歴代誌 上11章1〜47節/ 年間通読:詩篇 105,106篇
「彼らはイスラエルのすべての人とともにダビデに力をそえて国を得させ、主がイスラエルについて言われた言葉にしたがって,彼を王とした人々である」(10節)
  ダビデはイスラエルの国を良く統治し、周りの民族を征服し、民からも愛された素晴らしい王であった。その秘訣は勿論、ダビデが主を愛し、主の御言葉に従ったからであった。それと共に、主の言葉に従って彼を王としたとあるように、主にあって、ダビデを命をかけて助け、支える多くの勇者が与えてられていたからでもあった。
“主よ、あなたに従うものと共にあなたの教会に仕えさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月27日(月) 聖書の箇所:歴代誌 上12章1〜40節/ 年間通読:詩篇107〜110篇
「その最も小さい者でも百人に当り、その最も大いなる者は千人に当った。」(14節)
  ダビデの下に集まってきた人々。誰々かも大事だがどんな人々であったかが大切である。軍隊は多ければ強いのではない。14節は隊長たちだが、一人一人がどんなに強い相手でも一歩も退かない心と腕を持っていた。33節には「皆訓練を経た」とある。32節には「皆その指揮に従った」とある。クリスチャンも養育されていなければ弱い。またバラバラでも弱い。
私たちは学校や会社等でも必要な学びを受ける。主の指揮下の一人一人の霊的信仰的熟練が神の国の戦力である。
“父よ、信仰的に整えられ、主の指揮に従い、良い働きができるよう整えて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月28日(火) 聖書の箇所:歴代誌 上13章1〜14節/ 年間通読:詩篇111〜115篇
「ウザが手を箱につけたことによって、、彼はその所で神の前に死んだ。」(10節)
  神の箱をエルサレムに携え入れようとしたが、ウザが神に撃たれ死んだ。ダビデは神を恐れ、神の箱を別の所に置いた。神の箱は神の臨在を表す。それを運び入れようとしたのは良い動機からであった。ダビデは全国から人を集め新しい車(7節)を用意して、最善の方法で迎え入れようとした。しかし後でわかるようにその方法は、神様の命令と違っていた。
私たちが主の栄光を表すためには、動機だけでなく、方法、時、すべてにおいて、全能の主のみ心に従う必要がある。
“主よ、全能の主を恐れつつ、主の示される方法に従い、主の栄光を表せますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月29日(水) 聖書の箇所:歴代誌 上14章1〜17節/ 年間通読:詩篇116〜118篇
「ダビデが再び神に問うたので神は言われた」(14節)
  ペリシテ人の侵攻。ダビデは最初の侵攻の時、神様に問うて勝利を得た。再び侵攻して来たときも神様に問うて勝利を得た。しかし、神様の答えは違っていた。「あなたは彼らを追って上ってはならない。」私たちは一回うまくいくと次も同じ方法を取りやすかったり、神様に聞かなかったりする。だが神様は一回一回新しい答えを持っている。
私たちは何であっても神様に尋ね祈り、またその度毎に答えを聞き、従う信仰をもって歩みたい。今日、神様に問うて祈るべき事は何であろうか。
“祈りに答えて下さる神様、今日すべき事についてどうすべきか教えて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月30日(木) 聖書の箇所:歴代誌 上15章1〜29節/ 年間通読:詩篇119篇
「これはわれわれがその定めにしたがってそれを扱わなかったからです」。(13節)
  主の契約の箱のエルサレム入城。13章においては、主の定めに従わず、神に撃たれた。しかし今度は主の定めに従って、主の箱を扱い、賛美と喜びにあふれて、これを迎え入れることができた。ダビデは最初の失敗の直後は怒り、恐れ、心くじかれた。しかしもう一度祈り、気をとりなし、調べて主の箱を迎える準備をした。
失敗のない人はいない。私たちは失敗の原因をただ追求するだけでなく、神に向き合って解決するとき、再起できる。
“主よ、この失敗を悔い改めて委ね、再出発します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2007年8月31日(金) 聖書の箇所:歴代誌 上16章1〜43節/ 年間通読:詩篇120〜124篇
「主にむかって歌え、主をほめ歌え。そのもろもろのくすしきみわざを語れ。」(9節)
  主への賛美。詩篇にも記されている。ダビデと聖歌隊との賛美である。41節がその普遍的な内容を表わしている。この9節は8節と同じ内容が反復し強調されている。「もろもろのくすしきみわざ」とはダビデ自身、またイスラエルの民がそれまでに経験してきた神様の不思議なみ業である。それはある意味で彼ら固有なものである。
主の恵みは今やイエス・キリストを通して私たち一人一人にも及んでいる。私たちの賛美も個々になされた神様のみわざが根底にある。それを共に賛美するのである。
“神様、私や皆へのみわざ、くすしきことを喜んで賛美します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 

ホームページへ戻る