デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年10月のデボーション
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2007年10月1日(月) 聖書の箇所:歴代誌下 18章1〜34節/ 年間通読:イザヤ 31〜33章
「主は生きておられる。わが神の言われることをわたしは申します。」(13節)
  400人もの偽預言者がいて、王の喜ぶことだけを言っている。その中で主の預言者ミカヤは、神の言葉を語った。それは、王の耳に痛い言葉であった。神の言葉を語るのは命がけである。
私たちの周りでも、創造主やキリストや聖書を否定する話が起こってくる。その時私たちはどうするだろうか。本当に主への信仰に立っているかが問われる。主が言われることを語ろう。人を恐れるのではなく主を恐れよう。真実を語らないのは苦しいことである。主から賜ったものは、「たとい死んでも生きる」命である。
“主よ。生きている神の言葉を語らせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月2日(火) 聖書の箇所:歴代誌下 19章1〜11節/ 年間通読:イザヤ 34〜36章
「あなたは悪人を助け、主を憎む者を愛してよいのですか。」(2節)
  ヨシャパテ王は神様を求め、偶像を取り除き、祭司やレビ人を支え、人々を教え多くの良いことをした王であった。残念ながら、その功績を台無しにしてしまったことがある。それは善と悪を峻別できなかったことである。悪人を助け、縁を結んだことが、やがて王国を神なき国の大混乱に陥らせてしまった。
善に見える悪もある、少しの譲歩が悪への王道を開くこともある。私たちは霊的な鋭い感覚が養われなければならない。何が重要かを判別できる必要がある(ピリピ1:9〜10)。
“神様。私にあなたの心を教え、純真で責められるところのないものとして下さい。アーメン”
 

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2007年10月3日(水) 聖書の箇所:歴代誌下 20章1〜37節/ 年間通読:イザヤ 37〜39章
「あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。」(20節)
  ヨシャパテ王は軍も増強していたはずであった(17:2)。しかしそれだけではいざというとき、役に立たなかった。人の知恵や力では、上には上がいる。私たちのなすべきことは、主に助けを求めることである。
ヨシャパテ王は、自分の誇りを捨て、断食をして、主を求めた。約束の言葉をもって主を求めた。そこに主の言葉が臨んだ。主を信じた。そして大切なことは、主を賛美したことである。しかも軍勢よりも前で(21節)。私たちの生活に賛美が少なくないだろうか。主を賛美しよう。
“主よ。へりくだる者への助けを感謝します。あなたを賛美します。アーメン”
 

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2007年10月4日(木) 聖書の箇所:歴代誌下 21章1〜20節/ 年間通読:イザヤ 40、41章
「主はさきにダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを好まれなかった。」(7節)
  ヨラム王は、「ひとりも彼を惜しむ者がなかった」 ほどに神様から離れて悪をおこなっていた。聖書は原因を悪い者を妻としたからであるといっている。そのようなヨラムであったが、神様はダビデとの契約(歴上22章)のゆえに、彼も子孫も滅ぼさなかった。それどころか、この子孫から救い主を生まれさせ、永遠の王国を確立された。どんなに私たちが罪深くても、どんなに主に従えないとしても、この私たちのために十字架による愛と赦しが備えられている。主の前に素直な心で悔い改めよう。
“主よ。罪をおゆるし下さい。無限の愛を感謝します。アーメン”
 

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2007年10月5日(金) 聖書の箇所:歴代誌下 22章1〜12節/ 年間通読:イザヤ 42、43章
「こうしてヨアシは神の宮に隠れて彼らと共におること六年、」(12節)
  なぜ神の国にこのようなことが起こるのかと思わされる。罪のない者が殺され、悪い者が国を治める。皆が苦しんだ。そのような中で、密かに主の回復の計画が進んでいた。私たちにもなぜと思うことが起こってくる。悪に苦しむ時がある。また耐え忍ぶべき時がある。当時と違うことが一つある。それはすでに主イエスはよみがえられたということだ。
罪と死とは打ち破られたことだ。悪魔は最後の悪あがきをしているにすぎない。そして私たちは、主が再び来られ、すべてを治めるのを待ち望んでいる。
“神様。最後まで耐え忍べますように。主の来臨を待ち望みます。アーメン”
 

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2007年10月6日(土) 聖書の箇所:歴代誌下 23章1〜21節/ 年間通読:イザヤ 44、45章
「エホヤダは自分とすべての民と王との間に、彼らは皆、主の民になるとの契約を結んだ」(16節)
  エホヤダは祭司であったが、勇気を出して、百人の長たちに契約を結ばせた。また、ユダのすべての町からレビ人を集め、イスラエルの氏族の長たちを集めた会衆と、神の宮で、王と契約を結ばせた。そして、宗教改革に取り組んだのであった。
このようにして、彼は王がいなかったので王を立てる備えをし、王を立てたのであった。エホヤダは神を中心とした勇気ある、自分をわきまえた良き指導者であった。
“主よ、神のために、勇気を与え、主を中心として歩ませて下さい。アーメン”
 

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2007年10月7日(主日) 聖書の箇所:歴代誌下 24章1〜27節/ 年間通読:イザヤ 46〜48章
「ユダの町々へ行って、あなたがたの神の宮を修繕する資金をすべてのイスラエル人から集めなさい。その事を急いでしなさい」。(5節)
  ヨアシ王は祭司エホヤダが在世中は “主の良しと見られることをなした”(2) のであった。その一つが神殿を修繕することであった。しかし、始めはこれもうまくは行かなかったが、箱を主の宮の門の外において、宮もうでに来る人から毎日集めたのであった。それが功をそうし、たくさんのお金が集まり、それをもって宮を堅固にすることができたのである。
“主よ、事を行うのに、神の知恵をもって行わせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月8日(月) 聖書の箇所:歴代誌下25章1〜28節/ 年間通読:イザヤ 49〜51章
「神にはあなたを助ける力があり、また倒す力があるからです」。(8節)
  アマジヤが銀百タラントでイスラエルの大勇士十万人を雇って、セイル人と戦おうとしていた時、神の人がアマジヤに言った言葉である。神さまは神の人の言うとおりに従ったならば彼を助ける力をもち、もし従わなかったら、倒してしまう力を持っておられるということである。
正に救う力があり、滅ぼす力のあるお方なのである。決してあなどってはいけないのである。謙りと従順とをもって神に従うべきなのである。
“主よ、神の助けの中にあるように、御言葉に従わせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月9日(火) 聖書の箇所:歴代誌下26章1〜23節/ 年間通読:イザヤ 52〜55章
「彼が主を求めた間、神は彼を栄えさせられた」(5節)
  ウジヤ王は名君であった。預言者ゼカリヤの指導にしたがっていた時は、「驚くほど神の助けを得て強くなった」(15)のであった。しかし、「彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った」(16)のであった。
ここに人間の弱さがあるのである。その弱さを悪の力は巧みに突いて来て、罪を犯すようになり、審きとしての滅びがやってくるのである。主に従い、求めつづける所に、祝福の秘訣があるのである。
“主よ、絶えず、従順であり、あなたを求め続けさせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月10日(水) 聖書の箇所:歴代誌下27章1〜9節/ 年間通読:イザヤ 56〜58章
「ヨタムはその神、主の前にその行いを堅くしたので力あるものとなった」(6節)
  「その行いを堅くした」とは、主の戒めに従って歩んだことである。右にも左にもまがらないでまっすぐに従うことである。そこには、疑いや不信仰や迷いがないのである。「行い」とあるから、思いや考えや思想が主の前に堅かっただけでなく、その行動が堅かったのであった。
しかし、「民はなお悪を行った」(2)とあることから、民への影響力、指導力には欠けていたようである。その原因は何であろうか。神のために、いつも神の宮で、神の前に出て民の為に祈ることに欠けていた為と思われるのである。
“主よ、民の為にとりなす者とさせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月11日(木) 聖書の箇所:歴代誌下28章1〜27節/ 年間通読:イザヤ 59〜61章
「主の激しい怒りがあなたがたの上に臨んでいるからである」(11節)
  これはオデデという主の預言者の言葉である。北イスラエルの民がユダとエルサレムの人々を従わせて、自分の男女の奴隷としようとしていたことに対する主の怒りを語ったのである。
レビ記には「彼らはエジプトの国からわたしが導き出したわたしのしもべであるから、身を売って奴隷となってはならない」(25:42)とあるので、たとえ、ユダが罪を犯して、滅ぼされたとしても、イスラエルはユダの人々を捕虜としてはいけないのであった。
“主よ、相手の悪につけ込んで、罪を犯さないようにして下さい。アーメン”
 

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2007年10月12日(金) 聖書の箇所:歴代誌下29章1〜36節/ 年間通読:イザヤ 62〜64章
「レビびとよ、聞きなさい。あなたがたは今、身を清めて、あなたがたの先祖の神、主の宮を清め、聖所から汚れを除き去りなさい」 (5節)
  主が良しとされた第一のことは宮清めであった。偶像礼拝につかわれたものなどがたくさんあった。それらのものをことごとく運び出して、捨て、あるいは、捨てた所で焼いたのである。
次に、燔祭の壇、パンの机とすべての器ものが清められたのであった。それから罪祭がささげられて、血による清めがなされたのであった。
“主よ、まず罪汚れをみな悔い改め、イエス・キリストの十字架の血によって清めて下さい。
アーメン”
 

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2007年10月13日(土) 聖書の箇所:歴代誌下30章1〜27節/ 年間通読:イザヤ 65、66章
「このようにエルサレムに大いなる喜びがあった。イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時からこのかた、このような事はエルサレムになかった。」(26節)
  ヒゼキヤ王の宗教改革である。長らく霊的停滞の中にあり、北王国イスラエルがアッスリヤの手に落ち、滅びる(BC721or722)という憂き目に会う中で、生き残った南王国ユダの民たちを中心に信仰復興運動が行われた。
ソロモンの時代から数えて実に約200年ぶりに大いなる喜びの伴った真の礼拝が捧げられたことになる。いわゆる信仰のリバイバルだ。新鮮な食材と同じように信仰も鮮度が命だ。聖霊による信仰の刷新が私達には不可欠となる。
“主よ、いつも新鮮な信仰と命ある礼拝を保たせてください。アーメン”
 

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2007年10月14日(主日) 聖書の箇所:歴代誌下31章1〜21節
年間通読:テトス 1〜3章、エレミヤ1章
「すなわち朝夕の燔祭および安息日、新月、定めの祭などの燔祭のために出して、主の律法にしるされているとおりにした。」(3節)
  ヒゼキヤ王の信仰復興運動における大きな業績の1つは神殿礼拝を回復させただけでなく、その礼拝を持続させていく確固たる体制を自ら率先してささげものを奉献していくことで、築き上げようとしたことだ。私たちはとかく目に見える大きな成果や人の気を引く派手な事々を求めやすい。
しかしなによりもまず大切なことは地味と思われるような礼拝、祈祷会出席、密室での祈りといった基本的な礼拝の実行・継続である。この先にこそ大いなる霊的な成果がある。
 “主よ、基本に忠実な者として下さい。アーメン”
 

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2007年10月15日(月) 聖書の箇所:歴代誌下32章1〜33節/ 年間通読:エレミヤ2、3章
「心を強くし、勇みたちなさい。アッスリヤの王をも、彼と共にいるすべての群衆をも恐れてはならない。おののいてはならない。われわれと共におる者は彼らと共におる者よりも大いなる者だからである。」(7節)
  ついに北王国を滅ぼしたアッスリヤがユダに攻めてきた。しかし無敵と思えるアッスリヤ軍を前にしてもヒゼキヤの主に対する信頼は揺るがなかった。目に見える現実の先に君臨しておられる全能なるお方を認識できるかが、信仰の戦いの勝負の分かれ道となる。
アッスリヤに勝るとも劣らない厳しい現実が私達を容赦なく襲う。しかし、“その現実を支配し、我々を守り給う大いなる方がともにおられる”ということが私達にとっての真の現実であることを忘れてはならない。
“主の守りを感謝します。アーメン”
 

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2007年10月16日(火) 聖書の箇所:歴代誌下33章1〜25節/ 年間通読:エレミヤ4、5章
「神はその祈りを受けいれ、その願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨ませられた。」(13節)
  マナセは偶像に、口寄せに、占いに心を奪われ、神の怒りを引き起こしてしまった。神はアッスリヤに攻めさせ、マナセを捕らえ、バビロンに連れ行かせ、裁きを行うが、自分の愚かさに気づいたマナセは謙り、低頭平身、神に助けを祈る。神はこの祈りを聞き入れ、マナセを再びエルサレムに戻す。驚くべき赦しと回復だ。
キリストにあって真実なる悔い改めの祈りを主は受け入れてくださり、全き赦免と回復を与えて下さる。今日も主の前に出て包み隠さず祈り、折にかなった赦免を頂こう。
“赦しの恵みの内に歩ませてください。アーメン”
 

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2007年10月17日(水) 聖書の箇所:歴代誌下34章1〜節/ 年間通読:エレミヤ6、7章
「王は自分の所に立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし・・・その戒めと、あかしと定めとをまもり、この書にしるされた契約の言葉を行おうと言い・・。」(31節)
  善王ヨシヤは宮きよめと修復を行ったが、その際、本来の場所から移動され、放置されていたモーセの律法の書を、祭司を通して発見した。彼はすべての民に律法の書に記されていることの遵守を再徹底させた。
私達の信仰の基準、生活の基盤は聖書である。この世の価値観を土台に神を捉えるのではなく、聖書を通してこの世の様相を捕らえ、理解するという聖書的な世界観を養っていくことが最も大切なことの1つだ。
“聖書を土台とした歩みをさせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月18日(木) 聖書の箇所:歴代誌下35章1〜27節/ 年間通読:エレミヤ8〜10章
「イスラエルの王ダビデの子ソロモンの建てた宮に、聖なる箱を置きなさい。」(3節)
  偶像に溺れたマナセ、アモンの時代、神の箱は神殿の外に搬出され、粗雑な取り扱いを受けていたようである。善王ヨシヤは過ぎ越しの祭りの実行と再び神の契約の箱を神殿に据え置くことで、神への献身を聖職者、民たちに徹底させた。
私たちの主、キリストは今どこにおられるだろうか。部屋の片隅、私達の人生の片隅ではなく、私達のすべてのすべてなる御方として、心の中心、人生の中心として日々お迎えし、とこしえに君臨していただこうではないか!
“主よ、今日もあなたが私の中心、生活の柱でありますように。アーメン”
 

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2007年10月19日(金) 聖書の箇所:歴代誌下36章1〜23節/ 年間通読:エレミヤ11〜13章
「ペルシャの王クロスはこう言う、「天の神、主は・・・主の宮をユダにあるエルサレムに建てることを私に命じられた。・・」(23節)
  ついに超大国バビロンによるバビロン捕囚が南王国ユダに対して起こってしまった。事実上の国の崩壊である。しかし驚くべきことにエレミヤの回復の預言(エレミヤ25:11〜12参照)のごとく、神殿再建を通しての信仰復興、神の民の国の回復への始まりをここに見る。そのきっかけを作ったのが神の霊によって導かれた(22)異邦の民の王クロスであった。神を知らない異邦の王にも働き、救いの道を切り開く我等の神の恵みに感謝しよう!
“すべてを支配しておられるあなたの御名を心から崇めます。アーメン”
 

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2007年10月20日(土) 聖書の箇所:エズラ記 1章1〜11節/ 年間通読:エレミヤ14〜16章
「主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、」(1節)
  長い捕囚の期間であったが、時が満ちて、神様にしかできない方法で、イスラエルに帰還することができた。さらに現代の私たちには、イエス・キリストが来られ、十字架と復活により、神の前に罪の赦しが成就している。
そして今、私たちが、成就を待ち望むべき主の言葉は、主がもう一度来られて、私たちを引き上げて下さることである(使徒行伝1:11、テサロニケ4:13〜18)。捕囚の人々は、どんな苦しみの中でも、主の言葉の成就を信じて帰還の時を待ち望んでいた。私たちも、主の再臨を待ち望んで歩もう。
“神様。主がもう一度来られる約束を信じ、待ち望みます。アーメン”
 

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2007年10月21日(主日) 聖書の箇所:エズラ記 2章1〜70節/ 年間通読:エレミヤ17〜19章
「神の宮をもとの所に建てるために真心よりの供え物をささげた。」(68節)
  イスラエルの帰還の目的は、「主の宮の再建」であった(1:2〜4)。主が「ペルシャ王クロスの心を感動され」(1:1)たことに始まったが、それを受け取るには信仰が大切である。帰還した民の数は、わずか四万人(64)であった。けれどもそれはたいした問題ではない。
主は、「力のない者を助けること」(歴代14:11)ができる全能の主であるからだ。ではなぜ主の民が捕囚に至ったのか。それは、まことの神を離れ偶像を拝み、祭儀も形式ばかりで心が伴っていなかったからであった。「真心」をもって主の前に出よう。
“主よ。今も働いておられる主を信じ、心から礼拝します。アーメン”
 

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2007年10月22日(月) 聖書の箇所:エズラ記  3章1〜13節/ 年間通読:エレミヤ 20〜22章
「そして民はみな主をさんびするとき、大声をあげて叫んだ。主の宮の基礎がすえられたからである。」(11節)
  主の宮の再建が始まり、基礎工事が完成した。民は大声を上げて賛美した。ところで私たちは、主の恵みの中に歩んでいるときは、どんなに大きな恵みが注がれているか気づかなくなってしまうことがある。しかし主から離れてしまって、主を礼拝できなかったり、十分に交わりができなかったりすると、その愛の大きさに気づかされる。
今与えられている恵みを心から感謝しよう。大声で賛美しよう。そして主から離れることがないように、信仰の「基礎」(5つの約束)を固めよう。
“主よ。あなたの愛で生かされていること感謝します。アーメン”
 

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2007年10月23日(火) 聖書の箇所:エズラ記 4章1〜24節/ 年間通読:エレミヤ 23〜25章
「われわれだけで、イスラエルの神、主のために建てるのです。」(3節)
  クリスチャンの生き方には、この世の人々を愛し受け入れていく面と、信仰のゆえに人々と決して妥協できない面とがある。この神殿の再建もユダヤ人だけですべきことであった。しかしそこには必ず妨害も起こってくる。その地の民が妨害を始め、王の返書と「腕力と権力」(23)とをもって主の宮の工事を中止させた。大いに落胆させられるところである。
私たちも信仰を貫いていこうとするときに、悪魔も必死で働く。一時道が閉ざされる時もある。だがあきらめてはいけない。主のみ業は人の力で止めることはできない。
“神様。この世と妥協しないように助けて下さい。アーメン”
 

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2007年10月24日(水) 聖書の箇所:エズラ記 5章1〜17節/ 年間通読:エレミヤ 26〜28章
「そこでシャルテルの子ゼルバベルおよび、ヨザダクの子エシュアは立ちあがって」(2節) 
  主の宮の工事は約18年間も中止されてしまった。しかし、主の言葉を受けた預言者ハガイとゼカリヤが預言した。そしてユダヤの指導者ゼルバベルとエシュアも立ちあがった。民も皆立ちあがった。
私たちが様々な妨げのためにあきらめていることはないだろうか、あるいは罪に負けて、神の言葉や信仰の歩みから離れていることはないだろうか。それがどんなであったとしても、今も御子の血潮は注がれている。どこまでも共に歩んで下さる主を見上げて、立ちあがろう。
“父よ。あなたを見上げずにいたことをおゆるし下さい。主を見上げ立ちあがります。アーメン”
 

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2007年10月25日(木) 聖書の箇所:エズラ記 6章1〜22節/ 年間通読:エレミヤ 29、30章
「人々は、喜んで神のこの宮の奉献式を行った。」(16節)
  ついに神の宮は完成した。ボズナイ達の様々な妨げは、不思議にも、彼らの意に反して協力に変えられた。神様の力強いみ手がなければ、到底完成しない働きであった。この神様の前に、イスラエルの民は喜んで、奉献式を行い、また過越の祭りを喜んで祝った。
私たちの信仰の歩みも神様の力強いみ手なくしては完成することができない。しかし私たちには、まことの過越の子羊であるイエス・キリストが与えられているので、罪の赦しと同時に、救いの完成をあらかじめ知り、喜ぶ恵みが与えられている。
“主よ。み国の完成を待ち望みつつ、主を賛美します。アーメン”
 

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2007年10月26日(金) 聖書の箇所エズラ記 7章1〜28節:/ 年間通読:エレミヤ 31、32章
「あなたがたはまたこれを知らない者を教えよ。」(25節) 
  律法学者であり祭司であるエズラがバビロンから上ってきた。不思議にも主がペルシャ王の好意を得させられたからであった。このペルシャ王の口を通して命じられていることの一つが律法を教えることであった。
私たちは、どれほど神の言葉である聖書を知っているだろうか。知らないのに知っていると思っている者も多い。またその言葉は、ただ知っていればいいものではなく、どのように実践するかが問われる言葉である。
主の御言葉を第一とし、実践する生活に変えていこう。知らなかった恵みが注がれる。
“神様。御言葉を第一として実を結ばせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月27日(土) 聖書の箇所:エズラ記 8章1〜36節/ 年間通読:エレミヤ 33〜35章
「そこでわたしは、かしこのアハワ川のほとりで断食を布告し、われわれの神の前で身をひくくし、われわれとわれわれの幼き者とわれわれのすべての貨財のために、正しい道を示されるように神に求めた」(21節) 
  これからエルサレムに向かっていくのに先立って、準備のために、アハワ川のところで断食をして、神の助けを求めた。大人の男性が1,496人、レビ人258人で女性と子供を合わせて、五千人ぐらいの数であったと思われる。神の民として証しできるように真剣に祈ったのであった。
“主よ、私たちもへりくだりと断食とをもって神に求めさせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月28日(主日) 聖書の箇所:エズラ記 9章1〜15節/ 年間通読:エレミヤ 36〜38章
「ああ,イスラエルの神、主よ、あなたは正しくいらせられます。われわれはのがれて残ること今日のとおりです。われわれはとがをもってあなたの前にあります」(15節)
  イスラエルの民は奴隷の身でありながら、ペルシャ王の目の前で神からいつくしみを与えられたにもかかわらず、雑婚をして神の戒めをまた破ってしまった。エズラは驚きあきれて、断食をもって、神の前に出て祈ったのであった。エズラは神の正しさを確認し、自分は罪を犯さなかったが、民の罪をわが罪として、「われわれはとがをもってあなたの前にあります」と祈ったのである。
“主よ,私たちもこのような真のとりなしができるようにして下さい。アーメン”
 

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2007年10月29日(月) 聖書の箇所:エズラ記10章1〜44節/ 年間通読:エレミヤ39〜42章
「エズラが神の宮の前に泣き伏して祈り,かつざんげしていた時、男、女および子供の大いなる群集がイスラエルのうちから彼のもとに集まってきた。民はいたく泣き悲しんだ」(1節)
  イスラエルの男だけでなく、女も、また、子供までもがエズラの泣き伏す祈りに集まってきて、その祈りを共に我が祈りとし、「立ち上がって下さい。このことはあなたの仕事です。われわれはあなたを助けます。心を強くしてこれを行ないなさい」(4節)と励ましたのであった。
難問であったが、それを実行に移したのであった。
“主よ、あなたの御言葉に従って、痛みが伴なう聖別に耐えさせて下さい。アーメン”
 

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2007年10月30日(火) 聖書の箇所:ネヘミヤ記1章1〜11節/ 年間通読:エレミヤ 43〜46章
 「すわって泣き、数日のあいだ嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈って言った」(4、5節)
  ネヘミヤがユダから来た者たちに、「エルサレムにいるユダヤ人は大いなる悩みとはずかしめの中にあり、城壁は崩され門は焼かれたままである」と聞いた時のネヘミヤの態度が上記の御言葉である。そして、彼は、とりなしの祈りをしたのであった。「われわれはあなたに対して大いに悪いことを行い」(7節)と、イスラエル人の罪を自分の罪として、とりなしているのである。
そして、神の恵みと王のあわれみを祈っているのである。
“主よ、同胞の為に,このような祈りをお与え下さい。アーメン”
 

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2007年10月31日(水) 聖書の箇所:ネヘミヤ記2章1〜19節/ 年間通読:エレミヤ 47、48章
「わたしの神が良くわたしを助けられたので、王はわたしの願いを許された」。(8節b)
  ネヘミヤの祈りは聞かれて、王の許しを得、王から特別に軍の長と騎兵をつかわしてもらった。彼はまず反対派に気づかれないように、夜のうちに調査をし、仲間に語ったのである。
そしていざ取り掛かろうとしたら、「何をするのか,王に反逆しようとするのか」と言って(19節)、邪魔が入ったが、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである」(20節)と言って、反対する人たちを退けたのであった。
“主よ、御業を妨げる者を退けさせて下さい。アーメン”
 

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