デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年11月のデボーション
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2007年11月1日(木) 聖書の箇所:ネヘミヤ記3章1〜32節/ 年間通読:エレミヤ 49、50章
「馬の門から上の方は祭司たちが、おのおの自分の家と向かい合っている所を修理した」(28節)。
  城壁の修理には大祭司、知事、金細工人や商人も、また、ここにあるように、祭司もそれを分担したのであった。あらゆる階層の人や、あらゆる仕事及びあらゆる地位の人々が手分けし、修理箇所をそれぞれ決めて、これにあたったのである。
教会もあらゆる人が、その賜物を生かして、一体となり、一致して、分担して、教会を建て上げ、その破れを繕う事にあたるべきなのである。
“主よ、われわれの教会もこのようにして、破れが繕われ、また建て上げられるように。アーメン”
 

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2007年11月2日(金) 聖書の箇所:ネヘミヤ記4章1〜23節/ 年間通読:エレミヤ 51章
「そして、わたしも,わたしの兄弟たちも,わたしを護衛する人々も、われわれのうちひとりも、その衣を脱がず,おのおの手に武器を執っていた」(23節)
  城壁の高さが半ばまで達した時、敵は相計り、激しく攻撃をしてきたのであった。彼らは、すきを狙って入り込んで、工事をするものを殺そうとし、また、敵の近くにいるユダヤ人は滅ぼされると恐れたのであった。そこで、半数は工事をし,半数は武装して守り,荷を運ぶものは片手で工事し,片手で武器を執ったのであった。
“主よ、御業の為に,わたくしたちも真剣な取り組みをさせて下さい。アーメン”
 

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2007年11月3日(土) 聖書の箇所:ネヘミヤ記5章 1〜19節
年間通読:エレミヤ 52章、ピレモン
「わたしは彼らの叫びと、これらの言葉を聞いて大いに怒った。」(6節)
  城壁修復の途中で大きな問題が表面化してきた。構造的な貧困である。ごく少数の裕福なユダヤ人らが貧しい同胞に農地を担保に金を貸し、支払不能の場合は土地を搾取し、彼らを農奴にするという無慈悲な行為により、貧困層のユダヤ人の生活は破綻していた。苦しむユダヤ人らからの必死の訴えを聞いたネヘミヤはこの不義に対して怒る。ネヘミヤがこの経済的悪習慣にメスを入れることにより、状況が改善されていく。
主も私たちの苦しめられるのを良しとしない。愛する者を陥れるいかなるものに対して、義なる怒りを持ってその状況に介入し、主の救いを全うされる。
“正義の主の具体的な守りと救いを感謝します。アーメン”
 

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2007年11月4日(主日) 聖書の箇所:ネヘミヤ記6章1〜19節 / 年間通読:哀歌 1、2章
「われわれの敵が皆これを聞いた時、われわれの周囲の異邦人はみな恐れ、大いに面目を失った。彼らはこの工事が、われわれの神の助けによって成就したことを悟ったからである。」(16節)
  城壁の再建には多大な労力が伴うものだったが、それと同時にさまざまな妨害、内面的な問題との戦いの連続でもあった。それでも主は城壁の再建を完成させてくださった。
私達も大小さまざまな問題に直面する。気力を失い、萎えてしまう時があるかもしれない。しかし、ネヘミヤのごとく、力強い祈りを持って、神にある確信に満たされ、直面する問題に当たっていきたい。問題を越えて私達のビジョンと使命を全うしてくださるのは主である。
“負と思える状況を乗り越え、物事を全うしてくださる主に感謝!アーメン”
 

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2007年11月5日(月) 聖書の箇所:ネヘミヤ記7章1〜72節/ 年間通読:哀歌 3〜 5章
「バビロンの王ネブカデネザルが捕え移した捕囚のうち、ゆるされてエルサレムおよびユダに上り、おのおの自分の町に帰ったこの州の人々は次のとおりである」(6節)
  門にとびらがつけられ、城壁が完成した。ユダヤ人のエルサレムへの移住政策のための系図を編纂する過程の中で、ネヘミヤはバビロンの捕囚から解かれたユダヤ人たちの系図を発見した。
私達はバビロンという国には捕縛されてはいない。しかし罪、罪から来る“壊れ”の中に閉じ込められていたものであったが、主の血潮が私達を解放し、真の自由人としてくださっている。罪からの捕縛から解放された者の主にある名簿の中に確かに私たちの名も連ねられている。
“主の血潮による解放にハレルヤ!アーメン”
 

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2007年11月6日(火) 聖書の箇所:ネヘミヤ記8章1〜18節/ 年間通読:ヘブル 1〜 4章
「捕囚から帰って来た会衆は皆仮庵を造って、仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの日からこの日まで、イスラエルの人々はこのように行ったことがなかった。それでその喜びは非常に大きかった。」(17節)
  エズラによる律法朗読、仮庵の祭りによって信仰共同体としてのイスラエルが再出発する。仮庵の祭りはエジプトからの脱出時に幕屋に寝泊りし、礼拝をささげていたことにちなんだ祭りである。エジプトから主が民たちを救い出してくださったように捕囚からも救出してくださった、という大きな喜び、感動と感謝に包まれた格別な祭りであった。
礼拝ごと、祈りごとに歴史を通して救出してくださった主が、私達をも暗黒の罪の世から救出してくださったことを覚え、感謝しよう!
“主の救出の業に感謝!アーメン”
 

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2007年11月7日(水) 聖書の箇所:ネヘミヤ記9章1〜38節/ 年間通読:ヘブル 5〜 8章
「しかしあなたは大いなるあわれみによって彼らを絶やさず、また彼らを捨てられませんでした。あなたは恵みあり、あわれみある神でいらせられるからです。」(31節)
  仮庵の祭りが終わって2日後、民たちは再び集まった。徹底的な悔い改めの為だ。神の祝福を受けるべき民が、異国の捕囚の民となってしまったその原因は民たちの神への反逆、不信仰、不誠実の故だと告白する。
主は義なる神であり、悪をさばかれる神だ。しかし、同時に恵みと、あわれみの神でもある。私たちの罪のためにさばかれ、究極的な罰を受けられたイエスに具現化された神のあわれみの極みを見る。私達が滅びうせなかったのはこのイエスにある神のあわれみによることを今日も覚えよう。
“主のあわれみの故に感謝!アーメン”
 

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2007年11月8日(木) 聖書の箇所:ネヘミヤ記10章1〜39節/ 年間通読:ヘブル 9〜 11章
「神の律法に歩み、われわれの主、主のすべての戒めと、おきてと、定めとを守り行うために、・・・」(29節)
  主への再献身を期して祭司、レビ人を中心に、主にある盟約が取り決められた。まず第1の盟約は雑婚の禁止である。これはエズラ、ネヘミヤが取り組んだ最も重要な課題であった。雑婚を通して、異教の偶像が、霊的堕落が内面に入り込み、そうした汚れが心の内を支配し、やがて霊的な死を迎える。ここに雑婚の恐ろしさがある。世の腐敗は凄まじい。
私達は社会から離れてはいけないが、社会の腐敗に染まってはいけない。今日も主イエスの血潮を仰ぎ、霊的な雑婚から私達の心を守っていただこう。
“あなたの血潮により心をきよめ、刷新し、あらゆる悪から心をお守り下さい。アーメン”
 

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2007年11月9日(金) 聖書の箇所:ネヘミヤ記11章1〜36節
年間通読:ヘブル 12、13章、エゼキエル1章
「民のつかさたちはエルサレムに住み、その他の民はくじを引いて、十人のうちからひとりずつを、聖都エルサレムに来て住ませ、九人を他の町々に住ませた。」(1節)
  エルサレム及び、他の町々に住むもののリストである。民の移住が次々と行われ、それぞれの部族に居住区とその役割が与えられていく。信仰に根ざしてそれぞれの役割、使命を認識し全うすることで、はじめて信仰の共同体としてのエルサレムが再建される。
教会も、クリスチャンの交わりも信仰を土台とした使命の認識とその遂行によって、はじめて存在しえる。そこには世の企業、慈善団体等とは違う神の法則がある。
“主よ、あなたの恵みの共同体にあらゆる面で参与させてください。アーメン”
 

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2007年11月10日(土) 聖書の箇所:ネヘミヤ記12章1〜47節
年間通読:エゼキエル 2〜 5章
「神が彼らを大いに喜び楽しませられたからである。女子供までも喜んだ。」(43節)
  「城壁の落成式」(27節)についてである。ユダヤの人々は、「感謝と、歌と、シンバルと、竪琴と、琴とをもって喜んで」この落成式をした。この城壁ができるまでには、様々な反対や圧力があり、策略や攻撃のうわさがあった。中断しそうになったこともあった。神の助けによって、ついに完成することができた。それだけに喜びは大きかった。
私たちの信仰も、救われてからも様々な誘惑や罠、苦しみや試練も起きてくる。だが、私たちのために惜しみなく命を献げられた主の助けによって、信仰の完成の時を喜ぶことができる。
“父よ。信仰の完成を目指します。アーメン”
 

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2007年11月11日(主日) 聖書の箇所:ネヘミヤ記13章1〜31節
年間通読:エゼキエル6〜 9章
「あなたがたはなぜこの悪事を行って、安息日を汚すのか。」(17節)
  捕囚から帰ってきた民の課題は雑婚と安息日の聖別であった。これらは霊的腐敗さらに、死へと至らしめる。主を喜んだエルサレムの民は、いつの間にか、安息日に商売と買い物に心が向って時を聖別出来なくなっていた。今も主日(日曜日)の主は神様である。
私たちを救われた主を第一とし、主日を聖別し、主の前に礼拝すべき時である。無理なときは早朝礼拝や夕拝に行こう。そして主の愛を人々に表していこう。なるべく主日の仕事はさけたい。また買い物もなるべく控えたい。
“神様。主日を聖別すること、心から主を礼拝し、主を喜ぶことを教えて下さい。アーメン”
 

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2007年11月12日(月) 聖書の箇所:エステル記1章1〜22節
年間通読:エゼキエル10〜13章
「その美しさを民らと大臣たちに見せるためであった。」(11節) 
  上記の言葉は王が王妃を呼んだ理由である。王妃が召しを断ったので大問題となった。クリスチャンにとっても未信者にとっても夫婦の関係は最も基本的な人間関係である。
聖書は唯一無二の存在として妻を愛し、夫を敬うように教えている。配偶者は自分の欲を満たすためでもなく、また自分に仕えるための存在でもない。偶像であってもならない。しかしこの関係は主を真ん中におかなければ成り立たせることはできない。また夫婦はキリストと教会の関係を表していると言われる。
“主よ。最も近い隣人を、主の愛に生かされて、愛せますように。アーメン”
 

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2007年11月13日(火) 聖書の箇所:エステル記2章1〜23節
年間通読:エゼキエル14〜16章
「エステルはモルデカイの言葉に従うこと、彼に養い育てられた時と少しも変らなかった。」(20節)
  モルデカイは、エステルをユダヤ人として養い育てた。それは生ける神様を恐れ、神様の言葉に従い、神様の約束を信じることであった。祝福の選びを忘れ、異教の地で同化していったユダヤ人も少なくない。
私たちは異教の地において不思議に主の救いに導かれた。その祝福と主の再臨の約束を忘れて、俗化してはならい。むしろ信仰を子供達に継承していかなければならない。それは至難の業である。しかし捕囚の民に、異教の地にあっても「神は生きている」ということを主ご自身が証された。
“神様。ここにも主がおられることを感謝します。アーメン”
 

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2007年11月14日(水) 聖書の箇所:エステル記3章1〜15節
年間通読:エゼキエル17〜19章
「その法律は他のすべての民のものと異なり、」(8節) 
  イスラエルの法律すなわち神様の言葉は、この地上のどんな法律とも異なっていた。そのことは主イエス・キリストが来られてますます顕著になっている。ローマの支配者達も不思議に思った。この世の法律に逆らうわけでもなく、地上での権力や財産を求めるわけでもなく、反対されても、迫害されても、柔和で確実に浸透していった。まさに天の民である。
私たちも同じ天の民である。そしてまた天の民は、日、星、方角、色など占いによっての吉兆を問うのでもない。ただ主の無限の愛と最善を信じて一日一日歩むのである。
“神様。主を見上げ立ちあがります。アーメン”
 

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2007年11月15日(木) 聖書の箇所:エステル記4章1〜17節
年間通読:エゼキエル20、21章
「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます。」(16節)
  ユダヤ人が根絶される恐ろしい法が発布された。皆が恐れとまどった。その中でのエステルの決心である。王に許されなければ命がない。願いが聞かれればまだよいが、全く聞かれないで犬死にかもしれない。皆に断食の祈りを頼んだ。
主イエスは、誰も信じなければ犬死にともなる十字架の死を選んで下さった。一人でも救われるためである。
この主の救いに与った私たち。主が行ってほしいと言われるところへは、喜んでどこへでも行きたい。主の命令にはどんなことでも従いたい。そしてそれは決して無駄にはならない。
 “主よ。どこまでも従いたいです。アーメン”
 

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2007年11月16日(金) 聖書の箇所:エステル記5章1〜14節
年間通読:エゼキエル22〜24章
「彼女に恵みを示し、その手にある金の笏(しゃく)をエステルの方に伸ばしたので、エステルは進みよってその笏の頭にさわった。」(2節) 
  死を賭して王の庭に入ったエステルに救いの金の笏が伸べられた。
私たちは、聖にして義なる神の前には死ぬほかない存在である。しかし神は私たちの罪のあがないとして御子イエスを十字架に付けられた。これによって私たちは神の前に生きるものとされた。ただこの恵みに与るには、主の前にへりくだり、悔い改めて信じる必要がある。エステルが金の笏の頭にさわったのと同じである。
“神様。滅びから命に移す救いの恵みを感謝します。アーメン”
 

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2007年11月17日(土) 聖書の箇所:エステル記6章1〜14節
年間通読:エゼキエル25〜27章
「あのモルデカイ,すなわちあなたがその人の前に敗れ始めたものが,もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない」(13節) 
  ここでは、神の民であるユダヤ人に対する特別な神の守りと助けとが言われている。これをユダヤ人に敵対する者たちが言ったということはその事を見聞きしていたという事と言える。
そして、新約の時代においては、ユダヤ人の代わりにクリスチャンと置き換えて、言うことができるが、クリスチャンはキリストによって神の子とされ、その勝利の中にいるのだから、それ以上である。
“主よ、あなたが私たちに勝利を与えくださる事を感謝します。アーメン”
 

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2007年11月18日(主日) 聖書の箇所:エステル記7章1〜10節
年間通読:エゼキエル28〜30章
「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもし良しとされるならば、」(3節)
  エステルは妻でありながら夫である王の前にへりくだりをもって、お願いをした。続いて、王にユダヤ人が滅ぼされ、殺され、絶やされようとしている事を告げ、又、王の問いに答えて、それをたくらんだのがハマンである事をも王に告げた。
 それに対して、王は怒り、ハマンはモルデカイを掛けるために自分が立てさせた木に掛けられて、死んだのであった。自分で墓穴を掘るとは正にこういうことである。私たちの敵に対しての勝利がここにある。
“主よ,へりくだりをもってあなたの前に出させて下さい。アーメン”
 

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2007年11月19日(月) 聖書の箇所:エステル記8章1〜17節
年間通読:エゼキエル31〜33章
「ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉れがあった」(16節)
  何よりも重要な事は、ハマンが王の印を押して、ユダヤ人を滅ぼそうとして送った文書を取り消す事であった。それを、エステルは再び命を掛けて、王にお願いした。すると、王はエステルとモルデカイに「あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書を作り、王の指輪をもってそれに印を押すがよい」と言われ、早速それを実行した。喜びの声があがり、多くの改宗したユダヤ人となっていた者が、自分がユダヤ人であることを明らかにした。
“主よ、あなたの絶大な助けを命がけで求めさせて下さい。アーメン”
 

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2007年11月20日(火) 聖書の箇所:エステル記9章1〜32節
年間通読:エゼキエル34〜36章
「この両日にその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変った」(22節)
  プリム(プル<くじの意>複数)の由来が記されている。ユダヤ人絶滅の危機が神の恵みによって、またエステルの命がけの信仰とモルデカイの巧みな助言により、ユダヤ人の勝利となり、平安と喜びに変ったのであった。それを祝うのが、プリムである。
ここに神の御手の御業を見ることができるのである。
“主よ、あなたの救いのみ業を感謝させて下さり、お祝いさせて下さい。アーメン”
 

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2007年11月21日(水) 聖書の箇所:エステル記10章1〜3節
年間通読:エゼキエル37〜39章
「ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである」(3節) 
  モルデカイが大いなる者となり、多くの兄弟に喜ばれるようになった秘訣がここにある。それはその民の幸福を求め、全ての国民の平和を述べることであった。このようなものを神は引き上げ、祝福し、用いなさるのである。今もクリスチャンがこうある時豊かな祝福に与かるのである。
“主よ、あなたにあって、モルデカイのようにならせて下さい。アーメン”
 

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2007年11月22日(木) 聖書の箇所:ヨブ記1章1〜22節/ 年間通読:エゼキエル40〜42章
「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(21節)
  今日からヨブ記である。ヨブ記のテーマは「正しい人が何故苦しまなければならないのか」ということである。ヨブは族長時代(アブラハムからヤコブ)の人と言われている。しかし文書か口伝によって受けつがれ、現在の文書になったのはもっと後代と言われている。ヨブは物質的な祝福や家族を奪い取られても、与え、また取り去られる神を信じ続けたのであった。ヨブは最初の試練に打ち勝ったのである。私たちも本物の信仰が問われる時が来るのである。
“主よ、試みに耐えうる本物の信仰をお与え下さい。アーメン”
 

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2007年11月23日(金) 聖書の箇所:ヨブ記2章1〜13節 / 年間通読:エゼキエル43〜45章
「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(10節)
  サタンは神に逆らい神に訴えるものであるが、神のみ手の中にあるのである。だから、どんな試みも神の許しを飛び越えることはない。ここにおいてもサタンは神の許可の範囲でヨブを撃ち、足の裏から頭の頂きまで、いやな腫物をもって、悩ましたのであった。その中でヨブが語ったのが上の御言葉である。ここでも唇をもっては罪を犯さなかったのである。そこに三人の友だちが慰めようと思って、はるばるやって来たのである。
“主よ、災いを受けても、罪を犯さないようにして下さい。アーメン”
 

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2007年11月24日(土) 聖書の箇所:ヨブ記3章1〜26節/ 年間通読:エゼキエル46〜48章
「なにゆえ、悩む者に光を賜い、心の苦しむ者に命を賜わったのか」(20節)
  七日七夜の沈黙の後、苦しみのあまりヨブは自分の生まれた日を呪った。生まれてこない方が良かった、死んだ方がどれほど楽かと思われる苦しみであった。しかしサタンは、神に許された範囲を越えては手を出すことができない(2章6節)。ここにサタンの限界がある。そして救われた者つまり主の弟子達は、信仰が様々な試練で試されるが、それによって不純物(不信仰)が取り除かれ、火で精錬される金よりもはるかに尊いものとされるのである(第一ペテロ1:6,7参照)。ヨブはなお神を呪わなかった。
“父よ。試練の中で死を打ち破られた主を仰がせて下さい。アーメン”
 

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2007年11月25日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記4章1〜21節/ 年間通読:ヤコブ 1〜 4章
「あなたが神を恐れていることは、あなたのよりどころではないか」(6節)
  ヨブの友人エリパズの答え。なぜ神様はヨブがサタンの災いに遭うことを許されたのか、本当の信仰をもっているかどうかを試すことを許したからである(ヨブ1:9〜11)。また私たちも災いに遭うことがある。それでも私たちが神様を信じ恐れていることは、私たちの生きる根拠である。主イエスは、この世は私たちを憎む前に、主を憎んだ(ヨハネ15:18)と言われる。
聖書は、私たちがこの世にあって主のものとして生きるとき、苦しみに会うことは、必然のこととしている。それと同時に、私たちが持っている主にある喜びと平安は誰も奪うことのできないものである(ヨハネ16:22,33)。
“主よ。いつも共に歩ませて下さい。アーメン”
 

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2007年11月26日(月) 聖書の箇所:ヨブ記5章1〜27節
年間通読:ヤコブ5章、ダニエル 1、2章
「彼は大いなる事をされるかたで、測り知れない、その不思議なみわざは数えがたい」(9節)
  エリパズの答えの続きである。神様は大いなるお方である。私たちが、空の大きさ、夜の星を見るとき、また多くの自然の中にはぐくまれる生命を見るときに、その不思議さに心を奪われる。その偉大なお方がなぜこのように小さな私に目を注いでいるのかと思うと、主の思いの測りがたさに気の遠くなるような感じがする。しかしこの友人エリパズの言葉は間違いではないが、苦しみ悶えているヨブを納得させるものではないのである。
“父よ。あなたの大いなること、不思議、永遠、無限なることに心を留めると同時に、
 この世の現実を正しく見させて下さい。アーメン”
 

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2007年11月27日(火) 聖書の箇所:ヨブ記 6章1〜30節/ 年間通読:ダニエル 3、4章
「わたしにどんな終りがあるので、なお耐え忍ばねばならないのか」(11節)
  ヨブは「わたしは聖なる者の言葉を否んだことがない」(10節)と言い切るほどに神を恐れ、正しく歩み、またそうしようとしていた人であった。それはヨブの確信であった。それなのにどうしてこんな苦しみにあわなければならないのかというのが、ヨブの悩みであった。
しかし友人エリパズは、慰め励ますために来たのに、ヨブに対しては何の慰めも希望も与えるものではなかった。
“神様。絶望の底にある人に慰めと望みを与えるものとして下さい。アーメン”
 

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2007年11月28日(水) 聖書の箇所:ヨブ記 7章1〜21節 / 年間通読:ダニエル 5、6章
「朝ごとに、これを尋ね、絶え間なく、これを試みられるのか」(18節)
  アダムとエバが神様の命令を破り、善悪を知る木の実を食べたとき、神の顔を避ける者となった(創世記3:8)。これは神に逆らい、罪ある者となったので、義なる神様の前に立てなくなったことを意味している。
ヨブは正しく歩み、自分の義を主張していた。それにもかかわらず、少しでも神様が自分から顔をそむけ、苦しみが和らぐことを求めた。それほどに、神様の訪れと顧みは、ヨブには、苦しみを増すことであった。ここにヨブの苦しみの大きさを伺い知ることができる。
“神様。いつまで苦しみが続くかわかりません。その中で主の解決に気づかせて下さい。アーメン”
 

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2007年11月29日(木) 聖書の箇所:ヨブ記8章1〜22節/ 年間通読:ダニエル 7、8章
「見よ、神は全き人を捨てられない。」(20節)
  ヨブの友人ビルダデの言葉が記されている。神は正しいお方であるから、ヨブが家族を失い、財産を失い、健康を失って災いに遭うのは、ヨブか家族に罪があるからにちがいないと主張している。
私たちも神様に、公平と正義を求める。正しく生きようとする。しかし苦しみや災いに遭う。矛盾を感じる。同時に、正しくあり得ない自分の姿に気づく。全き人ではなり得ない。しかし私たちの主キリストにより、全き人と見なされ、災いが「神のみわざ」(ヨハネ9:3)に変えられている。
“主よ。こんな汚れた者に、キリストによって神のみわざ現されることを感謝します。アーメン”
 

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2007年11月30日(金) 聖書の箇所:ヨブ記9章1〜35節/ 年間通読:ダニエル 9、10章
「たといわたしは正しくても答えることができない」(15節)
  ヨブは、友人ビルダデに答えている。その主張の一つは、神は、正しいお方であり、絶対的な主権者であるということである。この神様の前に、人は何かを言うことのできる存在ではないということを認めている。もう一つの主張は、自分は、正しい者であって、罪を犯したことはないということである。
その中で、彼は友人から、神に向けて、「あなたが私を罪なき者とされないことを私は知っているからだ」(28b)と語り、仲裁者がいないことを訴えている。しかしキリストが神と私たちの仲保者となってくださった(第1テモテ2:5)。
“神様。キリストにある神の義を持つ者として下さい。アーメン”
 

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