デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2007年12月のデボーション
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2007年12月1日(土) 聖書の箇所:ヨブ記10章1〜22節/ 年間通読:ダニエル 11、12章
「あなたは肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた」(12節)
  ヨブの神への嘆願の祈りである。苦悩の中にあってヨブは神が人を愛と慈しみの御手で創造され、これまでの生涯がこの神の命といつくしみに溢れたものであったことを思い返しつつ、切実な訴えを行う。
いかなる状況においても、神の命の供給が滞るということはありえない。また苦難の過程の中に、いつくしみの神のそのご性質が分離しているかに思わせるような結末は決してない。神の命といつくしみがいつも私達を包んでいる。
“全生涯にわたるイエス様にある神の命といつくしみの注ぎを感謝します。アーメン”
 

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2007年12月2日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記11章1〜20節 / 年間通読:第1ペテロ 1〜4章
「あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか」(7節)
  ヨブの友人、ナアマ人ゾパルの返答である。彼も他の友人と同様、因果応報の神学を持ち出す。苦難の背景には必ず罪があると独善的に決めつけつつ、ヨブの罪を見抜き、確実に裁きの業をなす神の偉大さを語るのだ。
しかし、罪に妥協できない神が私たちの救いのために自らのひとり子を犠牲にして究極の愛を、深遠なる神の恵みをゾパルは知る由もない。ひとり子を犠牲にしてまで私達を救い出そうとした神が苦難の中にも深い配慮と人知を越える愛を持って支え導かれることを信じよう。
“すべてのことに意図と配慮を持って導かれる主に感謝。アーメン”
 

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2007年12月3日(月) 聖書の箇所:ヨブ記12章1〜25節
「すべての生き物の命、およびすべての人の息は彼の手のうちにある」(13節)
  3人の友人らが一通り語ったところで今度はヨブの反論が14章まで続く。因果応報の思想の中でしか語らない友人らの短絡的な批判に対して痛烈な批判をもって論破していく。この世の思想のうちに神を閉じ込めることはできないし、ましてや神を捉えることはできない。すべてのことにおける主権は主の手にある。その主権の領域は私達が理解できないさまざまな現象、出来事を含む文字通り、すべてである。
私達の知覚できる領域は実に狭い。だからこそ信仰の目を通してすべてを司る神を見つめ、さまざまに起こる現象を捉え続ける歩みが不可欠となる。
“主権在神、ハレルヤ!アーメン”
 

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2007年12月4日(火) 聖書の箇所:ヨブ記13章1〜28節
「なにゆえ、あなたはみ顔をかくし、わたしをあなたの敵とされるのか」(24節)
  ヨブの飾りのない本心からの神への訴えである。神の前に真実に、誠実に、力いっぱい歩んできたからこその訴えである。
私達はどうだろうか。神と私達においてその関係が中途半端なものであるなら不遇の身となろうとも喜びに包まれても神への心からの訴えも出てこなければ、溢れる感謝も賛美も出てこない。神に力一杯、訴えることができるほど、自らの思いを吐露できるほど、日々全力で仕え、交わり、神の前に誠実で清い歩みをさせていただきたい。
“主よ、真実なあなたと真実な関係を築かせてください。アーメン”
 

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2007年12月5日(水) 聖書の箇所:ヨブ記14章1〜21節
「あなたがお呼びになるとき、わたしは答えるでしょう。あなたはみ手のわざを顧みられるでしょう。」(15節)
  人のはかなさについてヨブは語る。よみでもいいから逃避して神の怒りが収まるまで隠れていたいとヨブは本心を打ち明ける(13〜14)。そんな切羽詰った状態の中においてもヨブにとって神は厳しい、無慈悲な裁き主ではなく呼べば答えるという深いきずなでつなぎ合わされ、手の業(創造されたもの)をこよなく愛し慕っておられる愛の神なのだ。
いかなる状況においても一環として創られたものを、私達を愛し、慕ってやまない我らの主の愛を忘れてはいけない。
“あなたの守り、支え、配慮、導きを感謝!アーメン”
 

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2007年12月6日(木) 聖書の箇所:ヨブ記15章1〜35節
「神の慰めおよびあなたに対するやさしい言葉も、あなたにとって、あまりに小さいというのか」(11節)
  ヨブに対するエリパズの第2回目の反論である。第1回目の時よりも激しく厳しい口調でヨブを攻め立てる。苦しむ中にも神に信頼をおく、ヨブの言葉の裏にある真の信仰をエリパズは見抜けない。
苦難の中においては聖霊なる神が私達を慰め、励まし、勇気を与えてくださる。将来のビジョンを示し、心のうちに希望を示し、苦難に負けない、力強い歩みをさせてくださる。この聖霊に満たされ続けていく生活が苦難に、誘惑に負けない勝利ある人生の鍵である。
“聖霊様、あなたの励ましと慰めにより私を引き上げてください。アーメン”
 

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2007年12月7日(金) 聖書の箇所:ヨブ記16章1〜22節
「見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある」(19節) 
  友人の非難に、あざけりの中でヨブは自分の潔白を証明し、保障してくれる神に期待し、改めて信頼を置いていく。
サタンは鋭く私達の罪を責め立てる。過去の罪を思い返させ、しつこく私達を攻撃する。しかしキリストこそは私達の最良の弁護人となり、“この者は私の血潮で贖われたものです。”と神に向かって宣言し、私達のキリストの血潮による贖いの保証に自らなってくださる。そして私達のうちには“赦されたんだ!”という確証を与えて、心を守ってくださるのだ。
“主にある全き贖いとその保証を感謝!!アーメン”
 

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2007年12月8日(土) 聖書の箇所:ヨブ記17章1〜16節
「どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために保証となってくれる者があろうか」(3節)
  苦しみの中で、友人たちはヨブをあざけり、また、侮ってしまった。それも神がそうさせたのであると彼は悟った(4)のである。そのような中で、彼に死ぬ事が間近に迫り、彼は死んで墓穴に葬られ、その死体に群がるうじを家族にする以外にないという全くの絶望の中に追いやられたのである。しかし、神御自身が保証になって下さるように祈り始めたのである。彼は証人を天に(16:19)求めたのであった。
“主よ、どんな中にも、あなたに目を向けさせて下さい。アーメン”
 

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2007年12月9日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記18章1〜21節
「まことに、悪しき者のすまいはこのようであり、神を知らない者の所はこのようである」。(21節)
  ビルダデの2回目の論述である。彼はまず、ヨブが自分が罪人であることを悟るようにと話しかけたのであった。彼は悪しき者は衰えていき、災いが来て、その人の思い出も名前も忘れ去られ、その子孫もいなくなると主張するのであった。このようなビルダデの言葉は、悩み苦しむヨブにとっては、苦しみに苦しみを加えるようなものであった。私たちも、苦しんでいる人とともに苦しまないで、このような審きをしてしないように、気をつけなければならない。
“主よ,愛によって、苦しむものと共に苦しむものとして下さい。アーメン”
 

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2007年12月10日(月) 聖書の箇所:ヨブ記19章1〜29節/ 年間通読:アモス 1〜4章
「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」。(25節) 
  ヨブは友人たちに反論をし、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』 (6)と不幸の原因が分からないが、神にあることを主張している。彼の将来は暗黒で、兄弟たちから離れ、知人たちとは疎遠になり、親類と友人たちから見捨てられ、家にいるものからは他人扱いされ、僕は応えず、息子が妻に厭われ、童に侮られ、やせ細ってしまった。その中で、自分を贖って下さるお方(イエス・キリスト)を見いだすのであった。
“主よ、贖うお方を感謝します。アーメン”
 

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2007年12月11日(火) 聖書の箇所:ヨブ記20章1〜29節/ 年間通読:アモス 5〜7章
「悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、神を信じない者の楽しみはただつかのまであることを」(5節)
  ゾバルの2回目の論述である。彼はヨブを、他の友人と同じく、悪しき者、神を信じない者として、論を進めているのである。ここで私たちは人を励ますと言うことはどういうことであるかを知るのである。
上記の言葉は間違いではないが、この時のヨブに対しては、当てはまらない事であった。なぜなら、彼は、罪の故に、苦しみにあっているのではなく、信仰が試されているからである。
“主よ、信仰が試されている方を、真に励ます心をお与え下さり、言葉を教えて下さい。アーメン”
 

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2007年12月12日(水) 聖書の箇所:ヨブ記21章1〜34節
年間通読:アモス 8,9章、オバデヤ
「すなわち、災の日に悪人は免れ、激しい怒りの日に彼は救い出される。
だれが彼に向かって、その道を告げ知らせる者があるか、だれが彼のした事を彼に報いる者があるか。」(30,31節)
  ヨブは友人たちが因果応報説に立って、攻撃して、ヨブを罪ある悪しき者と決めつけていることに対して、悪人でも繁栄の中におかれ、正しい人でも何の幸いを得ないで死んでいく人もあると語っている。そして、このような虚しい因果応報説でヨブを慰めようとする事の間違いを指摘する。
“主よ、神の前に正しく、問題や課題を捉えさせて下さり、正しく対応させて下さい。アーメン”
 

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2007年12月13日(木) 聖書の箇所:ヨブ記22章1〜30節/ 年間通読:ヨナ 1〜4章
「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」(21節)
  エリパズの第3回目の論述である。彼は相変らず因果応報説をもって、ヨブを攻めている。その中で、語られたのが上記の言葉である。これは神から離れ、神を第一としないで、また、神の前に傲慢なものに対してはその通りであると言える。
しかし、ヨブに対しては、全く当てはまらないのである。彼については、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(ヨブ1:1)とあるからである。
“イエス・キリストによって、神と人とに対して真の和解を得させて下さい。アーメン”
 

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2007年12月14日(金) 聖書の箇所:ヨブ記23章1〜17節
年間通読:第2ヨハネ 、ミカ 1〜3章
「しかし、彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう」(10節)
ヨブの嘆きと反論が述べられる。また同時に、上記のような彼の確信も語られる。どんなに熱心に、神を求めても会う事ができない。だから神がおられないのではない。神は必ずおられるのである。神は私に目を留め、知っていて下さるのである。
ヨブは、試みの中で、より純化され、聖められたものとして、神の御前に立つものとなるという確信をもっていたのであった。 
“主よ、私たちも、キリストの血による全き聖めを得させて下さい。アーメン”
 

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2007年12月15日(土) 聖書の箇所:ヨブ記24章1〜25節/ 年間通読:ミカ 4〜7章
「なにゆえ、全能者はさばきの時を定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。」(1節)
  神を知る者たちが、なぜ神の正しいさばきが行われるのを見ることができないのか、というのがヨブの訴えである。
確かに悪しき者がかえって長生きをしたり、この世の幸せを謳歌しているように見える。世の中に悪は確かに存在するが、簡単に因果応報思想によって悪は滅び、正は生きるなどとは割り切れない複雑なもので一杯だ。たしかにさばきはある。しかし神は悪しき者たちへのさばきを留め忍耐し、彼らの悔い改めを待っておられる愛なるお方でもある。
“あなたの忍耐、尽きない愛、不思議な救いの御業を感謝します。アーメン”
 

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2007年12月16日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記25章1〜6節
 年間通読:第3ヨハネ、ナホム 1〜3章
「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。」(2節)
  ビルダテの3回目の論述である。神の絶対主権を語るが、悪とのかかわりは述べられていない。3人の友人たちの論述はここで終わるが、なぜ悪がはびこり、正しいものが苦しむのか、ということに対し、なんらヨブを納得させるような、思慮深い応答を提示することはできなかった。
 イエスにあってすべてのものを造られた(ヨハネ1:1〜2)お方が絶対主権をもってこの世を治め、いかなるなかにあっても主にある者らに対しては最善をなし給うことを信じよう。
“主よ、あなたの御手の中に私の存在、人生、未来があることを感謝します。アーメン”
 

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2007年12月17日(月) 聖書の箇所:ヨブ記 26章1〜14節/ 年間通読:ハバクク 1〜3章
「見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。われわれが彼について聞く所はいかにかすかなささやきであろう。しかし、その力のとどろきに至っては、だれが悟ることができるか」(14節)
  友人の論述に対して27章までヨブの応答が続く。人間の知恵や伝統的な思想により語るビルダテにヨブは人間の知恵のあさはかさ、無益さを語る。
私達の知恵によって神を悟り、この世の事象を捉えようとするなら、私達は神とその事象の実態と本質を知りえないどころか、完全に見失ってしまう場合がある。そこには深い謙りと神に徹底的に聞く、という姿勢が不可欠となる。
“主よ、あなたの御前に深く謙らせ、聞かせてください。アーメン”
 

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2007年12月18日(火) 聖書の箇所:ヨブ記 27章1〜23節/ 年間通読:ゼバ 1〜3章
「彼は全能者を喜ぶであろうか、常に神を呼ぶであろうか。」(10節)
  ヨブの自身の潔白の弁護を行うと同時に、友人たちの因果応報思想に基づく偽善的な信仰を批判する。人間的な応報説によって物事を理解する限り、いかなる時においても神を喜び、信頼を置いていくという真の信仰は生まれてこない。
試練の中にあって、苦悩の中にあってもなお、神の前に静まり、謙り、信頼を置き、苦しみの祈りの中にも神の中に真の希望を主、キリストにあって見出せるものでありたい。ヨブはこの真実な信仰の姿を教えてくれている。
“主よ、いかなる時にも主に信頼を置く者としてください。アーメン”
 

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2007年12月19日(水) 聖書の箇所:ヨブ記28章1〜28節
年間通読:ユダ、ハガイ 1〜2章
「見よ、主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである。」(28節)
  真の知恵の真髄を語り、その知恵を慕うヨブの歌である。ヨブの友人たちは確かに先人たちの知恵に満ちていたかもしれない。しかしそれはあくまで人間的なもので真の知恵にはほど遠いものであった。真の知恵とはなにも難しい概念や哲学ではない。ただ、主を敬い、恐れること、主をすべてのすべてとしていくことである。
私達のまわりにも多様な価値観、現代の知恵が溢れている。しかしいつも真の知恵は何であるかを問い、そこに立ち戻り、真の知恵に踏みとどまる者でなくてはならない。
“真の知恵に基づく人生を送らせてください。アーメン”
 

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2007年12月20日(木) 聖書の箇所:ヨブ記29章1〜25節/ 年間通読:ゼカ 1〜4章
「あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。」(3節)
  ヨブの神の祝福と幸福に満ちていた平和な日々の回顧がなされている。神との関係がこの上なく親密で充実していた様子を伺える。主イエスはわれらと共に生涯を歩んでくださるお方で、イエスのほうから離れるということはありえない。
私達は苦難に会う時、主が私達のもとから去ってしまったのではないか、と疑い恐れることがある。“何故神を信じているのにこんなことが・・”と・・。しかし、主は変わらず私達を、進むべき路を照らし、ともしびとなって導き、支え続けてくださっていることを忘れてはならない。
“光なる主の導きを感謝します。アーメン”
 

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2007年12月21日(金) 聖書の箇所:ヨブ記30章1〜31節/ 年間通読:ゼカ 5〜8章
「わたしは日の光によらずに黒くなって歩き、公会の中に立って助けを呼び求める。」(28節)
  ヨブの身に起こった悲劇を嘆き、神への叫びが記されている。意気消沈し、希望も力も何もかも尽き果ててしまったという状況の中で、またさらに悲劇に悲劇が重なっていくその只中で、なおヨブは神に助けを叫び求める。
かっこよさはない。きれいではない。そこには巧みな言葉も神学もない。ただ救いの源に向かって助けを叫び求めるのだ。しかしここにこそ信仰の真髄があり、真の勝利への第一歩がある。苦難のうちに私達は決してあきらめてはならない。助けを主に向かって叫び求めようではないか。
“主よ、私を哀れみ、助け、導きください。アーメン”
 

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2007年12月22日(土) 聖書の箇所:ヨブ記31章1〜40節/ 年間通読:ゼカ 9〜12章
「わたしは、わたしの目と契約を結んだ、どうして、おとめを慕うことができようか。」(1節)
  ヨブの答弁の最後である。ヨブが、神様を恐れ、正しい歩みをしてきた真剣さがうかがわれる。いったい私たちはこれほどまでに神様の前に真剣に歩んできただろうか。私たちにとっても神様の前にも人の前にも正しく歩もうとすることは、当然かつ大切なことでありまた喜びである。
しかし人のどんな偉大な歩みも神様の前に義とするものではない。それを忘れる時、私たちの正しい歩みが、自己主張をはじめ、喜びを失い、疲れてしまう。いつも神の子とされた原点を見つつ(黙示2:4)、正しい歩みに真剣に取り組もう。
“父よ。あなたの前に真剣な歩みをさせて下さい。アーメン”
 

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2007年12月23日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記32章1〜22節
年間通読:ゼカ 13,14章、黙示1,2章
「わたしもまたわたしの分を答え、わたしの意見を述べよう。」(17節)
  第四の友人、エリフの答え。これまで黙っていたエリフが怒りを起こして(2節)ヨブに答えるところである。37章まで続いている。エリフは、三人の友人達よりもヨブの問題についての見方は深い。彼は、因果応報によってヨブを責め、ヨブを罪ありとした三人の友人とは違う苦難の教育的意義について、また神の絶対的な超越性について語るのである。
勇気をもって語ることは大切である。しかし、このエリフの場合も教義的であって、神と裸でぶつかるヨブとは異なっていた。
“主よ。私たちに神を証する真の言葉を与えて下さい。アーメン”
 

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2007年12月24日(月) 聖書の箇所:ヨブ記33章1〜33節/ 年間通読:黙示 3〜6章
「彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得た。」(24節)
  エリフは「神は人よりも大いなる方」(12節)で、ひとりの「仲保」(23節)によって、死と滅びを免れる道、救いの道が与えられることを示している。この「仲保」はヨブが言う「あがなう者」(19:25)と通じているとは言い難いが、神の前の唯一の仲保者がイエス・キリストである(第1テモテ2:5)。
私たちはこのキリストの仲介により、キリストの十字架の死によって、命の身代金を支払われ、救われた。だから私たちには「報復」がない。逆に「わたしの命は光を見ることができる」(28節)。 ハレルヤ!!
“父よ。主イエスによるあがないを感謝します。今日も命の光の中を歩めますように。アーメン”
 

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2007年12月25日(火) 聖書の箇所:ヨブ記34章1〜37節/ 年間通読:黙示 7〜10章
「まことに神は悪しき事を行われない。全能者はさばきをまげられない。」(12節)
 
  エリフの2回目の答え。この箇所には、神様の絶対的な正しさ、義、主権、そして人間のはかなさ、弱さが示されている。エリフは、ヨブの神様への言葉に対し、力強く反論している。そしてこの言葉は、三人の友人の因果応報的な言葉になってきている。エリフは「ヨブが自分の罪に、とがを加え」と言って、ヨブを罪ある者として扱っている。ここにもヨブへの同情もヨブの問題を解決しようとする愛も欠けている。
“主よ。本当に愛をもって問題の本質を見極めさせて下さい。アーメン”
 

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2007年12月26日(水) 聖書の箇所:ヨブ記35章1〜16節/ 年間通読:黙示 11〜14章
「今彼(神)が怒りをもって罰せず、罪とがを深く心にとめられないゆえにヨブは口を開いてむなしい事を述べ、無知の言葉をしげくする」。」(15、16節)
  この言葉はヨブには全く当てはまらない。しかし私たちはこのようなことをよく経験する。主は、人が悔い改めて、神様に立ち返るのを忍耐をもって待っておられるのである(第2ペテロ3:9)。
もし罪がすぐに裁かれれば、私たちもすでに滅びていたはずだ。主の深い愛を受けた私たちであるから、私たちも苦難を耐え忍び、とりなしていこう。必ず主の豊かな慈愛とあわれみとが現される(ヤコブ5:10,11)。
“慈愛の神様。御心がもっとわかり、忍耐をもってとりなせますように。アーメン”
 

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2007年12月27日(木) 聖書の箇所:ヨブ記36章1〜33節/ 年間通読:黙示 15〜18章
「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。」(15節)
  エリフの最後の答弁。「苦しみによって救い」とは、とても不可解な言葉である。私たちは、信仰を持つことによって、平安と祝福とが与えられることを願う。しかし聖書を見ると、主の前に正しく歩んでいる人が苦しみにあうことがある。しかしその苦しみを通して、それまで知り得なかった神様の深い愛や御旨を悟ることができるとは限らない。
この苦しみは神からのものであり、神の許しのもとにあることを信仰をもって受けとめるとき、また必ず主が共にいて下さることを信じるとき、神の深い愛やご自身を悟ることができるのである。
“主よ。苦しみの中にあなたが共にいて下さることを信じさせて下さい。アーメン”
 

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2007年12月28日(金) 聖書の箇所:ヨブ記37章1〜24節/ 年間通読:黙示 19〜22章
「ヨブよ、これを聞け、立って神のくすしきみわざを考えよ。」(14節)
  エリフの答弁の最後の言葉。エリフは、主の創造の御業、また自然界の中にあるいは自然界を超えて現されている神の御業を語り、全能の創造主と被造物である人とが全く違った存在であることを示している。この大自然は、神の命令を行い、私たちを懲らしめ、いつくしむためである(12,13節)。エリフの言葉は神の言葉を聞く備えをさせた面もあると言われている。
しかしエリフの言葉もヨブの「私はどうしてこんな苦難に会わなければならないのか」という問いの答えではないのである。
“神様。創造の御業、救いの御業を考え、主の目的に生きる者として下さい。アーメン”
 

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2007年12月29日(土) 聖書の箇所:ヨブ記38章1〜41節/ 年間通読:マラキ 1〜4章
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」(2節)
  38章1節から42章6節までに神の弁論とヨブの答えがそれぞれ2回ずつ出て来る。ヨブの苦難は自己に固執する事に問題の中心があった。しかし神はかえって、自己から離れて、神の前に立つことによって、問題の解決を可能にするのである。
われわれの人生における不可解な事は神の世界支配ということに対する信仰以外ないのである。世界は人知を超えた神の知恵によって創造され、そこには神の義が貫かれ、われわれは十字架にあらわれた神の義によって保証されているのである。
“主よ、神の知恵と知識の深さを悟らせて下さい。アーメン”
 

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2007年12月30日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記39章1〜30節/ 年間通読:創世記 1〜4章
「あなたは馬にその力を与えることができるか。力をもってその首を装うことができるか」(19節)
  ここでは動物の世界に見られる不思議を述べ、神の思いが、ヨブの思いを超えるものである事を示そうとする。家で飼われている動物でなく、自由が与えられ、神に養われている野生の動物に、注意を促し、人間本位のヨブの考えに反省の機会を与えようとしている。
動物の愚かさも、神がそうさせたのである。 また、人に用いられる動物でもその力は、人からでなく、神からのものである。
“主よ、神が造られた動物に目をやり、神の支配を認めさせて下さい。アーメン”
 

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2007年12月31日(月) 聖書の箇所:ヨブ記40章1〜44節/ 年間通読:創世記 5〜8章
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです」(4節)
  ここでヨブは神のあまりにも、自分を超えた、知恵と支配の故に、自分の卑しさに気が付き、何も言えなくなってしまったのである。信仰を告白する事も、神を賛美する事すらできなくなってしまったのである。
続いて、神の第2回目の弁論がなされる。ここではヨブに「神のような腕を持っているのか」と問いかける。神の全能と威厳と尊厳とが言われている。
“主よ、神の前に無に等しい事を悟らせて下さい。アーメン”
 

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