デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年1月のデボーション
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2008年1月1日(火) 聖書の箇所:ヨブ記41章1〜34節/ 年間通読:創世記 9〜12章
「あえてこれを激する勇気のある者はひとりもない。それで、だれがわたしの前に立つことができるか」(10節) 
  ヨブは 河馬や鰐と戦って勝つ望みはないし、これを被造物として自分の支配のもとにおくことはできない。 しかし神はそれができるのである。それと同じく、人間ではどうしようもなく大きな問題も、神によってそれに勝利し、神の支配のもとにおかれるのである。
このような深い愛から出る神の語りかけにより、ヨブは目覚めたのであった。
“主よ、神の大いなる力と愛を知って、目覚めさせて下さい下さい。アーメン”
 

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2008年1月2日(水) 聖書の箇所:ヨブ記42章1〜17節/ 年間通読:創世記 13〜16章
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(5節)
  神について知っていたヨブは教義ではなく、生ける神ご自身を知ったのである。ヨブは自己から解放され、神の救いに入れられる事によって初めて、神への賛美がでてきたのであった。
それからヨブは友人たちの為に、とりなしの祈りし、それが受け入れられ、彼らの愚かさを罰せられないですんだのであった。そして、神はヨブの繁栄をもとに戻しただけでなく、終わりを初めよりも多く恵まれたのであった。
“主よ、本当に生ける神御自身を知る者として下さい。アーメン”
 

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2008年1月3日(木) 聖書の箇所:詩篇1篇1〜6節/ 年間通読:創世記 17〜20章
「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」。(3節)
  このような人とはまえの1節と2節で言われている所の者である。誰でもがそのなすところがみな栄えるのではないのであるが、一つ一つ「皆」栄えるのである。全部が祝されるのである。しかし、直ぐとは限らないで、「時が来ると」そのようになるのである。
イエス・キリストに結びついた私たちもそのように皆栄える者にされているのである。
“主よ、キリストにしっかりと結びつく事によって、皆栄えさせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月4日(金) 聖書の箇所:詩篇2篇1〜12節/ 年間通読:創世記 21〜23章
「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」。(6節) 
  これはイエス・キリストが復活した後、「わたしは、天において地においてもいっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)という言葉によって、実現したのである。イエス・キリストは救い主であると同時に、主であり、王であられるのである。しかも、神に立てられた、忠実なる王の王、主の主なのである。
聖書の王は支配者であり、僕であり、牧者なのである(エゼキエル34:23,24、37:24)。
“主よ、イエスさまが愛と公平とを持って、支配される、力と権威ある王である事を感謝します。アーメン”
 

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2008年1月5日(土) 聖書の箇所:詩篇3篇1〜8節/ 年間通読:創世記 24〜25章
「しかし、主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。」(3節)
  人生にはさまざまな試練や困難が起こるものだ。私達には解決不能な、出口の見えない現実に囲まれる時がある。しかしクリスチャンである私達は厳しい現実に閉口しておしまい、ということには決してならない。希望が消えかけた中に確かな希望がある。私達を囲み、盾となり、またその大きな愛といつくしみによって、落ち込む私達を引き上げて下さる主がともにいてくださるからだ。信仰の目を上げ、信仰のレンズを通し、いかなる状況においてもこの主を認め、信頼を置き、前進しようではないか。
“主の絶え間ない守り、支えを心から感謝します。
 このあなたに絶対的な信頼を置けますように。アーメン”
 

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2008年1月6日(主日) 聖書の箇所:詩篇4篇1〜8節/ 年間通読:創世記 26〜28章
「しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。」(17節)
  神を愛する者を主は聖別してくださる。聖別はこの世の悪から分離させるということもそうだが、何よりも神との深い、人格的な愛の交わりの中に置かれていくことではないか。その関係は親子のきずなよりも深くて、強い。
神の無条件の愛がその根底にあるからだ。この交わりの中に置かれる時、信仰者は祈りを聞かれ、答えてくださる父なる神を体験し、その確信の中に生きてゆく。キリスト・イエスを通し、主は私達を聖別し、豊かなこの神の愛の交わりの中に入れて下さった。 ハレルヤ!
“あなたとの交わりの中で尚、私を聖別してください。アーメン”
 

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2008年1月7日(月) 聖書の箇所:詩篇 5篇1〜12節
「しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。」(7節) 
  ダビデは危機的状況に面する時、例外なく、神の前に出て静まる。これが彼の信仰の、恵みの鉄則であった。困難に遭遇する時、私達はどうそれらの問題に対応するであろうか。神を知るもの、神のその豊かないつくしみを知る者の危機に対する対処方は、そうでない者のそれとは違うものでなければならない。
なにはともあれ、キリストの体なる聖なる教会を通して、それぞれの密室において神の前にひれ伏し、拝み、助けと導きを祈り、その状況の全てを主に委ねていくのだ。
“主よ、あなたの前にへりくだりを持って、あなたの助けと御心を待ち望ませてください。アーメン”
 

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2008年1月8日(火) 聖書の箇所:詩篇 6篇1〜10節
「主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。」(2節)
  ダビデがそうであったように、危機的状況、想像を越える困難に遭遇する時、私たちの存在そのものが衰え、苦しみのあまり心が病に冒されたような痛みを覚え、気力を失う時がある。心と身体が恐れで悲鳴を上げるような時がある。
しかし同じくダビデがそうであったように、神にいのり、ひれ伏し、助けを求める時、神の総合的ないやしの恵みが、私たちの痛める存在そのものを覆って私たちを引き上げてくださる。私たちには魂の癒し主、その復活の力で私たちを引き上げてくださるイエス・キリストがいてくださる。感謝!
“主よ、恵みにより、私を再生し、新しい気力に満たし、引き上げてください。アーメン”
 

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2008年1月9日(水) 聖書の箇所:詩篇7篇1〜17節
「主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。」(8節)
  ここでいうさばくという動詞には神を愛する者を攻撃する敵に対しては徹底的なさばきが与えられ、神を愛する者に対しては敵の批判、攻撃からの徹底した守りと弁護が与えられるという2重の意味がある。
私たちは主イエスにより神の目に義とされ、きよいとされている存在である。その神の義は私たちの力では決して獲得し得ない。また神の前に義とされるその条件を満たしえない。ただ主イエスの贖いの十字架により、その信じる信仰により神の前に正しい者とされている。そして神はこのキリストにある私たちを徹底して守り、弁護してくださる。
“ハレルヤ!! キリストの故の徹底したあなたの守りと弁護を感謝します。アーメン”
 

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2008年1月10日(木) 聖書の箇所:詩篇 8篇1〜9節
「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。」(1節) 
  花、星、月、自然が美しいのはデザイナーである神が美しいからだ。太陽の力強い輝き、地震、雷、強い風は神の力強さを想起させる。自然を通じて語る神は私たちの罪のために死んでくださったイエス・キリストのあの十字架を通して私たちに対する神の愛の凄まじさを語る。
被造物すべてのものを通し、何より人となった神の子イエスに神の意図と支配、そして究極の、計り知れない愛を感じずにはおれない。私たちの主は愛によってすべてのものを治める。この全能の、力強い、愛なる主が私たちの永遠の導き手である。感謝しよう。
“私たちと共なる全能の主の恵みを心から感謝いたします。アーメン”
 

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2008年1月11日(金) 聖書の箇所:詩篇 9篇1〜20節
「わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざをことごとく宣べ伝えます。」(1節)
  過去の勝利を思い起こし、改めて感謝していくことで、今置かれている危機的状況においても救済が与えられるように(13節)とのダビデの祈りである。困難に陥る時、私たちの感謝は消えていきやすい。しかし、ダビデは口先ではなく“心を尽くして”思いを尽くして過去の勝利、祝福を一つ一つ思い起こし、感謝をささげている。
私たちはどうだろうか?危機に陥る時ほど、過去の祝福を感謝し、同じように現在、未来と救い、守り、祝してくださる主の平安と確信を持つべきではないか。
“主よ、過去、現在、未来において私を永久に守り、祝してくださる主を感謝します。アーメン”
 

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2008年1月12日(土) 聖書の箇所:詩篇10篇1〜18節
「主はとこしえに王でいらせられる。」(13節)
  私たち人間は、困難な問題にぶつかるとき、ともすると敵のはげしい攻撃に心が集中したり、苦しみに心をとらわれやすい。また主なる神を否定されて、何の返答ができないようなこともある。だがその時こそ、困難な問題や敵の攻撃、苦しみから目を転じて主を見上げるときだ。
主はこの世界の創造者であり、今も統治者であられる。あらゆる問題、敵、苦しみの上に支配者としておられるお方である。そして神は、主イエスの十字架と復活により、罪と死を打ち破り、私たちを神の王国に招き入れて下さったのだ。
“父よ。王の王、主に目を向けさせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月13日(主日) 聖書の箇所:詩篇11篇1〜7節
「主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられる。」(4節)
  私たちはこの世において、正しいことをしようとするのに、それを妨げられたり、妨害されたりする。それどころか悪しき者におどされたりもする。主は何をしておられるのだろうかと思うときもある。
しかし主は天にいまして、そのすべてをご覧になるお方である。人の心のうちを良いことも悪いことも調べ、やがて正しい裁きをされるお方である。このお方の前に、心を調べられて大丈夫か。神の義を得させるものは、ただ主の十字架のみである。
“全能なる主よ。私を神の義に生かし、正しい裁きをなして下さい。アーメン”
 

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2008年1月14日(月) 聖書の箇所:詩篇12篇1〜8節/ 年間通読:創世記45〜47章
「主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。」(6節)
  ここでは特に言葉によって、隣人に偽り、あざむくことが記されている。人の偽りに敏感な私たちであるが、振り返って自分の言葉を思うとなんと不真実であろうか(ヤコブ3章)。悔い改めよう。
しかし主の言葉は、どこまでも真実で偽りがない。事実、旧約に約束されたメシアを送り救いの道が開かれた。そしてこの神様はやがて主が再び来られ(使徒1:11)、地を裁くことを語っておられる。
この真実な言葉をいたずらに恐れるのでなく、厳粛に受けとめ、正しい言葉を語り、主の再臨を待ち望もう。
“父よ。主の清き言葉をしっかりと受けとめられますように。アーメン”
 

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2008年1月15日(火) 聖書の箇所:詩篇13篇1〜6節/ 年間通読:創世記48〜49章
「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。」(1節)
  この著者は、敵によって苦しみ、死に飲み込まれそうなことも告白している。私たちは、苦しみのさなかにいるときは、その出口も見えず、苦しみがどこまでも続くように思われる。また神様がおられることすらも、わからなくなってしまう時もある。この著者は、そのような中において、主に信頼し、救いの喜びを確信している。私たちの主は、私たちの苦しみをわからないお方ではない。また忘れたり、永遠に放っておかれるお方でもない。
「しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。」(5節)
“主よ。あなたの助けを信じます。アーメン”
 

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2008年1月16日(水) 聖書の箇所:詩篇14篇1〜7節
年間通読:創世記50章、マタイ1〜3章
「神は正しい者のやからと共におられるからである。」(5節)
  ここには「善を行う者」の対比として「愚かな者」「悪を行う者」が出てくる。愚かな者とは「神はない」という者である。これは主の救いを受けない人を指している(ローマ3章)。
しかしもし私たちが主を信じていると言いながら、その生活のどこかで、主のおられることを認めないで、主の御心に適わない自分の道、自分の知恵や方法に頼っているとするならば、神を侮る「愚かな者」なのである。生活のどの部分にも主を認め、主にへりくだって歩むところに主も共にいて下さるのである。
“神様。生活のどこであっても主を認め、御心に従って歩めますように。アーメン”
 

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2008年1月17日(木) 聖書の箇所:詩篇15篇1〜5節/ 年間通読:マタイ4〜5章
「その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、」(4節)
  冒頭の「幕屋にやどるべき者」「聖なる山に住むべき者」とは、特別な奉仕者を意味するというよりも、主を礼拝しようとして来るすべての人について言われている。その答えをまとめて言えば、神様と同じ判断基準を持ち、隣人を愛する者である。
私たちにとって隣人を愛し、和を尊ぶことは大切なことであるが、神様の基準を超えての和は、信仰の逸脱につながる。御子の命をもってしかあがなわれなかったこの命である。いつも主にあって聖別された者であることを肝に銘じ、主の救いを証する者でありたい。
“主よ。あなたの思いを知る誠実な者として下さい。アーメン”
 

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2008年1月18日(金) 聖書の箇所:詩篇16篇1〜11節/ 年間通読:マタイ 6〜8章
「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。」(10節) 
  神様への信頼と大きな喜びに満ちあふれた詩である。上記のお言葉からも単に平和と繁栄が与えられたという喜びよりも、多くの苦しみを乗り越えさせていただいたという感慨がある。
その秘訣は何か、主なる神様のみに頼ること、他に頼らないこと、そして「主を常にわたしの前に置く」ことである。主に頼るといいつつ、自分の知恵に頼ったり、状況によって態度を変えることではない。徹底して自己に死に、私の内に主が生きて(ガラテヤ 2:19,20)初めてわかる喜びである。使徒2:31。
“神様。私もよみがえりの主の喜びに生きる者として下さい。アーメン”
 

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2008年1月19日(土) 聖書の箇所:詩篇17篇1〜15節/ 年間通読:マタイ 9〜10章
「主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びにみ心をとめ、偽りのないくちびるから出るわたしの祈に耳を傾けてください」(1節)
  ダビデの祈りとあるが、祈りのあるべきことを教える御言葉である。誰に向かって祈るかであるが、それは主である。正しい訴えが聞かれるのである。祈る者が真実であることが大切である。神の御心に向って、正に、人がそこにいるがごとく、真剣な、熱心な、祈りこそ聞かれるのである。
“主よ、聞かれる、正しい祈りをさせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月20日(主日) 聖書の箇所:詩篇18篇1〜50節/ 年間通読:マタイ 11〜12章
「この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です」(30節)
  神さまの道は完全である。なぜなら、神は完全なるお方であるからである。だからその道を歩む者には欠けたところはないのである。
また、神は真実であられるから、当然そのお言葉も真実であり、頼ることができるのである。
そして、主により頼むものを盾のように、しっかりとお守り下さるのである。
“主よ、あなたに全き信頼を置かせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月21日(月) 聖書の箇所:詩篇19篇1〜14節/ 年間通読:マタイ 13〜14章
「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」(14節)
  主は岩のように不動のお方であり、信頼できるお方であり、自分を代価を払って買い取って下さるお方なのである。この主に、自分の言葉と心が喜ばれるように祈っているのである。
なんという崇高な、又純粋な祈りかと思わせられる。自分が信じている神にふさわしく変えられていくようにとの祈りである。
“父よ、私たちにこのような祈りをさせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月22日(火) 聖書の箇所:詩篇20篇1〜9節/ 年間通読:マタイ 15〜17章
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」(7節)
  なんと信仰深い、ことばであろうか、人間的に見て、戦いにおいては、戦車や馬を誇りがちであるが、主御自身を誇るというのである。私たちが頼るべきお方は主以外誰もいないのである。われらの勝利は主の勝利である。
否、戦いそのものがわれらの戦いでなく、主の戦いなのである。
“主よ、全てにおいて、あなたを誇るものとして下さい。アーメン”
 

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2008年1月23日(水) 聖書の箇所:詩篇21篇1〜13節/ 年間通読:マタイ 18〜20章
「王は主に信頼するゆえ、いと高き者のいつくしみをこうむって、動かされることはない」(7節)
  主への信頼こそ、勝利の秘訣であり、神の変わることのない、真実な愛を受ける道なのである。そしてそのような人は、何によっても動かされることなく、安心と平和へと導かれるのである。
 それ故、自分でもなく、他の何かでもなく、主御自身への愛に基づいた信頼こそ、全てに勝って大切なことなのである。
“主よ、あなたに信頼することによって、動かされない不動の歩みをさせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月24日(木) 聖書の箇所:詩篇22篇1〜31節/ 年間通読:マタイ 21〜22章
「国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます」(28節)
  これは主の十字架の預言の詩篇である。同時に、そのことによる救いと賛美が歌われ、又主の御支配が歌われている。「国が主のものである」とは主の所有であり、主に属するということである。それ故、その国の民は主によって治められるのである。
私たちの日本も、この世界もそうなのである。私たちはこの御言に励まされ、望みを持って、この国の国民として、その勤めを果たして行きたいものである。
“主よ、この御言葉がそのように現実と成らせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月25日(金) 聖書の箇所:詩篇23篇1〜6節/ 年間通読:マタイ 23〜24章
「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」 (6節) 
  有名な詩篇である。この中のすべてが素晴らしい言葉であるが、牧者なる主、勝利の主が共にいて下さることに、その素晴らしさの中心があると思われる。そしてそのことの故に、現在だけでなく、生きている限りの一生涯、主の恵みといつくしみが伴うという希望を持つことができるのである。
“主よ、あなたが共にいて下さることによって、今も将来にも安心でき、過去に対しては感謝できるものとさせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月26日(土) 聖書の箇所:詩篇24篇1〜10節/ 年間通読:マタイ 25〜26章
「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。」(7節)
  世界を作られ、すべての源であり、私達の存在の上に超越者としておられる栄光の王、神はどこに来られるだろうか? どこに住まわれるだろうか? 驚くべきことにこの栄光の主、イエス・キリストは私達の心にお入りになり、住んで下さる。なんと光栄なことだろうか。
私達は確かに心のうちに来られ、そこに住まう栄光の王、イエス・キリストを体感しているだろうか。その確証はあるだろうか。疑いや不信仰を吹き晴らし、心の門を上げ、今日もこのお方を私達のうちにお迎えしよう。
“今日もあなたが私のうちに満ち溢れて下さい。アーメン”
 

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2008年1月27日(主日) 聖書の箇所:詩篇25篇1〜22節/ 年間通読:マタイ 27〜28章
「主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください」(4節)
  苦しみの中で、詩篇の著者は神の救いの道、確かな道を求める。大路という言葉には“踏み固められた”という意味がある。
私達の歩む道はどろどろとした定かではないあぜ道とは違う。またゴールも分からず、自ら切り開かなくてはならない不安定な道でもない。キリストが十字架上で命を投げ出すことで切り開いて下さった永遠の命への、確かな、踏み固められた道だ。このキリストのいのちがかけられた救いの大路の真ん中を私達は歩んでいるだろうか。道はすでに示され、踏み固められている。これに歩め。
“主よ、あなたの切り開いてくださったキリストにある救いの大路を感謝します。アーメン”
 

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2008年1月28日(月) 聖書の箇所:詩篇26篇1〜12節/ 年間通読出エジプト 1〜3章:
「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」(2節)
  銀を練り、純銀を作り出すのは並大抵のことではない。銀は950度にならないと溶解しないからだ。その時はじめてかなかすを取り除いて本物の銀を練り出だす。私達も誰もが例外なく、心のうちにある種の不純物を抱えている。
主の御心は私達が不純物ゼロの神の恵みにあふれた本物のクリスチャンとなることではないか。私達が試練に会い、悩む時、それは確かに主が私達の心の不純物を取り除き、心を練りきよめようとする時だ。私達のうちに“本物”を造っていただこう。そこに主にある“本物”の喜びがある。
“主よ、私の心を練りなおし、きよめ、あなたのよろこばれる純粋な心にしてください。アーメン”
 

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2008年1月29日(火) 聖書の箇所:詩篇27篇1〜14節/ 年間通読:出エジプト 4〜5章
「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。」(1節) 
  恐れは誰にも付きまとうものだ。大小さまざまな恐れに私達は日夜囲まれているといっていい。しかし恐れというなんとも言えない暗黒の中に私達は光り輝く確かな主の臨在を発見する。暗黒の時代にも、危険な中にも、困難な中にも、病の床に伏す時も主は私達を照らす光として、救い主として、命のとりでとしてそこにいてくださる。
現実の厳しい状況に心を捕らわれてはいけない。インマヌエルの主に心を向けるとき全ての恐れや不安はかき消されていく。
“主よ、私のあなたは命のとりで。恐れをとり去ってくださる故に感謝します。アーメン”
 

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2008年1月30日(水) 聖書の箇所:詩篇28篇1〜9節/ 年間通読:出エジプト 6〜7章
「主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。」(7節) 
  困難な中に置かれる時、私達は何を頼りとするだろうか、心はどこへ向くだろうか。主に心を向けることができる者は幸いだ。状況が変わらずとも力であり盾である主の守りと支えを確信できる者は幸いだ。その人の心には苦しい状況にもかかわらず、主に喜びと賛美が起こり、その心を守る。
いかなる時にも主により頼むという心の単一性が、信仰者に求められる大切なひとつの要素である。今日も心を主に預けよう。 
“主よ、さまざまなことの中にあなたに心を向かわせて下さい。アーメン”
 

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2008年1月31日(木) 聖書の箇所:詩篇29篇1〜11節/ 年間通読:出エジプト 8〜9章
「主のみ声は力があり、主のみ声は威厳がある。主のみ声は香柏を折り砕き、主はレバノンの香柏を折り砕かれる。」(4節) 
  主の言葉には力がある。主が言葉を発せられる時、天地が造られ、そこに住む被造物が産み出された。主が語ったことはことごとく成就していく。原語で主が未来においてなすと語るところでは、その動詞の多くが完了形で書かれている。言葉を発すると同時に、そのことは例外なく、完全になされていくからだ。
厳しい状況、不可能と思える現実の壁を突き破り、主が一度、語られるならそれは私達の内外に成就していく。今日、主は私達に何を語おられるだろうか。
“素直な心を持って力強いあなたの御声を受け止められますように。アーメン”
 

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2008年2月1日(金) 聖書の箇所:詩篇30篇1〜12節/ 年間通読:出エジプト 10〜11章
「あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。」(11節)
  夜が明け、朝が来るように、人生の暗闇というような苦難の時、忍耐の時には必ず終りがある。季節が見事に移り変わっていくように、主は嘆き、忍耐の季節から直接的な神の介入とその御業を拝し、主の喜びと確信に満たされるという、歓喜の季節へと私達を招き導いて下さる。
あなたは今どのようなところに置かれているだろうか。苦しみの時はやがて終わりが来る。嘆きを賛美と喜びに変えてくださる恵みといつくしみに富み給う主を待ち望もう。
“恵みといつくしみの故に苦しみを喜びに変えてくださるあなたの愛を感謝します。アーメン”
 

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2008年2月2日(土) 聖書の箇所:詩篇31篇1〜24節/ 年間通読:出エジプト 12〜13章
「わたしのためにひそかに設けた網からわたしを取り出してください。」(4節)
  著者は、ひそかな計略に落とし入れられ、苦しんでいる。周りの人々もその計略にかかり、詩人を嫌っている。また命までも危機にさらされている。自分の力で乗り切ろうとしても悲しみと苦しみで魂も体も力尽き果ててしまっている。しかし彼は主を「わたしの神」(14)と告白し、主の慈しみを体験したのだった。
今も様々な計略、わなが私たちを狙っている。その中でも最も恐ろしいひそかな網は、私たちを気付かないうちに高ぶらせ、主への信頼を止めさせようとする悪魔のたくらみではないか。
“父よ。いつも主をわたしの神として、見失わないように助けて下さい。アーメン”
 

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2008年2月3日(主日) 聖書の箇所:詩篇32篇1〜11節/ 年間通読:出エジプト 14〜15章
「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」(1,2節)
  背景にバテシバ・ウリヤの事件(サムエル下11〜12)があると言われている。私たちは、自分で自分の過ちや失敗、罪を知っている。誰も自分を責めないとしても、心が責められてどうすることもできない。
ところが主にその罪を告白しようとしたとき、主はその罪を赦して下さった。この罪の赦しは、人の想像や自分の納得ではない。父なる神の宣言だ。だから揺るぐことがない。これが心底からの賛美の根源だ。
“主よ。私の罪を告白します。十字架による赦しを感謝します。アーメン”
 

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