デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年2月のデボーション
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2008年2月1日(金) 聖書の箇所:詩篇30篇1〜12節/ 年間通読:出エジプト 10〜11章
「あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。」(11節)
  夜が明け、朝が来るように、人生の暗闇というような苦難の時、忍耐の時には必ず終りがある。季節が見事に移り変わっていくように、主は嘆き、忍耐の季節から直接的な神の介入とその御業を拝し、主の喜びと確信に満たされるという、歓喜の季節へと私達を招き導いて下さる。
あなたは今どのようなところに置かれているだろうか。苦しみの時はやがて終わりが来る。嘆きを賛美と喜びに変えてくださる恵みといつくしみに富み給う主を待ち望もう。
“恵みといつくしみの故に苦しみを喜びに変えてくださるあなたの愛を感謝します。アーメン”
 

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2008年2月2日(土) 聖書の箇所:詩篇31篇1〜24節/ 年間通読:出エジプト 12〜13章
「わたしのためにひそかに設けた網からわたしを取り出してください。」(4節)
  著者は、ひそかな計略に落とし入れられ、苦しんでいる。周りの人々もその計略にかかり、詩人を嫌っている。また命までも危機にさらされている。自分の力で乗り切ろうとしても悲しみと苦しみで魂も体も力尽き果ててしまっている。しかし彼は主を「わたしの神」(14)と告白し、主の慈しみを体験したのだった。
今も様々な計略、わなが私たちを狙っている。その中でも最も恐ろしいひそかな網は、私たちを気付かないうちに高ぶらせ、主への信頼を止めさせようとする悪魔のたくらみではないか。
“父よ。いつも主をわたしの神として、見失わないように助けて下さい。アーメン”
 

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2008年2月3日(主日) 聖書の箇所:詩篇32篇1〜11節/ 年間通読:出エジプト 14〜15章
「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」(1,2節)
  背景にバテシバ・ウリヤの事件(サムエル下11〜12)があると言われている。私たちは、自分で自分の過ちや失敗、罪を知っている。誰も自分を責めないとしても、心が責められてどうすることもできない。
ところが主にその罪を告白しようとしたとき、主はその罪を赦して下さった。この罪の赦しは、人の想像や自分の納得ではない。父なる神の宣言だ。だから揺るぐことがない。これが心底からの賛美の根源だ。
“主よ。私の罪を告白します。十字架による赦しを感謝します。アーメン”
 

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2008年2月4日(月) 聖書の箇所:詩篇33篇1〜22節/ 年間通読:出エジプト16〜18章
「主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。」(11節)
  さわやかな神への賛美の歌である。私たちはともすればこの世の価値観で力の強い者、能力のある者がこの世を支配し、動かしているように感じてしまう。しかしその目を主に転じると全く違った世界が見えてくる。
主が御言葉によって世界を造られたこと、主の御言葉は必ず成就すること、人の計略は主の前には虚しいこと、そして主を恐れるものを主は顧みて下さることである。
今主のお言葉通り十字架による救いが成就している。そして私たちは主が再びこられることを待ち望んで喜んでいるのである。
“神様。あなたの大きなご計画を思って賛美します。アーメン”
 

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2008年2月5日(火) 聖書の箇所:詩篇 34篇1〜22節 / 年間通読:出エジプト19〜21章
「主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。」(7節)
  表題には「ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい」とある。サウル王に追われ、敵地に逃げたが捕らえられ、気が変になったふりをして、間一髪一命を取り留めたところである(サム上22章)。追われに追われて、仲間もおらず、もはやこれまでと思われるなかでの行動であった。
だが彼は全くの孤独ではなかった。主に叫び、助けを求めることができた。そして追う者と自分との間に主の使の陣営があり、主の軍勢によって助けられていることに気付かされたのだった。
“今も主を恐れる者に、主の助けがある。
  主よ。あなたは確かに私を助けて下さいます。アーメン”
 

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2008年2月6日(水) 聖書の箇所:詩篇35篇1〜28節/ 年間通読:出エジプト22〜24章
「わが神、わが主よ、わがさばきのため、わが訴えのために奮いたち、目をさましてください。」(23節)
  私たちは「裏切られた」と感じるときどうするだろうか。著者は肉親のように愛した親しい友から裏切られ、窮地に立たされた。この時彼は、落胆に呑み込まれるのでなく、また怒りや復讐に燃えるのでなく、ただ神様に正しいさばきを訴えた(ローマ12:19)。
主は正しいさばきをして下さる。しかし私たちも神様のさばきの前に立たせられるとすれば、なんと恐ろしいことであろうか。そして私たちのさばきを代わりに受けられた主の十字架はなんと尊いことだろうか。
“神様。私のためにも正しいさばきをして下さい。十字架を見上げ感謝します。アーメン”
 

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2008年2月7日(木) 聖書の箇所:詩篇36篇1〜12節/ 年間通読:出エジプト25〜27章
「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」(9節)
  私たちが罪を悔い改め、主を救い主として受け入れていくとき、感謝と喜びがあふれてくる。しかしなぜか、以前同様私たちに悪意をいだく者、様々な試練や苦しみ、悲しみは押し寄せてくる。
だが私たちにとって大きく違っていることがある。私たちがどんなに苦しめられたとしても、主が絶えず命を注ぎ、光となって照らして下さることである。泉はどんな汚濁も洗い流し清く返らせ、主の光はどんな暗闇も明るく照らし出すことができる。私たちは、主の翼のかげに隠れることができる。
“父よ。絶えずあなたから新しい命が注がれていて、誰も奪えません。感謝します。アーメン”
 

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2008年2月8日(金) 聖書の箇所:詩篇37篇1〜40節/ 年間通読:出エジプト28,29章
「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」(8節)
  「怒り」「憤り」「悩み」。これらは私たちが悪行を受けたり悪意を感じたときの当然の反応といえる。しかし私たちがこの当然の反応に身を任せていくならば、私たちも悪に移ってしまう。ではどうすればよいのか。
「主に信頼して善を行え。」(3節)
「あなたの道を主に委ねよ。」(5節)
「主の前にもだし、主を待ち望め。」(7節)
 主に信頼することは、怒りや憤りも悩みも主に預け、一任していくことではないだろうか。私たちの思いを超えた主が、悪しき者を滅ぼし、より頼む者を解き放って下さる(40節)。
“神様。あなたに信頼します。怒り憤りを捨て主の助けを待ちます。アーメン”
 

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2008年2月9日(土) 聖書の箇所:詩篇 38篇1〜22節/ 年間通読:出エジプト30〜32章
「しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそわたしに答えられるのです」(15節)
  この詩篇の著者は自分の罪と不義と愚かさの故に、神の怒りの対象となり、苦しみを受け、健康を損ねて、弱りはて、平安を失ってしまったのである。そして、友だちも、その災いを見て見守り、親族も遠く離れてしまったのである。
しかし、その中で、神を信頼し、神を待ち望み、神が祈りに答えて下さることを信じているのである。たとい罪を犯しても、ゆるしを信じて、祈り続けることが大切である。
“主よ。罪の中でもあなたを求めざせて下さい。アーメン”
 

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2008年2月10日(主日) 聖書の箇所:詩篇39篇1〜13節/ 年間通読:出エジプト33〜35章
「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります」(7節)
  ここでは、命がはかなく、一生が無に等しく、息のように短い事が言われている。
しかし、この著者は神に望みを置いたのであった。罪の懲らしめの中で、神に求めているのである。神が、愛のみ声を掛けて下さること、神がその懲らしめの顔をそむける事によって、喜びを得ることを切に祈っているのである。
ここでの祈りも、また、多くの他の詩篇の祈りも、神との対話というようなものではなく、嘆願であり、真剣な熱心な求めなのである。
”主よ。どんな中でも、あなたに望みをおかせて下さい。アーメン”
 

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2008年2月11日(月) 聖書の箇所:詩篇40篇1〜17節/ 年間通読:出エジプト 36〜38章
「あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない」(6節)
  これはイエスさまが、自らの身体を、献げて、十字架に掛けなさる事の預言(ヘブル10:5、6)でもある。「わたしの耳を開かれた」とは従順な心が与えられる事である。ヘブル書ではここの所が「わたしのために、からだを備えて下さった」となっている。
従順の第一は肉体をとって人となることであり、燔祭と罪祭の代わりとして、自らの身体を献げる事からそのように訳したと思われる。
“主よ、謙って、肉体をとられ、身体を献げられたことを感謝します。アーメン”
 

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2008年2月12日(火) 聖書の箇所:詩篇41篇1〜17節/ 年間通読:出エジプト39〜40章
「貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される」(1節)
  このような人はまた、「生きながらえさせられ」、「さいわいなものと呼ばれ」、「その敵の欲望にわたされない」、「その病の床でささえられ、その病をことごとくいやされる」とある。これは、貧しいものや弱いものを如何に神さまが、心に留め、愛しておられるかを、教えている。
この時代、社会的には、軽蔑され、神さまの祝福されない者と見られていた者であった。しかし、神さまから見るとその逆なのである。
“主よ、わたくしたちが、神さまの愛をもって人にかかわらせて下さい。アーメン”
 

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2008年2月13日(水) 聖書の箇所:詩篇42篇1〜11節/ 年間通読:マルコ 1〜2章
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえる」(5節)
  かつて神の宮に、参拝者を導いた(4節)著者は、その捕われの地で人々が「お前の神はどこにいるのか」(3,10節)と言う言葉を聞くと、自分の信じている神を否定され、侮られたが故に、悲しくて、夜も昼も泣き続けたのであった。
その彼に神は昼はいつくしみをほどこし、夜は、賛美による祈りを与えたのであった。
“主よ、どのような中でも、あなたを慕い、愛するものとさせて下さい。アーメン”
 

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2008年2月14日(木) 聖書の箇所:詩篇43篇1〜5節/ 年間通読:マルコ 3〜4章
「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、あなたの聖なる山と、あなたの住まわれる所に、わたしをいたらせてください」(3節)
  42篇の続きである。聖なる山であり、神の住まわられるエルサレムに導いて下さる事を、捕われの地で、祈っているのである。誠に、心の痛みを覚える祈りである。
同時に、私たち新約に生きるものは、捕囚の意味を深く考える必要があるのである。勿論、偶像を拝む事によって、神の律法を破った事への罰であったが、捕囚の地でもそこにおられる世界の神を知らせる為でもあったのである。
“主よ、あなたを心から求めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年2月15日(金) 聖書の箇所:詩篇44篇1〜26節/ 年間通読:マルコ 5〜6章
「これらの事が皆われらに臨みましたが、われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした」。(17節)
  これらの事とは「敵に破られ、散らされ、もろもろの国民の笑いぐさとなり、辱められている」事であるが、このような中で、神を忘れず、契約にそむかないという固い素晴らしい信仰を表しているのである。
これは、先祖から聞いた神のみわざに支えられていたとも言えるのである。救いの証しこそ私たちを信仰に留まらせ、神に望みを置かせるものとなのである。
“主よ、あなたの素晴らしい救いのみ業に目を留めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年2月16日(土) 聖書の箇所:詩篇45篇1〜17節/ 年間通読:マルコ 7〜8章
「わたしの心はうるわしい言葉であふれる。わたしは王についてよんだわたしの詩を語る。わたしの舌はすみやかに物書く人の筆のようだ」(1節)
  ここで描かれている栄光の王は、私達にとってはキリスト・イエスと理解することができる。私達の生きている世界は実にとげとげしい。私達の存在を危うくさせるような危険なものでいっぱいだ。その中に染まっていくと、いや、この世界が私達の心に入ってくると私達そのものがとげとげしい存在になってしまう。
しかしこの詩篇の著者のように、私達の心を私達の栄光の王に向ける時、心は、人生は神のうるわしさに満ちる。
“あなただけを見上げさせ、私達の存在を神のうるわしさで一杯にしてください。アーメン”
 

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2008年2月17日(主日) 聖書の箇所:詩篇46篇1〜11節/ 年間通読:マルコ 9章
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」(1節)
  苦難の中に、真っ暗闇と思える苦境の中にこの詩篇の著者は光り輝く神の臨在とその確かな守りを確信した。
私達にもひょっとすると光が見えない、先が見えないような苦境の中におかれるときがあるかもしれない。しかし、暗澹たる状態の中に私達は光り輝く確かな救いの神、守りの主の臨在を見る。暗闇の中にいるからこそ発見できる光がある。苦しみの中だからこそ味わい知ることのできる神の恵み、いつくしみ、守りの豊かさがある。
苦難の中に恐れる必要はない。ただ心を主に向かわせる努力をしようではないか。
“いかなる時にもあなたに信頼を置けますように。アーメン”
 

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2008年2月18日(月) 聖書の箇所:詩篇47篇1〜9節/ 年間通読:マルコ 10〜11章
「もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ。」(1節) 
  主に向かってささげる賛美、神をほめたたえていくということは信仰生活の中で、非常に重要な位置を占めている。現在、過去、未来においてとめどなく注がれてくる神の恵みへの回顧と感謝を忘れ、すべてのことに関して栄光を主に帰していくということを怠っていくと、必ず、不平や不満に心が捕らわれ、神の恵みから離れていくことになりかねない。イスラエルの歴史を振り返るとそのことがよくわかる。
つぶやきに心を奪われてはならない。神の恵みの回顧と感謝をささげていくことで、私達の信仰を健全に保っていただき、恵みのうちに成長させていただこう。
“あなたの日々の大いなる恵み、救い、支えを感謝します。アーメン”
 

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2008年2月19日(火) 聖書の箇所:詩篇48篇1〜14節/ 年間通読:マルコ 12〜13章
「神はとこしえにこの都を堅くされる。」(8節) 
  主は神の都、聖なる丘、神殿そして、そこに住む神の民たちをこよなく愛し、ご自分のひとみのように守られた。今日、神がこよなく愛され、守られ、豊かな恵みをもって支えられるのは地理的に限定された場所でも、山でも丘でもない。
全存在をかけた神の愛と関心が一途に向かうところは主キリストにあって、霊的な神の都、神殿とされた私達一人一人であり、そのような者らが集まる教会に他ならない。歴史の中で証明されてきた神の守りと、養いと支えが今日も私達と教会に与えられ、われらを堅くする。
“主よ、弱りやすい私達を恵みと共に支え、堅くし、御前に力強く歩ませて下さい。アーメン”
 

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2008年2月20日(水) 聖書の箇所:詩篇49篇1〜20節/ 年間通読:マルコ14章
「しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる」(15節)
  ここで使われている“あがない”という言葉には、“買い戻す”、“捕らわれの身から開放する”という意味がある。父なる神は罪からくるおぞましい滅びからキリストの命の代価が払われることで、私達を神のもとに“買い戻し”てくださり、その暗黒の力から開放してくださった。
その贖いの力は過去の一時期だけではなく、今も、これからも日々刻々と私達のうちに与えられ続ける。そしてその贖いの力は私達を経由して世の人々のうちにも働き、救いを得させる神の救いの力である。
“今日もあなたの贖いの力によって私を守り、また人々を救いに導いて下さい。アーメン”
 

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2008年2月21日(木) 聖書の箇所:詩篇50篇1〜23節/ 年間通読:マルコ 15〜16章
「神は麗しさのきわみであるシオンから光を放たれる。」(2節)
  かつて神の都、神殿のある聖なるシオンの丘からご自身の栄光の光を放たれた主は、この時代においてどこからその栄光の輝きを見せるだろうか。まさに神ご自身であるイエス・キリストがご自身により、その自らの栄光の光を放っておられる。
物や場所を通してという間接的ではなく、われらと同じように肉体をとって人となってくださったことで、イエスを通して混じりけのない、ぼかしのない、完全な、純粋な神の栄光の光そのものを、私達はイエスのうちに発見する。この光にあてられ、この栄光の光のうちに生き続けていくうちに、私達自身が神の光を放つものと変えられていく。
“世に向かって主の光が私達を通じて放たれてゆきますように。アーメン”
 

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2008年2月22日(金) 聖書の箇所:詩篇51篇1〜19節/ 年間通読:レビ 1〜4章
「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」(10節)
  ダビデのバテシバへの姦淫、夫ウリヤの殺人というとてつもない大罪を犯してしまった後のダビデの悔い改めの祈りだ。犯した罪が取り除かれ、赦されていくだけでは不十分だ。心が変容されていかなければまた同じことの繰り返しとなる。そんな切実な思いの中でのダビデの祈りだ。
キリストの血潮は“すべての罪からわたしたちをきよめる”(第1ヨハネ1:7)が、キリストの恵みは罪の赦しにとどまらない。罪の傾向性をもつ私達そのものを作り変え、新しい、清い心を私達のうちに形作る。新しい存在へと作り変える主キリストの恵みを信じ、求めていこうではないか。
“我らのうちに清い心をおつくり下さい。アーメン”
 

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2008年2月23日(土) 聖書の箇所:詩篇52篇1〜9節/ 年間通読:レビ 5〜6章
「しかし、わたしは神の家にある緑のオリブの木のようだ。わたしは世々かぎりなく神のいつくしみを頼む。」(8節)
  表題からするとダビデがドエグによって多くの災いと悲しみを受けたときの歌である。私たちが主の道を歩むことは、この世から憎まれる道でもある(ヨハネ17:14)。悪いからではなく正しいから憎まれるのである。つらく苦しいところもある。多くの害を受けることもある。行き詰まることもある。
ダビデは不思議なことに、その困難の中で神様の御手にある恵みといつくしみを歌っている。信仰をもって立ち上がる者を主は守って下さる。どんなに行き詰まっても絶望しない。
“父よ。災いの中でも信頼させて下さい。平安を感謝します。アーメン”
 

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2008年2月24日(主日) 聖書の箇所:詩篇53篇1〜6節/ 年間通読:レビ 7〜8章
「善を行う者はない、ひとりもない。」(3節)
  ここで記されている「善を行う者」とは、神様を求め、呼ぶ人のことを表わしている。人にとって善いこと、正しいこととは、神様を求め、聴くことである。神様が人を見られるときに、だれも神様を呼び求める人はいなかったと語られている。
この中には著者も「私」も含まれている。だが私たちはいつの間にか、自分には少しは良い面があると考えている。しかし主の前にはだれも善なる人はいないのである。だが6節に示されるように、神様はキリストによって神様に立ち返る道を開いて下さった。
“ハレルヤ! 父よ。この愚かな者に開かれた救いを感謝します。アーメン”
 

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2008年2月25日(月) 聖書の箇所:詩篇54篇1〜7節/ 年間通読:レビ 9〜11章
「あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。」(7節)
  2節には「神よ、わたしの祈りをきき、わが口の言葉に耳を傾けて下さい。」とある。苦難の中での祈りの言葉である。私たちも苦しみの中で、悩みの中で祈るのであるが、この祈りの最後の言葉はなんとすばらしいことか。主が祈りを聞いて下さった、主が祈りに答えて下さったという確信になんと満ちあふれていることか。主イエスも「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。(マルコ11:24)」と言われている。
祈りながら、あきらめていることはないだろうか。信じて祈ろう。特に家族を覚えて。
“神様。答えられる主を信じて祈ります。アーメン”
 

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2008年2月26日(火) 聖書の箇所:詩篇55篇1〜23節/ 年間通読:レビ 12〜13章
「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(22節)
  聖書を読むと、不思議なことに私たちの間に起こってくるあらゆる問題が記されていることを発見する。この著者もまさかと思われる身近な者の裏切りに心を震わせている。だが聖書に記されているということは、主は私たちのあらゆる問題をご存知でいて下さるということである(17節)。
私たちは決して一人で苦しむのではない。むしろ、主に重荷を委ねることができる。全ての人の罪を負い、十字架の苦しみを忍びとおされた主は、私たちの荷をも負って下さっている。
“主よ。全てご存知の主に重荷も委ねます。アーメン”
 

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2008年2月27日(水) 聖書の箇所:詩篇56篇1〜13節/ 年間通読:レビ 14〜15章
「肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。」(4節)
  表題を見るとダビデがペリシテ人に捕らわれて、絶体絶命のピンチを通らされた時の歌であることがわかる(サムエル上21)。まさしく死と紙一重のところである。この危機の中にあるのは、人がどんなに自分を害そうとしても何もできない、というはっきりした信仰である。
天地を造り、人を造られたすべての支配者の許しなくしては、人にはなんの力もないのである。人を恐れやすい私たちであるが復活の主を見上げ、聖霊からの確証により、全てを支配したもう神様に堅く信頼しよう。
“神様。全能であるあなたに信頼します。人を恐れる必要のないことを感謝します。アーメン”
 

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2008年2月28日(木) 聖書の箇所:詩篇57篇1〜11節/ 年間通読:レビ16 〜17章
「わたしの魂はうなだれました。」(6節)
  この詩篇を含めほとんどの詩篇の中に神様への信頼を表わす言葉がある。私たちは、自分の姿よりも神様に目を留め、賛美する大切さを知っている。しかしそれは現実逃避することではない。自分の置かれた状況、苦難をしっかりと見つめ、自分の思いをはっきり認識するときでもある。
今日、自分の真の姿を誰にも見せることができずに悩んでいる多くの人がいる。主は苦難も危機も意気消沈もそのままに受け入れて下さる。そこに賛美と平安が生まれる。「わたしは歌い、かつほめたたえます。」(7節)
“主よ。打ち明ける全てを受け入れて下さり感謝します。アーメン”
 

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2008年2月29日(金) 聖書の箇所:詩篇58篇1〜11節/ 年間通読:レビ 18〜19章
「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある。」(11節)
  悪しき者に対するさばきと正しい者に対する顧みをうたう詩篇である。ここに記されている悪しき者へのさばきの願いは大変厳しい言葉である。新約の恵みに与る私たちは、「迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)と主から命じられている。さばきを主に委ね祈る者である。だが主の十字架をないがしろにする者へのさばきは、ここに記されている以上に厳しいものである。本来、神様から離れていた私たちもこのさばきを受けるはずであった。しかし今は義とされて、主と同じ復活の命を待ち望んでいる。
 “神様。再臨と主の顧みを待ち望む者に変えられて感謝します。アーメン”
 

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