デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年3月のデボーション
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2008年3月1日(土) 聖書の箇所:詩篇 59篇1〜17節/ 年間通読:レビ 20〜22章
「わが神はそのいつくしみをもってわたしを迎えられる。わが神はわたしに敵の敗北を見させられる」(10節)
  「わが神」とはわたしの信じている神ということであるが、契約に基づいて、わたしを愛し、わたしを恵み、わたしを導き、いつも私と共にいて下さる神と言うことである。
であるから、神をわたくしたちが信じ従っているなら、いつくしみ(ヘブル語でへセドと言って、契約に基づいた、変わらない、真実な愛を意味する)をもって迎えて下さるのである。そして、敵に対する勝利を見させて下さるのである。
“主よ、あなたがわたしの神であり、いつくしみをもって迎えて下さることを感謝します。アーメン”
 

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2008年3月2日(主日) 聖書の箇所:詩篇60篇1〜12節/ 年間通読:レビ 23〜24章
「われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです」。(12節)
  「神によって」とあるが、これは神の主権と導きのもとに、神の力によってという事である。わたくしたちには、信仰と、従順と、献身と、明け渡しとへりくだりに基づいた、勇敢な働き、即ち、戦いが求められるのである。そのような時に、神の力と働きが、現わされるのである。
これは人間が、一生懸命に頑張って、その後で、神さまの助けを待つという事とは全く逆の事である。何故なら、敵に対して、わたくしたちの力では全く勝ち目がないからである。それ故、神が働く以外に勝利はないのである。
“主よ、まずあなたに全き明け渡しをなさせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月3日(月) 聖書の箇所:詩篇61篇1〜8節/ 年間通読:レビ25章
「わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いてわたしの及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください」。(2節)
  「わが心のくずおれるとき」とは、心に元気がなく、衰えてしまっているときという事である。又、「地の果てから」とは必ずしも、地理的でなく、神が遠く離れてしまっているような状況とも取れる。
心が弱り果て、神から遠く離れてしまったと思えるときに、神に目を向け、真剣に大きな目標の実現の為に求めているのである。これは、この著者に神が働きかけたが故にそうなったとしか言えない。
“主よ、私が弱り果てている時こそ、あなたを求めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月4日(火) 聖書の箇所:詩篇62篇1〜12節/ 年間通読:レビ26,27章
「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(8節)
  「いかなる時」とは、絶望の時であり、悩みの時であり、また、すばらしい時でもあるが、特にここでは、絶体絶命のピンチの時である。そのような時、まず、神への信頼が言われ、次に「心を注ぎだす」ことが命じられている。
神を信頼して、真剣に熱心に神に祈る事が大切なのである。
“主よ、あなたを信頼して、熱心に祈らせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月5日(水) 聖書の箇所:詩篇63篇1〜11節/ 年間通読:ルカ 1章
「わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる」。(5、6節)
  夜寝る時に、静かに、時間をかけて、心を集中して、神を深く思う時は最高の楽しい、また、満ち足りた時である。心は喜びに溢れ、神をほめたたえる賛美が沸き出て来るのである。何と素晴らしい神との交わりであろうか。
“主よ、この様に素晴らしい、あなたとの交わりに入れさせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月6日(木) 聖書の箇所:詩篇64篇1〜10節/ 年間通読:ルカ 2,3章
「正しい人は主にあって喜び、かつ主に寄り頼む。すべて心の直き者は誇ることができる」。(10節)
  不義を行う敵は、苦い言葉を矢のように放ち、巧みにわなにかけようとする。しかし、神は隠れたこの様な人の心を射られるのである。それ故に、正しい人は主にあって喜ぶ事ができるのである。
それは、主に寄り頼んで、真剣に嘆き訴えたからである。この世の中においては、悪い敵がいることを心に留めるべきである。同時に、主によって、それに必ず勝利を得させて下さることをも覚えるべきである。
“主よ、あなたにあって正しい者とされ、勝利と喜びをお与え下さい。アーメン”
 

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2008年3月7日(金) 聖書の箇所:詩篇65篇1〜13節/ 年間通読:ルカ 4,5章
「あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして彼らに穀物を与えられる」。(9節)
  ここでは地上における神の恵みが言われている。水がそそがれ、豊にされ、神の川が満たされるのである。この様にして豊な穀物の収穫がなされるのである。
わたしたちは、神によって、豊かな恵みと祝福が与えられる事を是非とも覚えたいものである。
“主よ、あなたこそ豊かな祝福の基である事を覚えさせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月8日(土) 聖書の箇所:詩篇66篇1〜20節/ 年間通読:ルカ 6章
「神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。」(10節)
  主は愛するものを練り、訓練をする。出エジプトを通し、信仰を通して敵を撃破し、嗣業を獲得していくことで、信仰の何たるかを教え、神の愛の如何なるかを神の民たちの心に刻みこませた。
主は日々私達を練られる。考え、思い、悩み、実際のさまざまな問題を通して主は私達の心を練られる。信仰の目を通して、私達の主、キリスト・イエスを通して現実を捉え、苦難を受けとめ、考え、悩み、解決の糸口を模索していくことを教えて下さるのだ。その時こそ、実際に神の愛、希望、喜び、平安が私達の心のうちに根付き、備わっていく。
“今日も私達の心を練り、きよめ、引き上げて下さい。アーメン”
 

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2008年3月9日(主日) 聖書の箇所:詩篇67篇1〜7節/ 年間通読:ルカ 7章
「どうか、神がわれらをあわれみ、われらを祝福し、そのみ顔をわれらの上に照されるように。これはあなたの道があまねく地に知られ、あなたの救の力がもろもろの国民のうちに知られるためです。」(1〜2節)
  キリスト教はご利益宗教ではない。しかし、神様の恵みは霊的な祝福にとどまらず、実際の生活の上にも豊かである。それは自己満足のための利己的なものではない。いみじくもこの詩篇の著者が高らかに語るごとく、主の栄光が世に現されるために他ならない。私達は私達の人生のあらゆる面において祝福されなければならない。それは一人でも多くの人々にキリストが知られていくためである。それ以上でもそれ以下でもない。
“主よ、我等を祝福してください。キリストが知らされていくために。アーメン”
 

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2008年3月10日(月) 聖書の箇所:詩篇68篇1〜35節/ 年間通読:ルカ 8章
「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救である。」(19節)
  神の救いは一回きりではない。また限定的でもない。限りなく、豊かに与えられるものだ。それは絶え間なく日ごとに新しく、その支えは永遠のものだ。
私達の神は罪に厳しく、妥協はない。しかし、それと同時に愛するものの荷を、いや私達自身を日々、背負い支え、救われる父のような神なのだ。あなたは今日、何らかの荷を背負っているだろうか。その荷の重さの故に苦しんでいるだろうか。前進できずに困り果てているだろうか。
今日、主キリストはあなたの荷を背負って下さる。そして明日は明日のあなたにとっての重荷を負ってくださる。
“私のこの心の荷をお取りくださり、心をあなたの平安で満たして下さい。アーメン”
 

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2008年3月11日(火) 聖書の箇所:詩篇69篇1〜36節/ 年間通読:ルカ 9章
「主よ、あなたのいつくしみの深きにより、わたしにお答えください。あなたのあわれみの豊かなるにより、わたしを顧みてください。」(16節)
  いつくしみ深い神の愛、神のあわれみの豊かさにより、神の民は支えられ、恵みを享受してきた。裁きの中にも回復の約束があった。真の悔い改めには必ず豊かな赦しが伴った。
その神のいつくしみ、あわれみの極点がキリスト・イエスの十字架の死だ。キリストの生き様を見れば神のいつくしみとあわれみの豊かさがどれほどかが分かる。神が私達のためにいのちを投げ出してくださったのだから・・。
キリストにより、その神のいつくしみは私達の罪、種々の問題を飲みつくし、その恵みの有り余ることの故に、我等を豊かにする。
“あなたのいつくしみの故に感謝!アーメン”
 

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2008年3月12日(水) 聖書の箇所:詩篇70篇1〜5節/ 年間通読:ルカ 10,11章
「しかし、わたしは貧しく、かつ乏しい。神よ、急いでわたしに来てください。あなたはわが助け、わが救主です。主よ、ためらわないでください。」(5節)
  人は自分に何かができると思っているうちはなかなか神に向くことはできない。貧しい、救いようのない人間、自己の様相の深い洞察と顧みがあってはじめて、神の恵み、救いへの渇望が生まれてくる。そしてイエスの山上の垂訓のごとく、この神への渇望こそ祝福への原点ではないか。日常の生活の中で、弱さを、足りなさを覚えることなどいくらでもある。しかし、この認識から始まる神の救いの渇望こそ、豊かな祝福への出発点であることを覚えつつ、私達の“貧しさ”を神の前に打ち明けよう。
“主よ、貧しい私をあわれみ、恵みを注いで下さい。アーメン”
 

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2008年3月13日(木) 聖書の箇所:詩篇71篇1〜24節/ 年間通読: ルカ 12,13章
「しかしわたしは絶えず望みをいだいて、いよいよあなたをほめたたえるでしょう。」(14節)
  どうにもならない状況などいくらでもある。この詩篇の著者のごとく、苦難の袋小路に入り込んでしまうことがある。日常の生活の中で、目に見える世界だけに目を留めるならば、失望することが多い。
しかし心を神に向けるならば、うるわしい私達の主、キリストに目を向ける時、そこに無限に広がる可能性と希望を発見する。道なき所に道を切り開き、荒野に泉を沸かせ、無から有を生ぜしめるのは神である。 “神に不可能なことはない”、これが歴史の中で証明され、キリストの救いにおいて示されてきた真理だ。あなたの“不可能”にもこの恵みの真理が適用される。
“あなたに望みを置けますように。アーメン”
 

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2008年3月14日(金) 聖書の箇所:詩篇72篇1〜20節/ 年間通読:ルカ 14章
「彼は弱い者と乏しい者とをあわれみ、乏しい者のいのちを救い、彼らのいのちを、しえたげと暴力とからあがなう。彼らの血は彼の目に尊い。」(13,14節)
  王の詩篇であるが、将来、来り給う究極の主、キリストを予言させるかのような詩篇である。王はその民を守る。しかし、弱いもの、乏しいものに関心を向け、命がけで守ろうとする王はそういない。弱者に価値を見出せないからだ。
しかし我等の王、イエスこそはそのような者の血(=いのち)こそかけがえのないものとして、愛し守りを与えて下さる。この究極の王は私達へのその深い愛の故に、罪のしえたげ、暴力に苦しんでいた我等を、王の命と引き換えに贖い、究極の解放を与えてくださった。
“愛に富む王、イエス様、あなたの救いを感謝します。アーメン”
 

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2008年3月15日(土) 聖書の箇所:詩篇73篇1〜28節/ 年間通読:ルカ 15,16章
「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。」(25節) 
  私たちの周りで悪い人、ずる賢い人がとくをして豊かであることがある。また神を恐れ正しく歩むことが損に思えることがある。そのことを思いめぐらした詩人の結論がここにある。
悪によってどんなに栄えていても、神様の前に立たされるとき、一瞬にして滅ぼされてしまう。どんな富も栄華も意味をなくしてしまう。主が、今すぐ滅ぼされないのは、悔い改めるのを待っておられるからである。
私たちも愚かな者である(22節)が、主と共に歩くとき、主が私たちを倒れないように支えて下さる。 それは富にまさるものである。
“父よ。あなたが支えとなって下さることを感謝します。アーメン”
 

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2008年3月16日(主日) 聖書の箇所:詩篇74篇1〜23節/ 年間通読:ルカ 17,18章
「昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは光と太陽とを設けられた。」(16節)
  この箇所は多くの嘆きの言葉の中で主に目をとめて与えられた光である。現代でもいろいろな面で、神様の存在も働きも否定するような考え方が幅を利かせている。
ではそれで人間は強く幸福になったのだろうか。むしろ逆である。神様から愛されている自覚、生きる目的を失い、かえって利己的な者、不安な者になってしまった。
私たちが御子をも惜しまない神の愛、神の栄光を表わす生き方を知っていることはなんと大きな恵みであろうか。 この宇宙も光も造られた主が叫びを聞いて下さる。
“父よ。創造主なるあなたが嘆きを聞いて下さり感謝します。アーメン”
 

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2008年3月17日(月) 聖書の箇所:詩篇75篇1〜10節/ 年間通読:ルカ 19,20章
「われらはあなたのみ名を呼び、あなたのくすしきみわざを語ります。」(1節)
  神様への感謝の詩となっているが、多くの虐げを通されて出てきた賛美である。私たちの悲しみの一つは公平に扱われていない、認められていないということである。
本当に私たちを公平に取り扱うことができるのは、全てのことをご存知で私のことも相手のこともご存知の神様だけである。その神様が裁かれるのであるから、私たちは苦しみの中も忍耐することができる。たださばきのための「定まった時」(2節)を待たなければならない。神は主イエスと共に下げられた者を主イエスと共に引き上げて下さる。
“神様。公平な裁きに感謝し、人々にみわざを語ります。アーメン”
 

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2008年3月18日(火) 聖書の箇所:詩篇76篇1〜12節/ 年間通読:ルカ 21,22章
「神が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙した。」(8,9節) 
  敵に対する勝利の歌である。聖書の中に窮地に立たされた主の民が、神様の大いなるみ業で救い出されたことが何度も出てくる。そのとき敵の武力は何の役にも立たなかった。民は大いに喜んだ。
だが冷静になってみると、私たちがこの主の前に立つということはどういうことであろうか。やがて主が再び来られ、裁かれるとき、そのみ前に誰も立つことができない。けれども主のさばきは、信じる者には、救いの時である。主の光栄と威厳とを覚えつつ、厳かに主を待ち望もう。
“主よ。主の来臨とさばきを喜びと恐れをもって待ち望みます。アーメン”
 

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2008年3月19日(水) 聖書の箇所:詩篇77篇1〜20節/ 年間通読:ルカ 23,24章
「わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う」(12節)
  嘆きのうたである。詩人はいつまで続くかわからない苦しみのなかで、慰められることも拒み、夜、神様のこと、自分のことを深く思っている。
現状での苦しみも大きなものであるが、クリスチャンにとって、主がどこにおられるかわからないことほど苦しいことはない。主のほかに頼る者がないのだから。しかし私たちはそれでも、主にむかって叫ぶのである。
この詩人は「深く思う」(3,6,12節)中で、神様への嘆きからかつての神様の力あるみ業へと目を転じられていく。やはり私の救いは神にある!!
“神様。苦しみの中であなたを深く思うことができますように。アーメン”
 

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2008年3月20日(木) 聖書の箇所:詩篇78篇1〜72節/ 年間通読:民数記 1〜3章
「主はあかしをヤコブのうちにたて、その子孫に教うべきことをわれらの先祖たちに命じられた。」(5節) 
  主は私たちが子どもたちにも主の救いを証するように命じられている。それは子どもたちも主を恐れ、主の救いに預かり、主の教えを守るためである。
私たちが主の十字架を見上げ、悔い改めて救われた背後にも、多くの人々の祈りと証とがあった。そして私たちも子どもたちのために多くの祈りと証とをもって、救いへと導くことができる。
この箇所を見ると、主を試みることを止め、主に従順になることがポイントである。また子供の救いは、親だけでなく、教会全体の祈りである。
“神様。この尊い救いを子どもたちにも継承させて下さい。アーメン”
 

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2008年3月21日(金) 聖書の箇所:詩篇79篇1〜13節/ 年間通読:民数記 4〜6章
「あなたの大いなる力により、死に定められた者を守りながらえさせてください」(11節)
  神の民であるはずのイスラエルが異邦人に踏みにじられ、神様がどこにいるかわからない状況である。異教の地で信仰をもつ私たちにも「なぜ」と神様に訴えるようなことが起こってくる。あるいは様々な罪が自分を責めてくるかもしれない。
そのような私たちは、ただただ主の前に罪の赦しを祈るばかりである。そして自分の潔白や名誉でなく、主の栄光に助けを求めるばかりである。そして主の十字架には、罪を赦す力があり、死人をよみがえらせる力がある。私たちはこの主に救われ、栄光をほめ讃える。
“神様。あなたは赦し生かすお方です。助けて下さい。アーメン”
 

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2008年3月22日(土) 聖書の箇所:詩篇80篇1〜19節/ 年間通読:民数記 7〜9章
「イスラエルの牧者よ、羊の群のようにヨセフを導かれる者よ、耳を傾けて下さい」 (1節) 
  ここでは主を牧者、羊飼いになぞらえている。羊飼いはまず羊の事を良く知っているのである。わたしたちの弱さ、足りなさなどを私達が知る以上に、主はご存知なのである。
また、私たちの行くべき道をも備えていてくださるのである。更に、私たちを養い、憩わせ、正しい道に導かれるお方でもあるのである。そして、私たちの祈りに耳を傾け給うお方でもあるのである。
“主よ、あなたが私の牧者となって下さることを心から感謝申し上げます。従順に従わせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月23日(主日) 聖書の箇所:詩篇81篇1〜16節/ 年間通読:民数記 10〜13章
「わが民よ、聞け、わたしはあなたに勧告する。イスラエルよ、あなたがわたしに聞き従うことを望む」(8節)
  「あなたが悩んだとき、呼ばわったのでわたしはあなたを救った」(7)とあるように、イスラエルの民が奴隷の身から救われて、自由にされたにもかかわらず、彼らは、欲に負け、他の神に走っていったのである。そこで神は、ここで改めて、神に聞き従う事を勧めている。
ここでは「勧告する」、また「望む」と言われている。これも注意すべき事である。その人の主体的な、自由な決断を期待しているのである。
“主よ、あなたの期待に答えて、すすんで従う者として下さい。アーメン”
 

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2008年3月24日(月) 聖書の箇所:詩篇82篇1〜8節/ 年間通読:民数記 14〜16章
「神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる」。(1節)
  神の法廷が言われている。御使いたちがそこに集められるものと思われる。そこで判決が下されるのである。特にここでは、審きの判決が取り上げられている。誰が審かれるかと言うと それは、偶像の神である。エジプトでの奇跡では、まず、みな神々への審きがなされたのである。
多くの場合、強いものや富んでいる者に加担するのが偶像の神ある。しかし、主なる神はむろその反対で、弱い者、苦しむ者、貧しい者を顧み、大切にして下さるのである。
“主よ、あなたが審き主であることを覚え、弱い者に目をとめさせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月25日(火) 聖書の箇所:詩篇83篇1〜18節/ 年間通読:民数記 17〜20章
「彼らの顔に恥を満たしてください。主よ、そうすれば彼らはあなたの名を求めるでしょう」。(16節)
  周りの国々とアッスリヤが契約を結んで、自分の国を滅ぼし、抹殺しようとして、攻めて来ようとしていた時に、イスラエルの民は主の助けを真剣に求めた。しかし、なかなか聞かれないので、ますます求め続けているのがこの詩篇である。そして、敵が敗北して、恥に満たされる事を求めている。そのような時に、敵が神さまを求めるようになると言う事を歌っているのである。
なんと言う不思議な御業であろうか。
“主よ、あなたの敵を辱めて、あなたを求めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月26日(水) 聖書の箇所:詩篇84篇1〜12節/ 年間通読:民数記 21〜23章
「主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません」。(11節)
  詩篇の著者は全身全霊をもって神を賛美している(2)。その中で、神の宮に住む事の幸い、エルサレムへの大路に心があることの幸いを歌っている。
同時に、神が祈りを聴いて下さる事を真剣に求めている。その中での信仰の確信が上記の御言葉である。神が太陽に例えられている。太陽はあらゆるものに豊な恵みと祝福とをもたらして下さるのであるが、神も同様なのである。
“主よ、あなたの前に直く歩ませて下さい。アーメン”
 

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2008年3月27日(木) 聖書の箇所:詩篇85篇1〜13節/ 年間通読:民数記 24〜26章
「いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけし、まことは地からはえ、義は天から見おろすでしょう」。(10、11節)
  主がその民、その聖徒、その心を主に向ける者、主を恐れる者に対して示される神の性質である。同時にそのような者に与えられる性質でもある。
神は、イエス・キリストによって、この事を現して下さり、これを与えて下さるのである。そして、これらのものは信じる者に与えられるのでる。
“主よ、私たちにあなたのいつくしみとまこと義と平和とをお与え下さい。アーメン”
 

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2008年3月28日(金) 聖書の箇所:詩篇86篇1〜17節/ 年間通読:民数記 27〜30章
「主よ、あなたの道をわたしに教えてください。わたしはあなたの真理に歩みます。
 心をひとつにしてみ名を恐れさせてください」。(11節)
  ここでも神への真剣な祈りが、ささげられている。ただ祝福や恵みを求めるのでなく、神さまの道を教えて下さるように、また、一つ心をもって、神を求めさせて下さるように求めている。
彼は神の道は真理である事を信じており、そのことによって、真理に歩める事を確信しているのである。それは、一つ心をもって求める者に与えられるのである。
“主よ、一つ心をもってあなたの真理を求めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年3月29日(土) 聖書の箇所:詩篇87篇1〜7節/ 年間通読:民数記 31〜33章
「主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。」(1節) 
  シオンは神に選ばれ、愛された聖なる場所だ。シオンの丘には神の臨在溢れる神殿が建てられ、そこに集う民たちが、神のいのちと恵みに与り、神の民としての認識、自己理解を深めていくあらゆる面での土台が形成されていった。
私達の父なる神は、キリストをお遣わしになり、われらのうちに生きて下さる主、イエス・キリストを通して、本来の人間としての有るべき姿への回帰への基をすえ、神に召されたものとしての新たな自己理解とあらゆる面における実際的な恵みとともに、新たな人生へと出発させて下さる。 ハレルヤ! 
“主よ、キリストにあって、私達の基をすえて下さり心から感謝します。アーメン”
 

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2008年3月30日(主日) 聖書の箇所:詩篇88篇1〜18節
年間通読:民数記34〜36章 ヨハネ 1章
「しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます」。(13節)
  全く希望が見えない混沌とした苦しみの中にいる著者が書いたと思われる詩篇だ。全体的に暗く、重い苦しみの叫びの中で、唯一希望が見出せるのがこの13節だ。あした(朝明け)こそは、神の助けが与えられる時だと著者は信じて疑わなかったのであろう。
どんなに暗黒の状態に私達が置かれようとも、神への叫び、祈りはそこに一筋の希望の道を拓いていく。地上の苦境、困難には必ず終りがある。しかし、神の助けと恵みは無尽蔵で、キリストにある希望は永遠に続き、私達を生かす。
“苦しみの中に、祈る力を与えたまえ。アーメン”
 

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2008年3月31日(月) 聖書の箇所:詩篇89篇1〜52節/ 年間通読:ヨハネ 7〜8章
「しかし、わたしはわがいつくしみを彼から取り去ることなく、わがまことにそむくことはない。」(34節)
  エルサレム陥落以降に書かれたとされる嘆きの歌だ。厳しい現実にあなたのいつくしみと真実はどこへ行ってしまったのかと、訴える。キリストにおいて明らかにされた神のいつくしみとまことは消えることなく、いつも私達の全生活のあらゆる場面に、心のうちに注がれている。
時折、神様のいつくしみとまことなるご性質からかけ離れ、愛の神と厳しい現実の間に接点を見いだしえない状況に置かれる時がある。しかし一度、キリストにあってあなたに明らかにされたいつくしみとまことの愛は消えることはない。
“主よ、そそがれるあなたのいつくしみとまことの愛を感謝します。アーメン”
 
 

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