デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年4月のデボーション
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2008年4月1日(火) 聖書の箇所:詩篇90篇1〜17節/ 年間通読:ヨハネ 9〜11章
「山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。」(2節)
  永遠ということばをしばしば、私達は口にするが、いったい永遠とはどういうことなのか、見当もつかない。神の永遠性という視点から見てみると、なんと私達のよわいは短くはかないものであろうか。
“わたし”のいのちに目をやるならばそこにはむなしさしか残らないが、天地創造の前から存在し、天地が滅びても変わることなく、存在される主、キリスト・イエスが伴われる“わたし”の存在に目を留めるとき、存在の意義と喜びを知りえるようになるのではないか。
“とこしえにおられる方がとこしえに私と共に歩んでくださるから感謝します。アーメン”
 

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2008年4月2日(水) 聖書の箇所:詩篇91篇1〜16節/ 年間通読:ヨハネ 12〜14章
「彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。」(15節)
  神の信仰者に対する一つの真理は、我々が主を呼び求める時、必ず主は答えて下さるということだ。しかし、ここには私達と神様との時間に対する感覚の違いあるということがあるということを理解しておかなくてはならない。神は永遠という時間的な制約を超えたところから、物事を垣間見る。しかし私達はそうではない。そこに神の応答がタイムリーである時(私達から見て)、とそうでない時のギャップがある。
業をなす最善の時は主がご存知で、我らの祈りに、主は必ず答えて下さる。ただ神の最善の時に関する定義と、私達のそれとはちがうだけだ。
“祈りを聞かれる主よ、感謝します。アーメン”
 

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2008年4月3日(木) 聖書の箇所:詩篇92篇1〜15節/ 年間通読:ヨハネ 15〜18章
「しかし、主よ、あなたはとこしえに高き所にいらせられます。」(8節)
  主は超越者である。この世の混沌した状況や、苦境に飲み込まれることは決してない。神はいかなる状況にも左右されることなく、超越的な神として存在していく。しかしキリストはこの世の惨状をよしとせず、この罪によって痛んだ地に来て、罪の崩壊を負った人々のために命をお捨てになることを選ばれた。
超越的な神であることには変わらないが、時間に、地理的に、生物学的な条件にあえて縛られることを選んで私たちのところへ来てくださった。肉をとってこられた超越者、キリスト。この方が私達の混沌から引き上げ、究極的な平安を注ぎ込んで我等を守る。
“あなたの安心、平安を感謝します。アーメン”
 

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2008年4月4日(金) 聖書の箇所:詩篇93篇1〜5節
年間通読:ヨハネ 20,21章 申命 1,2章
「主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます。」(1節)
  ヤーウェ(主)が王となられるということは、一回きりの出来事だけでなく、王であり続けるという継続的な意味を持つ。
キリストは約2000年前に救い主としてこの地に生まれた。救いの道を切り開き、全うする王として来られた。私達の定義する世的な王ではなく、愛する羊のためにいのちを捨て、仕えるしもべなる王としてこられた。愛なる王、死から復活された勝利ある王、キリストは私達に義の衣を着せて下さる。その力と愛と恵みを持って、この腐敗する世にあって力強く生きることができるように備えてくださる。
 “王なる主よ、あなたの勝利をいつも味わわせて下さい。アーメン”
 

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2008年4月5日(土) 聖書の箇所:詩篇94篇1〜23節/ 年間通読:申命 3,4章
「しかし 『わたしの足がすべる』 と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみはわたしをささえられました。」(25節)
  主のいつくしみによってわなより逃れたと言える人はなんと幸いであろうか。この著者もそのひとりである。しかし決して私が正しく相手が悪いからであると言っているのではない。
12節に「主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。」とある。そこには私も滅びる者の一人であったが、主が私を懲らし、主を知る者として下さったという畏怖と感謝があふれている。滅ぶべき私のために、救い主を遣わし、罪も煩いも病も負って下さった主を賛美しよう。
“主よ。この卑しい者を心にとめて下さり感謝です。アーメン”
 

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2008年4月6日(主日) 聖書の箇所:詩篇95篇1〜11節/ 年間通読:申命 5〜7章
「主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。」(7節)
  「我らの造り主」(6節)なる神様は、私たちのあらゆる生活と人生に責任を負っていて下さるお方である。それは羊飼いが羊のあらゆることを気遣っていることにたとえられている。
羊飼いは羊のために大きな犠牲を払っている。だがどんな愛も心遣いも受ける側にその意志がなければ、強制であり、人格を踏みにじるものになってしまう。造り主の大きな犠牲を無視して、滅びに向かうほど愚かなことはない。「み声を聞く」とは「自らの意志で聞き従う」ことである。
“造り主なる主よ。愚かさを捨て素直に聞きます。アーメン”
 

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2008年4月7日(月) 聖書の箇所:詩篇96篇1〜13節 / 年間通読:申命 3〜4章
「新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。」(1節) 
  この詩篇を開くとまったく神様の栄光、礼拝、賛美に圧倒される。いつもそうだがまず何の「助け」も解説もなく御言葉を味わっていきたい。天を造られた主は、すべての神に比べることのできない優れたお方である。また諸々の国の支配者にしてくすしきみ業をなさるお方である。誉れ、威厳、力、うるわしさにあふれておられる。荘厳に礼拝されるお方。救いを成就されたお方はやがて王として地をさばくために来られるお方である。
私たちはこの圧倒的な主の恵みに満ちあふれ、主を賛美し救いを宣べ伝えるのである。
“神様。偉大な主に新しい賛美を歌います。アーメン”
 

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2008年4月8日(火) 聖書の箇所:詩篇97篇1〜12節/ 年間通読:申命 5〜7章
「すべて刻んだ像を拝む者、むなしい偶像をもってみずから誇る者ははずかしめをうける。」(7節)
  天に帰られた主イエスは再び来られることを約束しておられる(使徒1:11)。主が王となられた時、二つの両極のことが起こってくる。一つは主がさばいて救って下さったという大きな喜びである。もう一つは、全地がろうのように溶け(5節)、恐れおののくことである。
全地を造り、全地を王としてさばかれる主を偶像と比較することは何と愚かな背信行為であろうか。私たちのうちに偶像礼拝や占い、主にまさる大切なもの、罪、悪習慣、自我があるならば直ちに悔い改めて主の十字架を仰ごう。
“主よ。王なる主を仰ぎ、悔い改めます。救いを感謝します。アーメン”
 

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2008年4月9日(水) 聖書の箇所:詩篇98篇1〜9節/ 年間通読:申命 8〜11章
「主はそのいつくしみと、まこととをイスラエルの家にむかって覚えられた。」(3節)
  この詩の中にも「主は地をさばくために来られる」(9節)と主がさばかれることを歌っているが、主へのたたえで満ちている。主がさばかれるということはいたずらに恐れるべきことではなく、むしろ主の救いが表される時である。
イスラエルの民もエジプトで奴隷として苦しみ、叫びながらどうやって脱出するかわからなかった。それどころか出エジプトを恐れてさえいた。そこに主のいつくしみとまこととが届いたのである。私たちの行き場のない悩みも主は、聞いて下さり、さばいて救って下さるお方である。
“父よ。私の悩みを聞き、いつくしみとまこととを表して下さい。アーメン”
 

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2008年4月10日(木) 聖書の箇所:詩篇99篇1〜9節/ 年間通読:申命 12〜15章
「彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。」(6節)
  この箇所にはモーセとアロン、サムエルの名前があげられて、彼らが主に呼ばわったとき、主が答えられたことが記されている。その時、主が私のどんな祈りに答えて下さったかをもう一度思い起こそう。
イエス様が救い主として来られ、十字架の死をもってあらゆる罪と悪とを負って下さった。この主によって私たちはゆるされている。この救いは私たちの祈りへの最善の答えである。この喜びをもって、主の御名をあがめよう。そして家族や友人達にもこの恵みを分かち合おう。
“神様。私の祈りにもすでに答えて下さっていること感謝します。アーメン”
 

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2008年4月11日(金) 聖書の箇所:詩篇100篇1〜5節 / 年間通読:申命 16〜19章
「感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。」(4節) 
  表題には「感謝の供え物のための歌」とある。私たちの神様への感謝は様々である。特にこのアドベント第4週、救い主が私のためにこの世に来て下さったことを覚えて感謝の礼拝をささげたい。
全能で無限の神であられるお方が、人と同じになられたこと、十字架の死に至りそしてよみがえられたこと、そして世界を治められること。この感謝は一人でするよりも皆で一緒にささげたい。疲れている者のためには皆でとりなそう。また心からの感謝をもって主に献げ物をしよう。
“父よ。救い主をくださったこと心から感謝します。喜んで献げ物をします。アーメン”
 

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2008年4月12日(土) 聖書の箇所:詩篇101篇1〜8節/ 年間通読:申命 20〜23章
「ひがんだ心はわたしを離れるでしょう」。(4節)
  「王の潔白の誓い」又は「王の忠誠の誓い」といわれる詩編である。王は全き道に心をとめ、直き心をもって歩み、そして、卑しいものを目の前に置かないで、神にそむくものの行いを憎むのである。そのような時、ひがんだ心が離れるのである。ひがんだ心は「曲がった心」とも訳され、全き心、直き心の反対である。
わたくしたちは全きお方であるイエス・キリストにある時、ひがんだ心から解放されるのである。
“主よ、全きお方であるイエスさまに目を留めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年4月13日(主日) 聖書の箇所:詩篇102篇1〜28節/ 年間通読:申命 24〜27章
「これらは滅びるでしょう。しかしあなたは長らえられます。これらはみな衣のように古びるでしょう。あなたがこれらを上着のように替えられると、これらは過ぎ去ります」(26節)
  詩編の記者は苦しみと嘆きの故に、死にひんしている中で、永遠不変にして,自存なる神に目を向けるようになり、そのお方によって、シオン、即ち神の国に住み続ける事に導かれたのであった。このことは、ヘブル書1章を見るとイエス・キリストの神性を記したものとして、引用されている。
イエスにおいて、わたくしたちは、永遠の神の国へ入るものとされるのである。
“主よ、永遠の神の国が備えられていることを感謝します。アーメン”
 

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2008年4月14日(月) 聖書の箇所:詩篇103篇1〜22節 / 年間通読:申命 28〜29章
「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」(2節)
  神さまのめぐみは「すべての不義が赦されることであり、すべての病いが癒されることでもあり、死んでも生きかえることであり、生きながらる限り、良きもので飽きたらわせて下さること」である。
わたくしたちはこれらの事をいつも新鮮な気持で受けとめ続ける事が大切なのである。これらのめぐみが、今、イエス・キリストによって私たちにも与えられているのである。わたくしたちは、これらのめぐみに、心をとめ、主を精一杯賛美するものとなろう。
“主よ、めぐみを数え忘れないようにして下さい。アーメン”
 

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2008年4月15日(火) 聖書の箇所:詩篇104篇1〜35節/ 年間通読:申命 30〜32章
「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」(24節)
  神はその霊をもって、すべてのものを造られるのである。それはまた神の知恵によるものでもある。同じく、わたくしたちの信仰の生活も、豊かさと、神の巧みな知恵によって、導かれるすばらしいものにされるのである。そのためには、神にささげた歩みと思いが(34)、大切である。
“主よ、あなたの霊によって、わたくしたちを全く、新しくして下さい。アーメン”
 

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2008年4月16日(水) 聖書の箇所:詩篇105篇1〜45節
年間通読:申命 33,34章 使徒 1章
「これは彼らが主の定めを守り、そのおきてを行うためである。主をほめたたえよ。」(45節)
  イスラエルの救済の歴史を想起する賛美の詩編である。イスラエルの民が神の救いと祝福とを受けたのは、「主の定めを守り、そのおきてを行うため」であったとある。このことによってイスラエル人を救った神を証するためであったのである。
わたくしたちも、イエスさまの救いに与かったのはイエスさまを証するためなのである。
“主よ、あなたの救いを宣べ伝えさせて下さい。アーメン”
 

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2008年4月17日(木) 聖書の箇所:詩篇106篇1〜48節/ 年間通読:使徒 2〜4章
「けれども主はその大能を知らせようと、み名のために彼らを救われた。」(8節)
  同じイスラエルの民の歴史のなかでの不従順の告白を想起することによる賛美の詩篇である。残念な事に救いの歴史は不従順の歴史であり、赦しとめぐみの歴史である。
神はその力を証するために、神ご自身の為に、イスラエルの民を救われたのである。決して、イスラエルの民が、立派で、従順であったからではないのである。神の憐れみ以外ないのである。
“主よ、あなたのはかり知ることのできない憐れみを感謝します。アーメン”
 

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2008年4月18日(金) 聖書の箇所詩篇107篇1〜43節:/ 年間通読:使徒 5〜7章
「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い出された。」(28節) 
  この御言葉と同じようなものが8,13,19節である。それの後には、「主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように」(8,15,21,31)と言う御言葉も続いているのである。
主の民が主に呼ばわる度毎に、その変らない契約の愛の故に、全能の力を働かせて、救い出してくださったのである。キリストにあるわたくしたちにはそれ以上に救いの手がさし伸べられるのである。
“主よ、あなたの救いを感謝し、あなたを賛美します。アーメン”
 

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2008年4月19日(土) 聖書の箇所:詩篇108篇1〜13節 / 年間通読:使徒 8〜10章
「あなたのいつくしみは大きく、天にまでおよびあなたのまことは雲にまで及ぶ」(4節)
  主のいつくしみとまことは私達の想像をはるかに超える。捕囚期の中において、将来の解放の希望を指し示し、実際にペルシャのクロス王により解放され、帰還した。捕囚後もエズラ、ネヘミヤ、ゼカリヤ、ハガイらを用いて民を励まし、主にある変わらない養いと救いを与え続けた。
神のいくしみとまことは概念や人間の側の主観的な思い込みでもない。歴史の中で、その神の民たちに具体的な救いを通して顕わされてきた神の愛だ。歴史を通じ示されてきた神のいつくしみとまことがキリストを通してわれ等のうちに具現化されていく。
“私達にあふれるあなたのいつくしみとまことを感謝します。アーメン”
 

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2008年4月20日(主日) 聖書の箇所:詩篇109篇1〜31節/ 年間通読:使徒 11〜13章
「あなたのいつくしみの深きにより、わたしをお助けください。わたしは貧しく、かつ乏しいのです。わたしの心はわがうちに傷ついています。」(21〜22節)
  複数の敵の悪行に苦しみ、救いを求める詩人の訴えが書かれている。苦しみの中にも詩人は確かな確証を持ち続け、神に祈る。"神の私に対するいつくしみのゆえに、私を助けてくださる。″この確証が詩人を支える。
この社会はどう猛だ。容赦がない。私達を容赦なく傷つける。しかし、神のいつくしみの具体的な現れであるキリスト・イエスが私達を覆い、囲み、守り、そして神を知らない社会の中で傷ついた私達を内側からいやす。
“主よ、あなたが私の内を清め、癒してくださることを感謝します。アーメン”
 

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2008年4月21日(月) 聖書の箇所:詩篇110篇1〜7節/ 年間通読:使徒 14〜16章
「主はわが主に言われる、『わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ』と。」(1節)
  新約聖書の中にもっとも頻繁に引用される詩篇である。キリスト自身、これを引用してダビデに勝るメシヤの優位性と主権性を語られた。(マタイ22:43〜45等)
古代オリエントでは戦いに勝った王が敗戦国の武将の首に足をおいた姿でよく描かれている。この姿はキリストの究極的な勝利を想起させる。右の座は神の権威をもって神の支配に参与していくことを意味するが、キリストがわれらの先頭に立って神の国を確立していく。彼は武力ではなく、愛の福音を持って神の国を、愛するものたちと共に確立していく。
”キリストの国が、我等を通し、その力と愛を持って確立されていきますように。アーメン”
 

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2008年4月22日(火) 聖書の箇所:詩篇111篇1〜10節/ 年間通読:使徒 17〜19章
「主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。」(10節) 
  ハレルヤ詩篇集と呼ばれるものの第1である。旧約における知恵の源は主を敬い、恐れることだ。この究極的な知恵が人生の祝福の源であることを恐れてはならない。
個がもてはやされ、「私が思うこと」が最も大切なものとされているこの時代の中では、この天的な権威やその存在を嫌う。
クリスチャンといえどもこの実存、啓蒙主義の流れに巻き込まれかねない。恐れ、敬わなければいけないお方をへりくだりを持って崇めていかなければいけないということは、いつの時代においても変わらない、普遍なる神の知恵だ。
”主よ、心からの礼拝ができるよう、謙りの心を下さい。アーメン”
 

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2008年4月23日(水) 聖書の箇所:詩篇112篇1〜10節 / 年間通読:使徒 20〜22章
「正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。」(6節)
  神の聖徒がどのような者かが記されている。当然、神の基準に照らし合わされるなら、私達は正しい者とは決して言えない。
しかし、キリストにあって罪赦され、神の前に正しいとされている。信仰により、キリスト・イエスにより正しい者とされている私達を、主はとこしえに覚えていてくださり、心配していてくださり、励ましと、慰めと、適切な助けをもって、さまざまなことの中に揺れ動かされなく、立つべきところに踏みとどまらせてくださる。
地は揺れ動き、社会は激動し、人は移り変わるが、主にある私達は動かされない。
“変わらない主を仰ぎつつ、神の側に立ち続けさせてください。アーメン”
 

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2008年4月24日(木) 聖書の箇所:詩篇113篇1〜9節/ 年間通読:使徒 23〜25章
「今より、とこしえに至るまで主のみ名はほむべきかな。日のいずるところから日の入るところまで、主のみ名はほめたたえられる。」(2,3節)
  日常の生活の中にどっぷりと浸かっていると心の目線が限りなく下がってくる。そうなると神様の栄光、威厳、力、美しさを見失ってしまうことになる。私達のうちに神はとてもちっぽけな存在となってしまう。
折々に目を、心の目線を上げて月、星、太陽を造り、自然を、私たちを造り、それを支配し、治め、守られる主の栄光を、そのほまれを見て、賛美をささげていくことが大切なことだ。賛美を通し霊的な視界が広げられていく。
“主よ、あなたの栄光と誉れ、美しさを見させてください。アーメン”
 

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2008年4月25日(金) 聖書の箇所:詩篇114篇1〜8節/ 年間通読:使徒 26〜28章
「主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。」(8節)
  出エジプトの奇跡と神の救いを称える歌である。神は荒野での歩みを不思議なる奇跡と日々の養いをもって、支えた。そこには出エジプト、紅海横断、シナイ山での律法授与、ヨルダン渡河という不可能を可能にして導いてくださった神が私達においても、その業をなして、守り、支え、前進させてくださるという確かな詩人の確信がある。
歴史を通し、選民たちに御業をなされてきた神はキリストを通し、選民とされた私達の“どうしようもない”状況のうちにも働き、水なきところに泉を沸かせるような業を持って介入し、救われる。
“主よ。我らのための、あなたの生ける御業を感謝します。アーメン”
 

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2008年4月26日(土) 聖書の箇所:詩篇115篇1〜18節/ 年間通読:ローマ 1〜4章
「また、小さい者も、大いなる者も、主を恐れる者を恵まれる。」(13節)
  主は、私たちにその栄光の中から恵みを注いでくださるお方である。主の栄光の前では、人が強いとか弱いということは本当に小さな差にすぎない。私たちは自分の姿やこれまでの成果をみて、主の恵みを小さなものと考えていないだろうか。また失敗を恐れて、一歩踏み出さないでいることはないだろうか。
主は、小さい者を通しても恵みを表すことのできるお方である。ただ主を恐れることこそが重要である。主よりも恐れているものはないか。主よりも大切なものはないか。偶像は処理されたか。主は主を恐れる者を恵まれる。
“主よ。栄光の恵み注ぎを感謝します。アーメン”
 

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2008年4月27日(主日) 聖書の箇所:詩篇116篇1〜19節/ 年間通読:ローマ 5〜8章
「主よ、わたしはあなたのしもべです。あなたはわたしのなわめを解かれました。」(16節)
  この著者が私は主の僕ですと言っていることは、心のそこからの言葉である。死の一歩手前で、主に呼ばわって助け出されたからである。私たちの中にも実際に死の淵より助け出されたものもいる。また主は私たちを霊的な、永遠の死から解放して下さった。
著者は、死から解かれた喜びを歌い、喜んで主のしもべとなっている。私たちもキリストの死という大きな犠牲によって死から解放された。だから喜んでこの自由を主にささげ、主の僕となり、歩みの一つ一つ、生涯のすべてを主に明け渡して歩むのである。
“主よ。私は解放者であるあなたの僕です。アーメン”
 

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2008年4月28日(月) 聖書の箇所:詩篇117篇1〜2節/ 年間通読:ローマ 9〜11章
「もろもろの国よ、主をほめたたえよ。もろもろの民よ、主をたたえまつれ。」(1節)
  イスラエルの歩みを見ると、自分たちと他を区別して神様の祝福は自分たちだけにあるものと考えることが多かった。しかし、アブラハムの選びに立ち返っても、主は彼らを通してすべての民の祝福を告げている(創世記12:3)。これは新約にいたって聖霊によって証されている。
私たちが多くの人々への祝福を、内にとどめていることはないだろうか。主の恵みを信仰をもって外へあふれ出させていく時に、私たちも家族や隣人、多くの人々が主をほめたたえる姿を見て、さらに主を喜ぶことができる。
“父よ。主の恵みを人々に証し、皆で主をたたえられますように。アーメン”
 

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2008年4月29日(火) 聖書の箇所:詩篇118篇1〜29節 / 年間通読:ローマ 12〜15章
「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。」(22節)
  この詩篇は感謝に満ちあふれている。なぜなら、多くの敵に囲まれ、主に懲らされたが、主が味方となって勝利を与えられたからである。人々から捨てられた著者を主は高く上げられたからである。
この22節のお言葉は、キリストを指している(1ペテロ2:7)。人々に捨てられ、辱めを受け、十字架の死を遂げられたこのキリストを、神は救いの基、教会の基として下さった。
死を打ち破られた主が味方であるなら、私たちは何を恐れるのであろうか(6節)。恐れは主と共によみがえらされる希望を前に消えてしまうのである。
“主よ。主の愛の大きさを覚え感謝します。アーメン”
 

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2008年4月30日(水) 聖書の箇所:詩篇119篇 アレフ 1〜8節
年間通読:ローマ 16章 士師1,2章
「わたしは、あなたのもろもろの戒めに目をとめる時、恥じることはありません」(6節)
  恥じることがないとはどういうことだろうか。神様の前にでても心がきよくとがめられることがないから恥じることがないのである。もし子が親の前に出る時に、いつも恥やとがめを感じていたら正しい関係とは言いえない。むしろ子は、親の前で何かしら安心するものである。
私たちが父なる神の前に出る時にいつも引け目や、とがめを感じ恥じているとすれば正しい関係ではない。どんなに未熟でも、愛が注がれていることを覚え、罪を悔い改め、主のご計画に心を委ね、全き平安の中を歩ませていただこう。
“父よ。心の内を探り、きよめて下さい。平安を感謝します。アーメン”
 

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