デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年5月のデボーション
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2008年5月1日(木) 聖書の箇所:詩篇119篇 ベス 9〜16節/ 年間通読:士師 3〜5章
 「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」(11節)
  み言葉を内にたくわえると、そのみ言葉は不思議に必要な時に思い出されて、正しい方向を示し、私たちを御心に従って導いていく。それは神のみ言葉が生きて働いているからである。神様はそのみ言葉を事実として保証しておられる。
そして主イエスもみ言葉の成就のために十字架に向かわれた(マタイ26:53)。まさにみ言葉は、キリストの命に裏打ちされた事実である。何の根拠もなく消えるこの世の言葉と全く違っている。だからみ言葉には私たちを導く力がある。
“神様。み言葉をたくわえます。み言葉によって養い、罪よりお守りください。アーメン”
 

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2008年5月2日(金) 聖書の箇所:詩篇119篇 ギメル 17〜24節/ 年間通読:士師 6〜8章
「わが魂はつねにあなたのおきてを慕って、絶えいるばかりです。」(20節)
  この詩人は、主のおきてを恋い慕って、息が絶えて死ぬばかりになっていると言っている。とても激しい言葉である。主のおきてをどんなに慕っていることであろうか。
ところで神様は、私たちが滅びから救い出されるために御子を遣わし、文字通り命に代えて私たちを愛して下さった。私たちが主を慕う以上に、主が私たちを愛し慕って下さっている。
また主のおきてを慕い求める時に「目を開いて」「くすしき事」(18節)見させて下さる。ますます離れてはいられない、慕わずにはいられない主のおきてである。
 “父よ。主のおきてを慕います。くすしき事を感謝します。アーメン”
 

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2008年5月3日(土) 聖書の箇所:詩篇119篇 ダレス 25〜32節/ 年間通読:士師 9〜11章
「わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください」(25節)
  「魂がちりにつく」とは、悲しみと逆境の中で、心が打ちひしがれて、全く生きる力もなくなってしまった状態である。ダビデもサウルから逃げて、敵のペリシテの町チクラグにいた時、民と自分の妻子がアマレクの捕虜になり、民が心を痛め、ダビデを石で撃とうとした時、「神によって自分を力づけた」とある(サム上30:6)。
そのように、神が、即ち、神の御言葉こそがわたくしたちを生かし、勇気づけて下さるのである。
“主よ、あなたの御言葉によって打ちひしがれた時、このわたくしを生き返らせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月4日(主日) 聖書の箇所:詩篇119篇 へ 33〜40節 / 年間通読:士師 12〜14章
「わたしをあなたの戒めの道に導いてください。わたしはそれを喜ぶからです」(35節)
  神を喜ぶ時に、私たちはその御言葉と戒めとを喜ぶ事が出来るのである。神が恐ろしい存在となっている時には、その御言葉は、避けたいものとなり、強制されるものとなるのである。
神が愛するお方、また、喜ぶお方となるためには、まず神と和解し、神との平和が与えられることが必要である。そのためには、イエスさまの十字架による罪の赦しと、よみがえりによって義とされること(ローマ4:25)が、不可欠なのである。
“主よ、あなたを喜ぶ者として下さい。アーメン”
 

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2008年5月5日(月) 聖書の箇所:詩篇119篇 ワウ 41〜48節/ 年間通読:士師15〜18章
「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」。(45節) 
  「もしわたしの言葉にうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:31,32)とイエスさまは言われた。神の御言葉に生きる時に、真理を知り、真理は私たちを自由にして下さるのである。
人は本来、神の御旨に従うものとして造られたから、魚が水の中にいる時最も自由な如くに、御旨に生きる時、一番自由なのである。
“主よ、あなたの御言葉にとどまらせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月6日(火) 聖書の箇所:詩篇119篇 ザイン 49〜56節/ 年間通読:士師19〜21章
「わたしはあなたのさとしを守ったことによって、この祝福がわたしに臨みました」(56節)
  「キリスト教はご利益宗教ではない」と言われる。確かにそうである。しかし、ご利益がないのかというと大いにあるのである。大きな違いは、ご利益は目的でなく、あくまでも結果としてあるというのである。
「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、 必ずその百倍を受ける」(マルコ10:29,30)とイエスさまは言われた。まず捨てることささげる事からなのである。
“主よ、まず献げ、従わせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月7日(水) 聖書の箇所:詩篇119篇 ヘス 57〜64節/ 年間通読:第1コリント 1〜4章
 「主よ、地はあなたのいつくしみで満ちています。あなたの定めをわたしに教えてください」。(64節)
  いつくしみとはヘセドという言葉で神の真実な変らない愛のことである。ここでは地が神の真実な、変らない愛と恵で満ちているというのである。自然は、弱肉強食の世界であり、昨年の台風や中越地震またインド洋スマトラ沖の地震と津波のように、恐ろしいものであるというようにしか思えないが、ここにも神のいつくしみがあるというのである。
人々が真に救われるための警告なのかも知れないのである。
“主よ、災いや審きのような中にも、あなたのいつくしみを見いださせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月8日(木) 聖書の箇所:詩篇119篇 テス 65〜72節/ 年間通読:第1コリント 5〜8章
「あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください」(68節)
  最悪と思われる時も、また、神が罰を与えているとしか思われない時でも、神は善にして、善をなしておられるのである。この時に、注意しなければならない事は盲信や思い込みでないようにということである。
偶像や偽りの神や偽のキリストを信じてはいないかをよく検討する事は大切である。真の神に従い続けている限り、善にして善を行われるのである。
“主よ、あなたが善にして善を行なわれることを心から信じられるようにして下さい。アーメン”
 

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2008年5月9日(金) 聖書の箇所:詩篇119篇 ヨード 73〜80節
年間通読:第1コリント9〜12章
「あなたのみ手はわたしを造り、わたしを形造りました。わたしに知恵を与えて、あなたの戒めを学ばせてください」。(73節)
  神さまのみ手によって、人間であるこの自分が形造られたのである。自動的に、型にはめてするように、造られたのでなく、ねんごろに神自らによって、手造りされたのである。
だから、一人一人違うのである。あなたと私は両方とも世界にただひとりしかいない神の手造りの作品なのである。神と愛の交わりをするものとして、神の性質をも持ったものとして、神の子として造られたのである。
 “主よ、子として造られていることを感謝します。アーメン”
 

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2008年5月10日(土) 聖書の箇所:詩篇119篇 カフ 81〜88節
年間通読:第1コリント13〜15章
「わが魂はあなたの救を慕って絶えいるばかりです。わたしはみ言葉によって望みをいだきます。」(81節)
  神の救いの遅延に、現状が変わらないそのことに、苛立ちを覚える時が誰でもある。世の人はこの世の基準に従って、自分の正しいとするところに従って安易な、不確かな、一時的な”望み”を得ようとし、作り出そうとする。その”望み“は人間的な”夢”や”期待“の域を脱しない。
しかし、クリスチャンはこの世の人間くさい”望み”ではなく、神の崇高な、確かな”望み“をみ言葉を媒介にして得る道が開かれている。み言葉によって、将来において必ず全うされる、神にある確かな”望み”を確信するのだ。
“主よ、あなたにある確かな望みをみ言葉を通しえさせてください。アーメン”
 

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2008年5月11日(主日) 聖書の箇所:詩篇119篇 ラメド 89〜96節
年間通読:第1コリント16章 ルツ1〜3章
「あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。」(92節)
  苦しみ、悩みの局地の中で、私達はどのように確かな希望を保ち、自らを健全に保つことができるだろうか?150日も太平洋を漂流したポール・リッグス船長は、「私は数冊の小説を持ってはいたが、それには触れなかった。
 (2回通読した)聖書が、私に正気を持ち続けさせてくれた。」と証言している。み言葉によって苦しみの荒野の中に、私達は神の泉を見出す。なにもないはげ山に、沸き出でる神の川を発見する。神は確かに、いかなる状況においてみ言葉をもって私達を守り、支える。
“主よ、あなたの言葉によって我等を支え、希望を与え給え。アーメン”
 

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2008年5月12日(月) 聖書の箇所:詩篇119篇 メム 97〜104節
年間通読:ルツ4章  サムエル上 1〜2章
「わたしはあなたのさとしによって知恵を得ました。それゆえ、わたしは偽りのすべての道を憎みます。」(104節)
  私達は羊のように鈍い生き物だ。究極的な面において善悪を見極め、良いほうをいつも選び取っていくのは私達には不可能だ。
人間の欲望に基づいた価値観を社会は産み出すが、人はそれに捕らわれやすく、その価値観に基づいた人生観を持ってしまいやすい。そこには「神の前にはどうか」、という考察は一切ない。主のみ言葉は神の前に正しきことを悟らせ、偽りを見抜かせ、そしてそこに陥らず、神の前に不真実であるようなことを選択しない力を与える。
神にある洞察力、そして神にある善を選び取る力、これがみ言葉に基づく神の知恵だ。
“主よ、我等にあなたの知恵を与え給え。アーメン”
 

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2008年5月13日(火) 聖書の箇所:詩篇119篇 ヌン 105〜112節
年間通読:サムエル上 3〜6章
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(105節)
  私達はどのようにして自分の歩むべき道を悟り、未来を目指していくだろうか。世の中が混沌として暗くなればなるほど、足元は見えにくくなる、将来が見えにくくなる。主は人生の転機となるような重大な時に確かに、み言葉をもってさとりを与える。その歩むべき道を照らす。
決断が迫られる時、人生の岐路に直面する度に「これは道だ、これに歩め」(イザヤ30:21)という確かな主の語りかけを私達は聞く。日々の小さな決断にも主の導きがある、み言葉によるさとりがある。こうして私達は間違いのない、神の前に開かれている確かな将来に向かって前進するのだ。
“主よ、私の歩むべき道をなお照らし、確かな歩みをさせてください。アーメン”
 

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2008年5月14日(水) 聖書の箇所:詩篇119篇サメク 113〜120節
年間通読:サムエル上 7〜10章
「わたしは二心の者を憎みます。しかしあなたのおきてを愛します。」(1節)
  二心の者とは心の割れた者、分かれた者を表す。それはまさに「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛」(申命記6:5)すこととは正反対であるような不真実な心の状態だ。
主の私達への愛はいつも全力で、一点のかげりもなく、真実そのものだ。全存在をかけ、命をかけたどこまでも熱い愛だ。だからこそ私達も全存在をかけて、このどこまでも熱い、純真な、真実なる神の愛に答える必要がある。私達には神の命がかけられている。むだにはできない生涯だ。真実な神の前に真実に生きたい。
“主よ、あなたの愛に、恵みに全存在をかけて応答する者としてください。アーメン”
 

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2008年5月15日(木) 聖書の箇所:詩篇119篇 アイン 121〜128節
年間通読:サムエル上11〜13章
「わが目はあなたの救と、あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。」(123節)
  信仰はある意味で神への尽きない期待と、その主にある約束の待ち望みでないか。
待つことにも忍耐がいる。確かな希望の源への継続的な“凝視”がなければ、“堪忍袋の緒が切れ”ることになりかねない。果たして苦しみの中に、私達は存在が衰え、弱り果ててしまうほどに神の恵みとその救いを待ち望んでいるだろうか?
希望の源であるキリスト・イエスに心の目が向かい、向かい続けているだろうか?不平、不満、文句を語る前に今一度、私達の神への“待ち望み”度を客観的に吟味してみようではないか。
“主よ、あなたに心を向けさせ、全力で主の恵みとその御業を待ち望ませてください。アーメン”
 

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2008年5月16日(金) 聖書の箇所:詩篇119篇 ぺ 129〜136節
年間通読:サムエル上 14〜15章
「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(130節)
  一度、神の言葉の心への開示、展開がなされると、私達の心に神の知恵、悟りが与えられていく。み言葉によって主は私達を照らし、我らのうちに新たな可能性を切り開く。
ペテロをはじめイエスの弟子も無学な者で品性に乏しく、短絡的思考者の寄せ集めではなかったか。彼らの一体どこに、キリストの命のメッセージの世界的展開の担い手としての可能性があったろうか。
聖霊の力強い働きの中での、み言葉の啓示、開示は神の深遠なる救い、愛、いつくしみの神秘への悟りを彼らに与え、現代に生きる、私達にも普遍なる神の知恵と悟りを与える。
“主よ、み言葉によって我らに知恵と悟りを与え、あなたの栄光を表す者とし給え。アーメン”
 

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2008年5月17日(土) 聖書の箇所:詩篇119篇 ツァデー 137〜144節
年間通読:サムエル上 16〜18章
「あなたの約束はまことに確かです。あなたのしもべはこれを愛します。」(140節)
  御言葉を軽蔑する世の人に対して、懸命に正しく、また、御言葉は、信頼に価するものであることを強調している。そのことについて「あなたの正義と、この上ない真実とをもってあなたのあかしを命じられました。」(138節)とあるように、神の正義とこの上ない真理に基づいているのである。
だから、神の約束は、まことに確かなのであり、御言葉は“愛する”に価するのである。
“主よ、あなたの約束の御言葉を本当に信じ、愛するものとさせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月18日(主日) 聖書の箇所:詩篇119篇 コフ 145〜152節
年間通読:サムエル上 19〜21章
「わたしは心をつくして呼ばわります。」(145節) 
「わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。」(147節) 
  私たちが聖書のみ言葉を読み、神様の語りかけに聞くことは、何と幸いなことであろうか。
デボーションの時を夜に持つことも祝福であるが、朝、何かを始める前にみ言葉の前に静まる。み言葉によって始める一日は、それなしに過ごす一日とは全く違っている。
神様の愛と祝福とを受けとめ、悔改め、み言葉からのチャレンジを実践していく。戦いもあるが、み言葉を成就したもう主の栄光を見る。まず朝、み言葉を聞こう。
“主よ。一日の始めにみ言葉を聞き、み言葉を基準として生活できますように。アーメン”
 

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2008年5月19日(月) 聖書の箇所:詩篇119篇 レシ 153〜160節
年間通読:サムエル上 22〜24章
「わが訴えを弁護して、わたしをあがない、あなたの約束にしたがって、わたしを生かしてください。」(154節)
  私たちはしえたげる者、あだする者に対峙する時、心が萎えやすい。ここにも繰り返し「わたしを生かして下さい。」とうたわれている。主は、私たちを敵から守り、生かすことのできるお方である。
主は、私たちに「助け主」として「聖霊」を遣わされた(ヨハネ14:26)。この聖霊は、私たちを弁護して下さるお方である。それは、弁護士が専門の知識を持って、訴える者から守るのに似ている。誰かが私たちを訴える時、聖霊が働いて、敵とその背後にいる悪魔の業を打ち破らせて下さる。
“父よ。聖霊によって訴える者よりお守り下さい。アーメン”
 

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2008年5月20日(火) 聖書の箇所:詩篇119篇 シン 161〜168節
年間通読:サムエル上 25〜27章
「わが魂は、あなたのあかしを守ります。わたしはいたくこれを愛します。」(167節)
  聖書は繰り返し繰り返し、神様の最高の愛が私たちに注がれていることを語っている。その中心がキリストの十字架の死と復活である。
だが案外、クリスチャンでさえ、この真剣な愛を中途半端にしか受け取っていない。主があらゆる罪と死から解放して下さった。永遠の命をくださったのに半端に従い、この世に未練を残してはいないか。何かを恐れてはいないか。
主の愛があらゆる領域に臨む。だから私たちは、自分のすべてを投げ打って、心から、神様を愛し仕えよう。
“父よ。あなたの愛の深さ広さを知り、あなたを心から愛し、仕える者として下さい。アーメン”
 

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2008年5月21日(水) 聖書の箇所:詩篇119篇 タウ 169〜176節
年間通読:サムエル上28〜31章
「主よ、どうか、わが叫びをみ前にいたらせ、」(169節)
  主は、私たちの激しい叫び、苦しみをご存知のお方である。どこまで続くかわからない精神的、あるいは肉体的苦痛、また一生負っていかなければならない重荷もご存知である。
それはただ知っておられるというのでなく、主イエスご自身が、人となり、「激しい叫びと涙」(ヘブル5:7)の中に成長し、十字架の死を味わわれたからご存知なのである。だから私たちはこの神様の前に、ありのままで叫び、訴えることができる。どのような解決かはわからない。だが罪は赦され、叫びが聞かれ、喜びの賛美をうたう時が来る。
“主よ。信頼します。私の叫びを聞いて下さい。アーメン”
 

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2008年5月22日(木) 聖書の箇所:詩篇120篇1〜7節/ 年間通読:サムエル下 1〜 3章
「わたしは平安を願う、しかし、わたしが物言うとき、彼らは戦いを好む。」(7節)
  表題には「都もうでの歌」とある。祭りなどでエルサレムに巡礼する時に歌われたと言われている。
私たちが「偽りのくちびる」「欺きの舌」「戦いを好む」者の中にいる時、往々にしてその渦中に巻き込まれやすい。そのような環境は避けるのが良い。だが避けられない時はどうしたらよいだろうか。著者は「主はわたしに答えられる」(1節)と述べている。悩みの中で主に信仰を働かせて呼ばわっている。
信仰は芯となる。周りが荒れても、芯は静かである。信仰をもって主に目を注ごう。
“主よ。争いやすい私ですが、信仰をもって主に呼ばわり、平安を保たせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月23日(金) 聖書の箇所:詩篇121篇1〜8節/ 年間通読:サムエル下 4〜7章
 「見よ、イスラエルを守る者は まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)
  人の身体や精神には限界がある。そして疲れやちょっとした油断から大きな失敗につながることもある。だが私たちを救われた神様は、全知全能の神である。どこにも届くことができる。またこの私を愛しておられる。だから私たちが届かないところにも届いて助けて下さる。仕事のことも、子供のこと、様々な人間関係、他のどんなことも安心して委ねることができる。
自分の主導権をこの神様にお渡ししよう。主は将来のことだけでなく、後悔にも過去のしがらみにも届くことができる。その意味を全く変えて下る。
“全能の神様。あなたの助けを待ちます。守って下さい。アーメン”
 

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2008年5月24日(土) 聖書の箇所:詩篇122篇1〜9節/ 年間通読:サムエル下 8〜11章
「人々がわたしにむかって「われらは主の家に行こう」と言ったとき、わたしは喜んだ。」(1節)
  この詩篇では、エルサレムの平安という形で、神様への賛美と聖徒へ祝福が歌われている。私たちにとって神様との交わりは何よりも大切であるが、神様との交わりが具体的実際的に表されるのが人との交わりである。
神様からの恵みを語る時、語る者はもう一度その恵みを受け、聞く者はその恵みに与り生かされる。心が通じ、共鳴し、神様への感謝が響きわたる。私たちは神様からの祝福を受けた者として、人を祝福するように召されている。教会に、人々に、世界に主の平安を祈ろう。
“父よ。隣人を主のもとに招き、平安と祝福を祈る者として下さい。アーメン”
 

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2008年5月25日(主日) 聖書の箇所:詩篇123篇1〜4節/ 年間通読:サムエル下 12〜13章
「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」 (2節)
  これは「思い煩いのない者(新改訳では、“安逸をむさぼる者たち”)のあざけり」と「高ぶる者の侮り」のなかにある詩篇の著者が、必死に神ご自身に目を注いで、そのあわれみを只管(ひたすら)待ち望んでいる姿をうたったものである。
わたくしたちも信仰の導き手であるイエスに目を注いで信仰の馳せ場を走りぬこうではないか。
“主よ、私たちにも信仰とへりくだりとを与えて下さい。アーメン”
 

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2008年5月26日(月) 聖書の箇所:詩篇124篇1〜8節/ 年間通読:サムエル下 14〜16章
「われらは野鳥を捕えるわなをのがれる鳥のようにのがれた。わなは破れてわれらはのがれた。」(7節)
  神がわたくしたちの味方であると言う事を確信させるうたである。“もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか“(ローマ8:31)とあるように、全知全能にして、絶対なる神が味方であるなら、敵は敗北に至るのである。
例え、敵がいかに過酷で、破壊的であっても。また、絶体絶命のような中に追い込まれようとも、神は、はるかに力を持たれるお方なのである。 このお方を信頼していこうではないか。
“主よ、どのような中でも神が味方である事を信じさせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月27日(火) 聖書の箇所:詩篇125篇1〜5節/ 年間通読:サムエル下 17〜19章
「山々がエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる。」(2節)
  主に信頼する者は、とこしえにあるシオンの山のような者であり、また、主は、山々がエルサレムを囲んでいるように、今からとこしえに至るまで私たちを、しっかりと守って下さるというのである。それは悪しき者から守り、正しい者が不義から守られるためなのである。
更に、著者は善良な人、心の正しい人のために、さいわいを祈り、イスラエルの上に平安を祈っている。
“主よ、自分が守られるだけでなく、正しい人や神の民のためにさいわいと平安とを祈らせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月28日(水) 聖書の箇所:詩篇126篇1〜6節/ 年間通読:サムエル下 20〜22章
 「種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(6節)
  捕囚民の帰還を喜び、なお完全な帰還を求める祈りである。イスラエルの民はその正しさの故でなく、主御自身の御栄えの故に捕囚から帰還したのである。種をまくことは、草を取り、耕し、気候不順の中でしたりしたので、大変つらい者であった。
しかし、正しい、誠実な苦労は主が報いを与えて下さるのである。又、辛い中での、真剣な祈りに主は答えて下さるのである。 
“主よ、あなたに信頼をもって福音の種を播かせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月29日(木) 聖書の箇所:詩篇127篇1〜5節
年間通読:サムエル下23,24章 第2コリント 1章
「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」。(2節)
  前の126篇が正しい、誠実な苦労への報いをうたっているが、ここでは人の努力にまさる神の恵みと配慮、そして賜物としての子供がうたわれている。
さて、上記には主はその愛する者になくてならぬものを与えられるとある。親はどんな苦労をしてでも、その愛する赤ちゃんや子供を、養い、育て、正に、なくてならぬものを与えて下さるのである。神さまは、人間の親に勝って、その民(子)にして下さるのである。
“主よ、あなたに愛せられる者としてまずイエスさまを求めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年5月30日(金) 聖書の箇所:詩篇128篇1〜6節/ 年間通読:第2コリント 2〜 5章
「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。」(1節)
  祝福された家庭が歌われている。その秘訣が上記のことである。“主をおそれ”とは主をおそれ敬う事であり、信じる事である。
また、“主の道に歩む”とは主に従うことであり、御旨に生きる事である。ここにこそ真の幸福と繁栄があるのである。
私たちは、神の御前に、第一とすべき事を第一とし、中心に置くべきものを中心に置くとき、その勤労も、その家庭も、その教会も、実を結び、祝福を見るのである。
“主よ、あなたを愛し、あなたの御旨に従う者として下さい。アーメン”
 

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2008年5月31日(土) 聖書の箇所:詩篇129篇1〜8節/ 年間通読:第2コリント 6〜9章
「主は正しくいらせられ、悪しき者のなわを断ち切られた。」(4節)
  神の民に敵対する人への審きがいわれている。主は正しいお方なのである。であるから、悪しき者に対しては審きをなされるのである。
“なわ“とは神の民が捕われていて、拘束されている事を意味しているといって良い。それを断ち切るとは、その捕われの身から、解放されることである。そして、その解放とともに、捕えていた悪しき者には審きが与えられる事がいわれている。彼らに対して祝福の祈りすらなされないのである。
“主よ、あわれみよって、キリストの犠牲の故に不義なる私を義として下さい。アーメン”
 

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