デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年6月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
             1
 2  3  4  5  6  7  8
 9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

 
【今月のディボーション】 【ホームページへ】



 
2008年6月1日(主日) 聖書の箇所:詩篇130篇1〜8節/ 年間通読:第2コリント 10〜13章
「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。」(7節)
  罪の赦し、助けを待ち望む悔い改めの詩篇である。罪、罪悪感または苦境の深い渕から逃れられない、詩人の救いを求める全存在をかけた叫びが聞こえてくるようだ。
ここでは救いの確証を求める望みで終わっているが、私達にとってはキリストこそが、私達のための確かなあがないの実行者であり、救いの保証そのものだ。だからこそいつくしみとその豊かなゆるしは将来の淡い期待や夢ではなく、キリストにあって今、そこにある確かな恵み、私達を生かすいのちとなる。感謝!
“今日も信仰を通してあなたのいつくしみと豊かな贖いの恵みを受け取らせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月2日(月) 聖書の箇所:詩篇131篇1〜3節/ 年間通読:ヨシュア1〜4章
「かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」(2節)
  心が荒れ狂うことなどいくらでもあるが、そんな時、私達はどのように自らを治めていくだろうか?
自らの力で荒れる心の嵐を沈めるのは不可能だ。一時的に沈めこむことができても、後で溜まり込んでしまった怒りと不満の嵐は息を吹き返し、心の内外に、一気に猛威を振るう。
しかし、キリストこそは私達のあらゆる心の嵐を沈め、おおなぎにし、主にある安らかな、やさしい思いに満たしてくださるそのお方だ。
いつも心のうちにキリストの “安かれ”(ヨハネ20:26) という言葉を聞き続けよう。
“主の平安をお与えください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月3日(火) 聖書の箇所:詩篇132篇1〜18節/ 年間通読:ヨシュア5〜8章
「主はシオンを選び、それをご自分のすみかにしようと望んで言われた、
『これはとこしえにわが安息所である。わたしはこれを望んだゆえ、ここに住む』」(13〜14節)
  ダビデの恵みの生涯と彼への神の約束を手がかりに、神の民の将来の希望を歌ったものだ。
希望と祝福の原点は、主が御臨在下さるからだ。主がシオン(神殿)に住まわれることを選ばれた。だから、そこにはいつも消えない将来の希望、平安、喜びが溢れていた。
今日、神、キリストは宇宙でなく、地理的に限定された場所でなく、私たちの心に住まうことを選ばれた。
あなたの内にキリストはおられますか?キリストのおられるあなたの内には、尽きない希望、平安、喜びが溢れる。
“あなたが私の心にお住み下さり、平安と喜びに満たして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月4日(水) 聖書の箇所:詩篇133篇1〜3節/ 年間通読:ヨシュア9〜12章
「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」(1節)
  肉親とともに信仰の共同体における一体感であり、麗しい交わりを連想させる。まさに信仰の共同体の麗しい交わりは神の豊かな祝福の象徴であり、またさらなる祝福への基となる。
信仰は現代の個人主義思想の原理とは袂を分かつ。信仰による神と、主にある兄弟姉妹の交わり、命の交流の中ではじめて、人が人として、真に人間らしく生きることができるからだ。
罪は神との関係だけでなく、諸々の人の暖かい交わりを分断し、個別化させていく。しかし信仰を通して注がれるキリストの愛は、私たちのうちに確かな和合を与え、そこから更なる神の祝福と和が広がる。
“主よ、あなたにある一致を私達の内にお与えください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月5日(木) 聖書の箇所:詩篇134篇1〜3節/ 年間通読:ヨシュア13〜16章
「見よ、夜、主の家に立って主に仕えるすべてのしもべよ、主をほめよ。」(1節)
  礼拝会衆から聖職者たちに呼びかけ、彼らへの祝福を祈る歌である。しかし、キリストの時代にあってはキリストを信じる者すべてが“主の家に立って主に仕えるしもべ”だ。
“仕えるしもべ”にとって不平、不満は禁物だ。その行う働きが外目にはよくても中身は中途半端になり、霊的な恵みが伴わないものになる。しもべはそれぞれの使命を認識し、それを遂行するためにベストを尽くす。
しかし、そこにはまず、主への感謝と賛美がなければいけない。いと高きお方キリスト、王の王、主の主、私たちのいのちの救い主、キリストにお仕えできるとはなんと光栄なことか!
“主よ、今日も賛美と共にあなたに仕えさせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月6日(金) 聖書の箇所:詩篇135篇1〜21節/ 年間通読:ヨシュア17〜20章
「主よ、あなたのみ名はとこしえに絶えることがない。主よ、あなたの名声はよろずに及ぶ。主はその民をさばき、そのしもべらにあわれみをかけられるからである。」(13節) 
  神の全能とその御業のすばらしさと偶像の無能とそのおろかさが見事に対比されて描かれている詩である。
私たちの主は真に生きておられるお方、とこしえからとこしえに至るまで彼につくものにあわれみをかけられるお方だ。真の意味において最後の最後まで私達の面倒を見てくださるのは年金制度でも福祉制度でも、病院でもなく、このお方である。
この世のものは過ぎ去る。しかし過ぎ去らないお方が、過ぎ去らない恵みと愛を持って私達を持ち運ぶのだ。
“主よ、とこしえの主、生ける愛の主の御名を崇めます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月7日(土) 聖書の箇所:詩篇136篇1〜26節/ 年間通読:ヨシュア21〜23章
「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」(1節)
  この詩篇に記されている主の属性:唯一絶対なる神(4節)、創造者なる神(5〜9節)、救出者なる神(10〜14、24節)、(私達に敵対する者への)裁き主なる神(15〜20節)、供給者、与え主なる神(21〜22、25節)、贖い主なる神(23節)。
主は働かれる。私たちの生活に、人生に直接的、間接的に介入し、その御業を具体的になしてくださるお方だ。この働きをなす主の御性質の中心はいつくしみであり、どこまでも広がる無限の愛だ。
旧約の時代に働かれたお方は、キリストにあって、私たちへの無限の愛をもって、日々、私たちの人生のあらゆる局面において具体的に働かれる。
“力強いあなたの守りを感謝!アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月8日(主日) 聖書の箇所:詩篇137篇1〜9節
年間通読:ヨシュア24章、列王上1,2章
「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。」(1節) 
  悲しみの言葉が敵への呪いへと移っていく激しい歌である。シオンでの歌、それは神様への礼拝の賛美であった。捕囚の地では慰めの歌であった。その賛美を余興のために歌うように言われた。この歌人の心はどんなに涙でぬれたことであろうか。
この異教の日本で私たちにも賛美や信仰が余興のために使われることがある。だが主はその涙をもそのままに受け止めて下さる。主イエスは、人々の嘲笑を十字架の上で忍ばれたのである。この主を通してもう一度主に賛美できることを信じよう。
“主よ。あなたは私の涙をご存知です。何にもまさる慰めです。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月9日(月) 聖書の箇所:詩篇138篇1〜8節/ 年間通読:列王上 3〜 5章
「主よ、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることはありません。」(8節) 
  このみ言葉は、繰り返し繰り返し語られているみ言葉であるが、本当に大切なみ言葉である。「いつくしみ」とは神様の一方的でどこまで行っても変らない愛を表している。だが私達は変りやすく、熱しても冷めやすい、不完全で自己中心的な人の愛に置き換えやすい。
しかし「いつくしみ」とは私たちが罪人であった時にも愛する愛、私たちが救われてから背いても愛する愛、不信仰な時でも愛する愛である。人の信仰の状態や感情や何かで変るのではない。たとえ自分で自分を否定してもその人を肯定する愛である。
“父よ、私へのいつくしみを受け取ります。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月10日(火) 聖書の箇所:詩篇139篇1〜24節/ 年間通読:列王上 6〜 9章
「わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」(24節)
  とても印象深く私達を捕らえる歌である。1節で「わたしを知りつくされました」とある。全知(何でもご存知)の主、遍在(どこにでもおられる)なる主が、まるで自分の行く道を阻み、自分の自由をうばう煙たい存在のように語られている。
しかしこの主を自分の創造者として捉える時、見方は全く変ってしまった。すべてをご存知の主が私をとらえて放さないのは、私のためであるとわかったのである。その時「わがもろもろの思いを知ってください」(23節)と自ら主の前に喜んで出るのである。
“創造者なる主よ、信頼します。心を探り、命の道へ導いてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月11日(水) 聖書の箇所:詩篇140篇1〜13節/ 年間通読:列王上 10〜13章
「主よ、悪しき人々からわたしを助け出し、わたしを守って、乱暴な人々からのがれさせてください。」(1節) 
  ダビデの歌の中に、悪しき者からまたそのわなから逃れさせて下さいという歌が何と多いことだろうか。神様からイスラエルの王として立てられ、輝かしい功績を残し、主をほめたたえるダビデである。
しかしどれほど多くのわなを逃れてきたことか。主の導きの中にあっても、逃げなければならない時もある。あのパウロも証をする中で命を狙われて、夜、かごに乗せられ城壁の外へ逃れていった。主の栄光があるのに何と惨めに見える姿であるか。しかしそこにも助け出す主が共におられた。
“主よ、共にいて悪しき者と罠よりお守りください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月12日(木) 聖書の箇所:詩篇141篇1〜10節/ 年間通読:列王上 14〜17章
「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」(3節)
  4節のお言葉も合わせて心にとめよう。私たちは、自分に悪口を言われたり、いやなことをされる時、心の平穏を失いやすい。それどころかその悪の罠に陥り、怒りや憎しみの感情が起こり、悪口になったり、仕返ししたりする。世間では当たり前のことであるとしても主の喜ばれることであろうか。
アブサロムが反乱を起こした時、逃げるダビデをシメイは呪った。もしシメイを追いかけていれば、反乱軍に捕らえられて命はなかったであろう。ダビデはあらゆる出来事の上に主の支配を認めていた(サムエル下16:11)。
“神様、悪の罠より守ってください。あなたに目を注ぎます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月13日(金) 聖書の箇所:詩篇142篇1〜7節/ 年間通読:列王上 18〜21章
 「わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、あなたはわが道を知られます。」(3節)
  この著者は、「わたしに心をとめるものはひとりもありません。」(4)と叫んでいる。問題が何であるか以上に存在が認められていないと感じることは本当に苦しいことである。またそうでないとしても「私の悩みをだれにも理解してもらえない。」と感じることもとても苦しいことである。
この著者はそのような中で声を出して主に叫んでいる。それは自分の霊が消え失せようとする時も主はわたしの道を知っておられると知っていたからである。主は私たちを知っておられるお方である。心にとめておられる。
“神様、私を御心にとめてください。叫びを聞いて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月14日(土) 聖書の箇所:詩篇143篇1〜12節
年間通読:列王上 22章、列王下 1〜 3章
「わが魂は、かわききった地のようにあなたを慕います。」(6節) 
  クリスチャンは、イエス・キリストから注がれる命の水によって生かされているのである。植木鉢でも水をやらなければ乾いて植物は枯れてしまう。渇いた時に水をやると音を立てて吸い込んでいく。
クリスチャンにも命の水が必要だ。毎日み言葉によって祈りによって霊的な養いを受けよう。特に問題にぶち当たる時、仕事で、健康で、人間関係で悩む時、その時はいつも以上に霊の水を必要としている。
大切なのは信頼することだ。私は弱っていても主は確かに、命の水を注いで下さると信仰に立つことだ。
“父よ、私は渇いてます。命の水を注ぎ、生かして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月15日(主日) 聖書の箇所:詩篇144篇1〜15節/ 年間通読:列王下 4〜 7章
「主はわが岩、わが城、わが高きやぐら、わが救主、わが盾、わが寄り頼む者です。
 主はもろもろの民をおのれに従わせられます」。(2節) 
  岩とは主が揺るぐ事のないお方であり、城とかやぐらまた盾は敵から守って下さる事を意味している。主は私たちが信頼するに価するお方であり、更に、霊的な又目に見える敵の攻撃から守り、救って下さのである。恐れる事はないのである。
そして又、「もろもろの民を」御自分に従わせられるお方なのである。まさに世界の支配者なのである。
“主よ、あなたがあなたに信頼する者を祝福して下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月16日(月) 聖書の箇所:詩篇145篇1〜21節/ 年間通読:列王下 8〜11章
「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます」。(14節)
  1節で神が“王”と呼ばれている。王という時に支配権を考えるが、それは大能によるものであり、その御業ははかり知ることが出来ないほど大いなるものである。また“主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。
主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります”(8、9節)とあるように、この王は恵とあわれみに富んでおられるのである。
“主よ、あなたは倒れようとする私を支え、弱っている時に立たせて下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月17日(火) 聖書の箇所:詩篇146篇1〜10節/ 年間通読:列王下12〜15章
「しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。
 主は捕われ人を解き放たれる」。(7節)
  ハレルヤで始まりハレルヤで終っている。主こそ信頼に価するお方であり、さげすまれ、しえたげられるもののために公正な裁判をして下さり、飢えた者には食べ物を与え、捕われている人を解放して下さるお方である。
目の見えない方の目を開かれ、弱い人々(寄留の他国人、みなしごとやもめ)を助けるのである。
そして悪しき者の道を滅びに至らせるのである。まさに主こそ賛美に価するお方なのである。
“主よ、あなたの魂をもって、賛美させて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月18日(水) 聖書の箇所:詩篇147篇1〜20節/ 年間通読:列王下16〜19章
「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる」(3節)
  これもハレルヤ詩篇である。ここには心の癒しが言われている。しえたげや嘲りやいじめによって、痛みつけられ、傷ついている人がおり、また、カルトによって、傷ついている人もいる。
しかし、主はそれをいやし、包んで下さるのである。“その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ”(イザヤ53:6b)とあるように主の十字架の傷によって、私たちは癒されるのである。そこには傷の痛みはなくなり、完全ないやしと回復があるのである。
“主よ、心の傷を持っている方が主の十字架の傷により、完全に癒されるように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月19日(木) 聖書の箇所:詩篇148篇1〜14節/ 年間通読:列王下20〜23章
「彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである」。(13節)
  この詩篇もハレルヤ詩篇である。何と“ほめたたえよ”が10回もつかわれている。そして、“ほめたたえさせよ”が2回(5、13節)出てくる。
天使も、日も月も星も天もみな主を“ほめたたえることと“ほめたたえさせる”こととが言われ、そして、海の獣も淵もあられも雪も霜も嵐もすべての民にも同じことが言われている。主は、ほめたたえよと勧めるだけでなく、ほめたたえさせて下さるのである。
“主よ、私たちもキリストによってあなたをほめたたえさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月20日(金) 聖書の箇所:詩篇149篇1〜9節
年間通読:列王下24,25章、ガラテヤ1,2章
「主はおのが民を喜び、へりくだる者を勝利をもって飾られるからである」。(4節)
  これもハレルヤ詩篇である。ここには踊りと鼓と琴をもって主をほめたたえるように言われている。更に、へりくだることの大切さが言われている。そのようなものを勝利をもって飾られるというのである。
その反対に「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ」(箴言16:18)のである。主を賛美することにおいても、へりくだって賛美するべきであることをしっかりと心に留めておきたいものである。
“主よ、へりくだりをもって、あなたをほめたたえさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月21日(土) 聖書の箇所:詩篇150篇1〜6節/ 年間通読:ガラテヤ3〜6章
「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ」。(6節)
  これもハレルヤ詩篇である。僅か6節の中に、“主をほめたたえよ”が12回、そして“主をほめたたえさせよ”が1回出て来る。
さて、“主をほめたたえさせる”ことが出来るためには、その人の中に主を信じる心と主への感謝と喜びとが与えられることが不可欠である。
更に、それは福音によって救われることによってなされるのである。そのためには遣わされた者によって福音が伝えられねばならないのである。
“主よ、私たちを福音のために聖別して御遣わし下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月22日(主日) 聖書の箇所:箴言1章1〜33節/ 年間通読:歴代誌上1〜3章
「主を恐れることは知識のはじめである、・・・。」(7節) 
  永遠不滅の格言だ。この時代は恐れる対象を持つことを嫌う時代だ。そこには“へりくだり”や“敬う”という概念がない。
神を恐れない者は、かえってこの世のさまざまな不安、心配、恐れに縛られることとなる。健康に関する不安、財産、地位、名誉、先行きの見えない将来に対する不安や恐れは際限なく沸き起こる。
 私たちが、私たちの人生に責任を持って、導き下さる天地の造り主なる神を真の意味で恐れ、敬う時、この世のもろもろの恐れ、不安、心配は消えていく。ここにこそ究極の知識がある。
“主よ、恐るべき方を心から恐れ、敬わせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月23日(月) 聖書の箇所:箴言2章1〜22節/ 年間通読:歴代誌上4〜6章
「銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。」(4、5節)
  神を知るとは単なる知識上のことではない。あらゆる角度から、あらゆる感性を持って、全存在で神を体験するということだ。理性的な人は理性だけでなく、感性を通して、体験的に神を知り、感受性の豊かな人もまた、感覚的な、主観的な思いだけで神を捉えるのでなく、理性を持って神を捉えるのだ。
この“神を知る”という究極の喜びを得る上で、大切な一つの要素は、私たちの“求める”という恵みへの飽くなき切望だ。他でもない、神への切望は必ず満たされる。
“恵みへの渇望をお与え下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月24日(火) 聖書の箇所:箴言3章1〜35節/ 年間通読:歴代誌上7〜10章
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(5,6節)
  自分の知識や、主観的な思いで物事を判断せず、目に見えないものに全存在を任せていくのは簡単のようで、とても難しい。
しかし最も恐ろしいのは自分の正しいと思うところに従って歩むことだ。その先にはどんな危険が待ち受けているかわからない。
主は私達のために道をつくられ、また苦難の迷宮に陥る時、その道をまっすぐにし、私達を助け出される。主に信頼し、聞き、歩むべき道を示していただき、その確かな道を歩む。信仰による歩みとはこの繰り返しではないだろうか。
“私を正しく導き給え。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月25日(水) 聖書の箇所:箴言4章1〜27節/ 年間通読:歴代誌上11〜14章
「それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(22,23節)
  私達は一体、この混沌とした時代の中で、どのように自分の心を守るだろうか?
迫り来る不安、恐れ、怒り、憎しみ、あらゆる欲望から自分の心を守れるほど、私達は強くはない。
神の言葉を心にとめ、心の内にそれを守り続けていく以外に、大切な心を守るすべはない。神の言葉から溢れ注がれる恵み、愛、慈しみは私達の心を守るだけでなく、心と体を健やかにし、命の泉を心に宿させる。あなたの大切な心を、存在そのものを御言によって守れ!
“主よ、私の心をお守り下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月26日(木) 聖書の箇所:箴言5章1〜23節/ 年間通読:歴代誌上15〜17章
「わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。」(1、2節)
  結婚・性の問題について記されている。また旧約においてはしばしば性的不道徳は王、民の神への背信、偶像礼拝として描かれているが、いずれにせよ、たけり狂う諸々の私達の欲望を掻き立てる誘惑から私たちは一体、どのように身を守ることができるだろうか、
神のかたちに似せてつくられた者として、神の栄光を表すものとして正しく生きることができるだろうか?
神の語ることを日々に受け、心に蓄えていく以外に健全かつ平和に満ちた歩みはない。
“心を主に向けさせ、私の心を正しくして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月27日(金) 聖書の箇所:箴言6章1〜35節/ 年間通読:歴代誌上18〜21章
「これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを守り、あなたが目ざめるとき、あなたと語る。戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲らしめは命の道である。」(22、23節)
  実生活の中での思慮深さの大切さを語っている。私達の軽率さが、自分を傷つけ、他人をも傷つけてしまうことがある。その軽率さが時には致命的な傷を負わせてしまうこともある。
迷いやすい、騙されやすい、思慮を欠きやすい私達だが、主は神の言葉を通して私達に日ごとに新たな光を与え、時には警告、時には励まし、時にはしかり、健全な道に歩ませてくださる。思慮深さは神の御言葉を通し、われらに形作られる。
“主よ、思慮深さをわが内に与えたまえ。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月28日(土) 聖書の箇所:箴言7章1〜27節/ 年間通読:歴代誌上22〜25章
「わたしの戒めを守って命を得よ、わたしの教を守ること、ひとみを守るようにせよ。これをあなたの指にむすび、これをあなたの心の碑にしるせ。」(2〜3節) 
  5,6章と同様に性的堕落の危険が物語的に描かれている。なんと私達の社会はこの類の危険が溢れていることか。多くの人々がこの欲望の罠の中に落ち込んで、自己破滅を招いているのを見る。
サタンは実に巧みに私達の弱さを突いてくる。残念ながら吠えたける欲望には私達は勝てない。しかしもう一つの確かな事実は、神は神の言葉をして完全に私達の心を守り、勝利を与える力があるということだ。キリストとその言葉に寄りすがれ!そこに命がある。
“主よ、欲望を抑え、あなたが生きて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月29日(主日) 聖書の箇所:箴言8章1〜36節/ 年間通読:歴代誌上26〜28章
「それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。」(35節) 
  この8章は「知恵」からの「呼びかけ」として私たちに語られている。この知恵は主が世界や私たちを造られる前に造られ(22節)たものであって、主を源としている。この知恵を得ることによって私たちは命を得、恵みを得る。
一方この知恵を失う者は自分の命をも損なう(36節)。この知恵が具体的に表わされたものがキリストである。一見愚かに見えるキリストの十字架の死の中に人を生かす命がある。自分の知恵に頼るのをやめて、「神の力、神の知恵たるキリスト」(第1コリント1:24)に聞き従い「日々」(34節)命を得よう。
“神様、日々十字架を見上げ、生きる者として下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2008年6月30日(月) 聖書の箇所:箴言9章1〜18節
年間通読:歴代誌上 29章、歴代誌下 1〜2章
「来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、」(5節)
  知恵が、食卓に思慮のない者を招いている比喩の表現である。知恵の招きに応じる者は命を得る(6節)。
知恵の源である主イエスも私たちを命の食卓に招いておられる。その一つは聖餐式である。十字架の上で裂かれた身体、流された血汐によって、私たちは永遠の命に招かれている。またよみがえられた主は、夜通し漁をして疲れた弟子達を食卓に招き、つまずいたペテロを立たせられた。
主はつまずく私たちをも立たせ、遣わして下さる。そしてなおも天の食卓へと導いておられる。
“父よ、主の食卓に与り、主のみ思いと一つとならせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ> 


ホームページへ戻る