デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年8月のデボーション
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2008年8月1日(金) 聖書の箇所:伝道の書 10章1〜20節/ 年間通読:ヨブ30〜32章
「つかさたる者があなたに向かって立腹しても、あなたの所を離れてはならない。温順は大いなるとがを和らげるからである」。(4節)
  自分の上司や上に立つ者が例え怒っても、自分のおるべき所を離れてはならないと言うのである。温順(新改訳:冷静)はその怒りを和らげるのである。
 私たちは、このことにおいて、イエスさまを見習うべきである。主は黙々として、自分を正しく裁いて下さる方にすべてを委ねたのであった。そこに救いの道が開かれたのであった。
“主よ、相手がどんなに怒っても冷静に対応できるようにして下さい。アーメン”
 

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2008年8月2日(土) 聖書の箇所:伝道の書 11章1〜10節/ 年間通読:ヨブ33〜36章
「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」。(1節)
  無駄のようなことであっても、それが実を結ぶようになるのである。
特別伝道会のチラシを配っていて、それが捨てられ雨にぬれたが、そのチラシを見て、集会に来た方がいたということである。又、ゴミとして捨てられた聖書を拾ってそれを読んで救われた方もいる。私たちが配るトラクトやチラシなどは決してむだにならないのである。
“主よ、あなたが私たちの働きも実を結ばせてくださることを感謝します。アーメン”
 

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2008年8月3日(主日) 聖書の箇所:伝道の書12章1〜14節/ 年間通読:ヨブ37〜39章
「すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。(13節)
  神のいない人生、神が中心でない人生はまさに「空の空、いっさいは空である」(8節)。神を恐れ、敬い、その指し示される道を歩む時、はじめて人は真に、人間として存在しえる。
この中心からずれると“的外れ”(罪を意味するギリシャ語の元々の意味)となり、“的外れ”な思い、“的外れ”な性質に捕らわれ、その人生も誠に“的外れ”な、空しいものとなってしまう。
神をまず求め、第一としていく、という的を外さない、満ち足りる歩みを徹底して貫いていこうではないか。
“主よ、今日もあなたを何よりも大切にできますように。アーメン”
 

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2008年8月4日(月) 聖書の箇所:雅歌1章1〜17節
 年間通読:ヨブ40〜42章、第2テサロニケ 1章
「わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい、あなたの目ははとのようだ」。(15節)
  花婿と花嫁が互いに対する愛を語る歌である。単なる愛の歌ではなく、この背後にある王なる神の私達に対する愛が、どのようなものかを悟ることができる。どのような、極悪人であっても、偽善な者であっても神はこよなく人を愛すお方だ。その愛の極点が十字架だ。
それは私達を、人類を罪の呪縛から解放させるために、御自分の1人子、イエスを死に至らしめたほどの強烈な私達への愛の具体的な表れだ。“わが愛する者よ”と語る神の愛は、今日も十字架から私達の心に迫る。
“あなたの愛を心から感謝します。あなたの御愛に応答させて下さい。アーメン”
 

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2008年8月5日(火) 聖書の箇所:雅歌2章1〜17節
年間通読:第2テサロニケ 2、3章、詩篇 1、2篇
「われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。(15節)
  2人の間の愛を妨げるいかなるものも取り除いて欲しいという願いが語られている。神の愛はいつも熱く、どこまでも純真で、聖で、私達に迫るものだ。その愛には一点の傷もシミない。
問題なのはその愛の受け手である私達だ。神の愛の受け取りを遮断させてしまうような子ぎつねが私達の心を荒し、信仰をゆがめてしまうことがある。
私達にとっての子ぎつねは何であろうか?お金か?自己保身の心か?不安か?悩みか?
神の愛を遮断させる私達にとっての子ぎつねを捕らえよ!
“余計なもの私の心から除き、あなたの愛で満たしてください。アーメン”
 

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2008年8月6日(水) 聖書の箇所:雅歌3章1〜11節/ 年間通読:詩篇 3〜7篇
「シオンの娘たちよ、出てきてソロモン王を見よ」。(11節)
  ソロモンの婚礼の日にその行列を歌ったものであろう(11節)。婚礼の行列を眺めるエルサレムの住民たちの感嘆の声が聞こえてきそうだ。美しく荘厳な乗物に乗ったきれいに着飾ったソロモン王の姿は息を飲む光景だったに違いない。
しかし、ここにソロモンよりもはるかに勝った真の王、イエス・キリストがおられる。この方は内側から現れる“聖なる美しさ”で溢れている。その自己犠牲の愛がわれらの主の王冠である。
信仰とはこの真の王なるキリストを見上げ続けていくことに他ならない。日々、信仰の目を上げてこの王なるキリストを見るのだ。
“主よ、苦しみの時こそあなたを見上げさせ給え。アーメン”
 

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2008年8月7日(木) 聖書の箇所:雅歌4章1〜16節/ 年間通読:詩篇 8〜12篇
「わが愛する者よ、あなたはことごとく美しく、少しのきずもない」。(7節) 
  花婿の美しい花嫁に対する言葉である。愛なる私達の主は、罪によってきずつき、汚れに汚れた私達を、ご自分の血潮によってきよめ、洗い流し、さらに新しいキリストの輝くいのちを与えることで、私達の存在を刷新し、神の義をまとい、その愛を内に宿す者にして下さるお方だ。
傷ついた存在を美しい、うるわしい存在に変えて下さるのが、私達の主だ。“わが愛する者よ”と語って下さる主、私達のうちに、主にある真の美しさを形作って下さる主を今日も覚え、心にお迎えしよう。
“主よ、ますます私達を美しい存在に変えてください。アーメン”
 

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2008年8月8日(金) 聖書の箇所:雅歌5章1〜16節/ 年間通読:詩篇13〜17篇
「その言葉は、はなはだ美しく、彼はことごとく麗しい。エルサレムの娘たちよ、これがわが愛する者、これがわが友なのです」。(16節)
  花婿を捜し、花嫁はエルサレムの娘たちに尋ねるが、逆に花婿の特徴を聞かれ、その花婿の素晴らしさを説明する場面である。
私達の主ほど麗しいお方はいない。主の語る一つ一つの言葉は実に美しく、人を生かす力がある。人の人生は誰と、また、何と共に歩むかで決まる。世の欲、この世の価値観、自身の思い込みと共に歩む人生の終焉は実に空しい。
しかし、この麗しい、至上の友、イエスと共に日々を歩む時、私達の存在も麗しくされ、人生も麗しさで満つものとなる。
“私の永遠の友となってくださる主よ、この特権を感謝!アーメン”
 

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2008年8月9日(土) 聖書の箇所:雅歌6章1〜13節/ 年間通読:詩篇18〜21篇
「わがはと、わが全き者はただひとり、・・・」。(9節)
  再び花婿が花嫁を称えている。女性はあまたいるが、汚れがなく、比類のない美しさ、慕わしさを合せ持っているのはこの花嫁以外にないと語る。
私たちはキリストの血潮によって神につなぎ合わされたものだが、神につく者としての比類のない聖なる美しさ、慕わしさを合せ持つ必要がある。もちろんそのような存在にしてくださるのは神であるが、そこにはいつも神につなぎ合わされた者としての自覚と、主のために身を清く保っていこうとする意志が不可欠だ。
世の人々とは違うキリストにある気品、内から溢れる聖なる美しさを身につけさせていただこう。
“キリストの香りを放つものとし給え。アーメン”
 

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2008年8月10日(主日) 聖書の箇所:雅歌7章1〜13節/ 年間通読:詩篇22〜26篇
「わたしはわが愛する人のもの、彼はわたしを恋い慕う」。(10節) 
  花嫁が花婿に対して語る愛の言葉である。教会は、新約聖書の中でしばしばキリストの花嫁と譬えられている。
クリスチャンは、神様が私たちを愛するがゆえに、罪の代価を払って買い取られた者である。だから、私たちは、喜んで「私は私を愛して下さる主のものです」と言うことができる。
結婚する二人の間に何者も入ることができないし、入れてはならないのと同じように、主と私たちの間にはこの世のものが入る余地はない。また主は、この世における結婚においても主の愛を表わすように望んでおられる。
“父よ、主のものとされたことを感謝します。主を愛します。アーメン”
 

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2008年8月11日(月) 聖書の箇所:雅歌8章1〜14節/ 年間通読:詩篇27〜31篇
「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください」。(6節)
  「印」は今の「実印」のようなものであって、首からかけたり、指輪にして肌身離さず持っていたものである。今でも羊などの家畜には所有者を明らかにする『焼き印』が押されている。
私たちは『彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。』『この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証』(エペソ1章13,14節)である。
聖霊の証印によって、朽ちず、汚れることのない神の国が与えられている。神の国をつぐ「皇太子」として歩むことができる。 ハレルヤ!
“神さま、神の国をつぐこと、また聖霊による証印があることを感謝します。アーメン”
 

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2008年8月12日(火) 聖書の箇所:イザヤ 1章1〜31節/ 年間通読:詩篇32〜35篇
「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」。(18節)
  イザヤは南ユダの預言者であったが、南ユダだけでなく諸国の、当時だけでなく捕囚から終末に至るまでのさばきと回復を預言している。「緋」「紅」は真っ赤な染料で、普通何度も染めて色が落ちないようにする。
私たちの罪や心の汚れが何度も繰り返され、自分でもいやになるほどであったとしても、主はしみもきずもない全くきよい者にするという一方的な宣言である。罪過は自分で密かに処理はできない。主の前に出す(「論じる」)時処理される。
“主よ、主の宣言によって染みついた罪も赦されたことを感謝します。アーメン”
 

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2008年8月13日(水) 聖書の箇所:イザヤ 2章1〜22節/ 年間通読:詩篇36〜39篇
「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう」。(3節)
  終末に多くの民が主を礼拝するという預言である。だがこの時、人々は占い、偶像礼拝、高ぶり、贅沢に目を奪われていた。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、」(22節)と今も主は、私たちに語りかけておられる。
私たちは何に頼っているだろうか。占い、偶像礼拝、高ぶり、金銭や持ち物への執着、人への依存をやめ、「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ」(1章2節)と言われる主の教えにのみ聞き、その道を歩もう。礼拝厳守し、デボーションで主の言葉に傾聴しよう。
“神さま、他のものに頼るのをやめ、あなたに頼り、その教えに歩みます。アーメン”
 

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2008年8月14日(木) 聖書の箇所:イザヤ 3章1〜26節/ 年間通読:詩篇40〜44篇
「主は言い争うために立ちあがり、その民をさばくために立たれる」。(13節)
  神様からはなれ、腐敗した国が混乱に陥った様子が示されている。今も、為政者、上に立つ者たちの腐敗や不正は後を絶たない。また隣人同士の争いも増加している。社会が創造主から離れて混乱している。
しかし神様は、キリストにある永遠の王国を始められた。主ご自身がさばきのために立っておられる。神の国の民である私たちは、一人一人の心が変えられて、また為政者たちも国も主によって変えられるようにと祈る。
また主は、神の国の大使として愛に満ち平和をつくり、正しい裁きを行う者を求めておられる。
“神さま、あなたと心を一つにし、祈り働きます。アーメン”
 

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2008年8月15日(金) 聖書の箇所:イザヤ 4章1〜6節/ 年間通読:詩篇45〜49篇
「シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られる、」。(3節) 
  イザヤは「終りの日」「その日」と繰り返し語り、神様の裁きの時を語っている。その時は誰もが神様から隠れる場所はないかと探す時でもある。しかし主を信じる者にとっては、その日は救いの日となる。
主から隠れる理由は何もない。主がその人の汚れを洗ってぬぐい、罪を取り除いて、聖なる者として下さるからである。
これはキリストの十字架による贖いによる。だからむやみに恐れる必要はない。それどころか出エジプトと同様に、聖霊の助けによって、いつもそばにおられることを示し様々な障害をも防いで下さる。
“主よ、救いの日を待ち望み感謝します。アーメン”
 

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2008年8月16日(土) 聖書の箇所:イザヤ 5章1〜30節/ 年間通読:詩篇50〜54篇
「しかし万軍の主は公平によってあがめられ、聖なる神は正義によって、おのれを聖なる者として示される」。(16節)
  南ユダ王国に対する厳しい裁きが示されている。だがその前に示されているのは、ブドウ畑に譬えられた、至れり尽くせりの神様の愛であった。神様は、預言者を何回も遣わし、悔い改めを勧めたが、ユダの人々は高ぶって、神様のねんごろな導きをことごとく踏みにじってしまった。そこに待っていたのは、聖なる神様の公平なさばきであった。
「わざわいなるかな」と何度も言う前に、どれほど主の愛が示されたことか。主の前にへりくだって、今悔い改め、愛のみ手に飛び込もう。
“父よ、高ぶっていた私をおゆるし下さい。アーメン”
 

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2008年8月17日(主日) 聖書の箇所:イザヤ 6章1〜13節/ 年間通読:詩篇55〜59篇
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。(8節) 
  ウジヤ王の死んだ年(BC742年)のことである。このウジヤ王は52年間治めた偉大な王であったが、高ぶって、祭司たちがする香をたいて主に罪を犯してしまった。
その王が死んだので悲しみと神の審きとを思って神の前に出ていた時に、聖なる神に触れ、自分の汚れと罪を知らされて、「わたしは滅びるばかりだ」と叫んだ。
すると祭壇の上から取ってきた燃えている炭によってきよめられたのであった。その時、神の声を聴きそれに応答したのであった。
“主よ、神の御声に応答させて下さい。アーメン”
 

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2008年8月18日(月) 聖書の箇所:イザヤ 7章1〜25節/ 年間通読:詩篇60〜64篇
「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」。(14節)
  これはメシヤの処女からの降誕の預言である。これはアハズ王に、しかも歴史(BC730年ごろ)の文脈の中で語られたのであるが、これが730年後に成就したのである。処女降誕はしるし(神の奇跡)であり、直接的に神が介入して、人類の救いのためになされた御業である。それは神が人となると言うことであった。ここに、神の強烈な愛を見ることが出来る。
“主よ、この大きな愛を知る者として下さい。アーメン”
 

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2008年8月19日(火) 聖書の箇所:イザヤ 8章1〜22節/ 年間通読:詩篇65〜68篇
「あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない」。(13節)
  アッスリヤが攻めて来て、サマリアがぶんどられることが主によって語られる。もろもろの民が計っても、それは実現しないのである。
それは“神がわれわれと共におられるからである”(10)。
だから、ユダヤの民の陰謀や恐怖に乗っかってはならないと主は命じなさり、あくまでも万軍の主を超越的な絶対的な神として、かしこんで恐れ敬いなさいと命じなさるのである。
“主よ、人の力や、サタン的なものを恐れず、あなたのみを拝み、仕える者として下さい。アーメン”
 

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2008年8月20日(水) 聖書の箇所:イザヤ 9章1〜21節/ 年間通読:詩篇69〜72篇
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる」。(6節)
  これはメシヤ預言である。アッスリヤによって滅ぼされた北イスラエルもメシヤによる救いに与かっていくのである。勿論、ユダもである。
同時にその方は異邦人の救い主となるのである。そしてそのお方は人間であり、神なるお方なのである。
“主よ、あなたが熱心な愛によって私たちのために救い主をお与え下さり感謝します。アーメン”
 

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2008年8月21日(木) 聖書の箇所:イザヤ10章1〜34節/ 年間通読:詩篇73〜77篇
「主がシオンの山とエルサレムとになそうとすることを、ことごとくなし遂げられた時、主はアッスリヤ王の無礼な言葉と、その高ぶりとを罰せられる」。(12節)
  “アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ”(5)とあるように、神はアッスリヤを用いて神の審きを行うのであり、その後でアッスリヤは無礼の言葉と高ぶりの故に滅ぼされるのである。
例え残忍な者で、容赦をしない敵であっても、主のみ手の中にあり、主の為に用いられるのである。そして、それもやがて主の審きにあうのである。 
“主よ、どんな者をも神の絶対的な権威のもとにあることを感謝します。アーメン”
 

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2008年8月22日(金) 聖書の箇所:イザヤ11章1〜16節/ 年間通読:詩篇78〜80篇
「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。(2節)
  エッサイの子孫からメシヤが出ることが預言される。そのメシヤには聖霊が留まるのである。その霊は知恵の霊、才能の霊であり、主を知り、主を恐れる霊である。メシヤはこのようにまず何よりも聖霊の油を注がれたお方である。
そしてその御霊によって信じる者も満たされるのである。更にその御霊により、キリストと同じ姿に変えられていくのである(第2 コリント3:17)。
“主よ、私たちが聖霊に満たされて、主と同じ姿に変えて下さい。アーメン”
 

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2008年8月23日(土) 聖書の箇所:イザヤ12章1〜6節/ 年間通読:詩篇81〜85篇
「主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ」。(5節) 
  主の救いを全世界に宣べ伝えるべきことが、言われている。何故世界宣教なのだろうか、それが主のご命令であり、御旨だからである。同時に、素晴らしい救いであるからである。また、これをのべ伝えずにはいられないからである。
そして宣べ伝えることによって、相手が救われ、私たちはもっと恵まれるのである。更に最後は、神に栄光を帰し、主を賛美するようになるのである。
“主よ、全地に、あなたの救いを宣べ伝えさせて下さい。アーメン”
 

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2008年8月24日(主日) 聖書の箇所:イザヤ13章1〜22節/ 年間通読:詩篇86〜89篇
「見よ、主の日が来る」。(9節)
  超巨大帝国を築き、後に南王国ユダを飲みつくすことになるバビロンの滅亡に関する預言が記されている。主にあってイザヤが語る“主の日”とは主によるバビロンへの徹底したさばきのことだけでなく、地の罪人、悪、に対する全地的な主のさばき(9〜11節)をも意味すると解していい。あれほどの大勢力を誇っていた無敵帝国、バビロンも預言の如く、バビロン捕囚後およそ50年後には消えて行ってしまった。
主の日は必ず来る。バビロンへの裁きの先にある全世界的なさばきは預言の如く、悲しいかな、徹底してなされるであろう。しかし、主イエスにある私達にとって主の日はさばきではなく、究極的な神の愛といつくしみが示される喜びの日となる。
“主の救いを感謝!アーメン”
 

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2008年8月25日(月) 聖書の箇所:イザヤ14章1〜32節/ 年間通読:詩篇90〜94篇
「わたしが思ったように必ず成り、わたしが定めたように必ず立つ」。(24節)
  神の民、イスラエルの人々を攻め、天下を我が物のように支配しようとするバビロン、アッスリヤは滅ぼされなければならない、いや滅びる、との主の峻厳なる宣言である。
どんなに強力な軍隊を持とうが、すさまじい勢力を持とうが、すべては主の御手の中にある。人間的な“勢力”は時が来ると消えていく。神の民が守られ、主の栄光が引き続き現され、主の光が放たれていくために、主は直接的に、間接的に介入し、その愛に基づく峻厳な“恵みの計画”をどこまでも貫かせていく。
峻厳な主の御思いを知り、そのご計画に参与していく私達でありたい。
“主よ、あなたの御心が我が内、我が人生の内に全うされていきますように。アーメン”
 

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2008年8月26日(火) 聖書の箇所:イザヤ15章1〜9節/ 年間通読:詩篇95〜99篇
「わが心はモアブのために叫び呼ばわる」。(5節)
  モアブについての主の厳しい託宣だ。モアブは南王国ユダの東隣に位置し、イスラエル、アラムら、周辺諸国と対アッスリヤ同盟を結んでいた。南王国ユダとは長い歴史の中での関係はあるものの、この時代は特に同盟に入らない南王国ユダに対して並々ならぬ敵意があったことは否めない。神を信じず、高ぶりのうちに、南ユダに敵対するモアブへの主からの厳しい、さばきの宣言だ。
しかしイザヤは近隣の国モアブに対しては深い同情をもって主に叫ぶ。私達の周囲にはなんと多くの神を知らずに、傲慢のうちに勝手な道を歩んでいる者が多いことか。そうした隣人の救いのために主に叫び求める者でありたい。
“主よ、我が同胞、隣人を救い給え。アーメン”
 

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2008年8月27日(水) 聖書の箇所:イザヤ16章1〜14節/ 年間通読:詩篇100〜104篇
「一つの玉座がいつくしみによって堅く立てられ、ダビデの幕屋にあって、さばきをなし、公平を求め、正義を行うに、すみやかなる者が真実をもってその上に座する」。(5節)
  モアブの使者が、ユダの王や高官を前にモアブの惨状を語り、援助を請うて語る言葉だ。驚くことにこの使者から単なる地上の権威ではなく、将来の天的王権が語られる。
いつくしみによって立てられ、ダビデの子孫から出て、公正と正義を貫き、裁きをなされるお方が王として君臨するというのだ。イエス以外に誰が考えられようか。
なんと神は裁かれ、崩壊していくモアブの厳しい、暗黒の現実の中にも、異邦の民、モアブの使者を通しても将来のキリストにある恵みの王権を指し示していた。
“驚くべき、究極の王、イエスを賛美します。アーメン”
 

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2008年8月28日(木) 聖書の箇所:イザヤ17章1〜14節/ 年間通読:詩篇105〜106篇
「その日、人々はその造り主を仰ぎのぞみ、イスラエルの聖者に目をとめ、おのれの手のわざである祭壇を仰ぎのぞまず、おのれの指が造ったアシラ像と香の祭壇とに目をとめない」。(7、8節)
  神の裁きによるイスラエルの滅亡の後に、真の信仰を保った《残りの者》によって人々は偶像から離れ、真の造り主なる神に立ち返るとの預言である。
イザヤはよくこの《イスラエルの聖者》という表現を使う。イザヤ書だけで実に25回も出てくる。イザヤが信仰を通して確かに見ていた《イスラエルの聖者》を時代を超え、私たちは信仰の目を通して見、仰ぎ、その驚くべき救いの中に入れられている。今日もこの《イスラエルの聖者》が我等とともにおられる。
“今日も《イスラエルの聖者》なる主を仰がせて下さい。アーメン”
 

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2008年8月29日(金) 聖書の箇所:イザヤ18章1〜7節/ 年間通読:詩篇107〜110篇
「その時、川々の分れる国のたけ高く、膚のなめらかな民、遠くの者にも近くの者にも恐れられる民、力強く、戦いに勝つ民から万軍の主にささげる贈り物を携えて、万軍の主のみ名のある所、シオンの山に来る」。(7節)
  アッスリヤが滅ぼされる時、エチオピヤのような世界の果てにある国からも、贈り物を携え、主の臨在溢れるシオンの山にやって来るとの預言だ。
イザヤはシオンを中心とする世界平和の到来を見ていた。時代は違えど、いかなる人種、民族に属する者であろうとシオンどころではない、神ご自身であるイエス様のもとに来る時、徹底的な神と人との平和、人の調和、人と人の間の平和、人と被造物の平和が実現される時の中に、今、私たちはいる!
“キリストに来る者が起こされますように。アーメン”
 

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2008年8月30日(土) 聖書の箇所:イザヤ19章1〜25節/ 年間通読:詩篇111〜115篇
「主はエジプトを撃たれる。主はこれを撃たれるが、またいやされる。
 それゆえ彼らは主に帰る。主は彼らの願いをいれて、彼らをいやされる」。(22節)
  アッスリヤとエジプトは当時の2大帝国であった。この2大超大国が主の前に悔い改め、主に帰ることは、即ち世界の平和につながる故に、主はエジプトに目を留められる。特に旧約聖書の時代においての、民へのさばきと救いは一つのセットのようなものだ。
神のなさるさばきは決してさばきのためのさばきではなく、愛する者を引き上げるための、信仰によるいのちを得させるためのものに他ならない。
神は徹頭徹尾、愛なるお方だ。あらゆる状況を用いて、私達を救い、回復、癒しへ向かわせる。
“主よ、我等へのあなたの深遠な愛を感謝します。アーメン”
 

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2008年8月31日(主日) 聖書の箇所:イザヤ20章1〜6節/ 年間通読:詩篇116〜118篇
「そこでイザヤはそのようにし、裸、はだしで歩いた」。(2節)
  イザヤは主に裸、はだしになりなさいと言われた時、驚きとまどったに違いない。けれどもイザヤは主の言葉に従い、「海べに住む民」(6節、ペリシテ人やユダヤ人など)への徴となった。それは揺れ動く国際情勢の中で強国に頼るのでなく、主にのみ頼りなさいというメッセージである。
混沌とした社会にあって、あなたの行動の基準は何か。主に信頼していると言いつつも、実は、他の人、策略、金銭などに頼っていないだろうか。
力の論理ではなく、主のみ言葉に信頼し、主に全く従っていきたい。
“主よ、主に全く信頼し、み言葉を基準に行動する者として下さい。アーメン”
 

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