デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年9月のデボーション
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2008年9月1日(月) 聖書の箇所:イザヤ21章1〜17節/ 年間通読:詩篇119篇
「倒れた、バビロンは倒れた、その神々の像はことごとく打ち砕かれて地に伏した」。(9節)
  この章には、バビロン、ドマ(エドム)、アラビヤへの預言が記されている。バビロンは歴史上の大国をあらわすが、同時に終末におけるこの世をもあらわしている(黙示録18章)。
私たちがこの世を見る時、とても強く、クリスチャンの生き方などひねりつぶされるように感じるかもしれない。
けれども霊の目を開かれて見る時、この世はすでに倒れている。信仰生活が困難に思え、宣教に大きな岩が立ちはだかっているように見えてもすでに打ち砕かれている。
“神さま、私が弱いところにこそ、
 主の力は完全にあらわされる(第2コリント12:9)ことを信じ感謝します。アーメン”
 

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2008年9月2日(火) 聖書の箇所:イザヤ22章1〜25節/ 年間通読:詩篇120〜124篇
「わたしはまたダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はない」。(22節)
  この「彼」とは直接には官僚エリアキムを指しているが、預言的に見ると永遠の命の鍵を持っておられるイエス・キリストを指している(黙3:7)。だがこの天国への鍵は、イエスさまを「生ける神の子キリスト」と告白する私たちに託された鍵でもある(マタイ16:19)。
それぞれのおかれている立場状況は違うけれども、私が伝えることによって救われる人がいる、私が伝えないことによって救われない人がいる。主と同じ思いとなってなんとかこの福音を手渡していきたい。
“主よ、私も手渡されたこの福音を、あの人に手渡せますように。アーメン”
 

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2008年9月3日(水) 聖書の箇所:イザヤ23章1〜18節/ 年間通読:詩篇125〜129篇
「その商品とその価とは主にささげられる」。(18節a)
  この章はツロとシドンへ主のさばきの言葉である。ツロとシドンは、イスラエルの隣国の都市で海洋貿易で栄えていた。しかし、主のさばきの時に問われるのは、経済力ではない。神の前に義とされているかどうかである。不思議なことにツロとシドンの富は奪われ、主のものとされ、主の民に与えられる。
今日の社会もそこそこ経済的に潤っているが、それによっては幸福感は増えない。また死ぬ時に、蓄えを持っていくことはできないし、裁きを変えることもできない。経済より神を第一とする時こそ必要は備えられる。
“父よ、無代価の救い、また必要の付与を感謝します。アーメン”
 

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2008年9月4日(木) 聖書の箇所:イザヤ24章1〜23節/ 年間通読:詩篇130〜134篇
「そして、その民も祭司もひとしく、しもべも主人もひとしく、…この事にあう」。(2節)
  ここから数章世界のさばきと終りの日の救いについて記している。主がこの地をむなしくし、荒れさせる時、また天の軍勢と地のもろもろの王を罰せられる(21節)時、だれもそこから逃れることはできない。
主がその栄光を表わされる時、地の基が震え動く(18節)。そこでは、自分の理屈や自分の正当性の主張は、何の弁解にもならない。私たちができることは、ただ自分の汚れを恥じ、むなしくなることだけだ。自分の主張を脇へ置き、主の御言葉を聞き、受け入れよう。
“神様、あなたのさばきの前に自分をむなしくするばかりです。
 私をあわれんで下さい。アーメン”
 

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2008年9月5日(金) 聖書の箇所:イザヤ25章1〜12節/ 年間通読:詩篇135〜139篇
「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる」。(8節a)
  ここには何と大きな主のご計画と祝福とが記されていることだろうか。
主は私たちに「いにしえから定めた計画」(1節)により、つまりキリストの十字架と復活により、私たちの弱さ貧しさを思いやって下さり、救いの道を開いて下さった。
罪の結果である死が滅ぼされたので、すべての涙と辱めが取り除かれる。私たちのおおいが破られて、主の栄光の姿を見、その栄光の姿に変えられていく(7節、第2コリント3:12〜)。
“主よ、死を打ち破られたお方を賛美します。感謝します。アーメン”
 

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2008年9月6日(土) 聖書の箇所:イザヤ26章1〜21節/ 年間通読:詩篇140〜143篇
「あなたは栄光をあらわされた。あなたは地の境を四方に広げられた」。(15節c)
  この章も世界のさばきと救いについて記されている。悪しき者が主によってさばかれ、主の栄光があらわされ、苦しんでいた主の民が生かされ、増し加えられている。弟子たちは、よみがえられた主イエスにお会いしたが、なお聖霊を待つように指示された。
聖霊を受けた弟子たちは大胆によみがえりの主による救いを宣べ伝え、福音は地の四方に広がっていった。聖霊は、弟子たちに聖書の御言葉を悟らせ、臆病な弟子たちを生きた証人とした。同じ福音を私たちは受け継いでいる。
“父よ、聖霊に満たし、御言葉を悟らせ、主の証人として下さい。アーメン”
 

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2008年9月7日(主日) 聖書の箇所:イザヤ27章1〜13節/ 年間通読:詩篇144〜147篇
「主なるわたしはこれを守り、常に水をそそぎ、夜も昼も守って、そこなう者のないようにする」。(3節) 
  “その日”とは敵にとってはさばきの日であり、イスラエルにとっては救いの日、恵みの日である。逃げるへび、レビヤタンはアッスリヤを、曲がりくねるへびレビヤタンはバビロンを、海におる竜はエジプトを象徴しているといわれる。これらの敵が滅ぼされるのである。そして、主は上の御言葉の如くして下さるのである。これは、キリスト者に対する神の約束でもある。まさに、イスラエの民が、敵の地から帰って来るように、キリストを信じる者が教会に来て主を拝む時が来るのである。
“主よ、あなたの恵みを感謝します。アーメン”
 

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2008年9月8日(月) 聖書の箇所:イザヤ28章 1〜29節
年間通読:詩篇148〜150篇、箴言1章
「これもまた万軍の主から出ることである。その計りごとは驚くべく、その知恵はすぐれている」。(29節)
  北イスラエルと南ユダのさばきが言われる。しかし、主は“堅くすえた尊い隅の石”をシオンにおくのである。これは、イエスさまご自身の十字架による救いの預言である。
このイエスさまにより頼む者は必ず、救われ守られるのであるから、あわてないで信頼し続けることが大切である。更に、神のさばきは滅ぼすためのものではなく実を得るためなのである。ここに驚くべき神の知恵があるのである。
“主よ、イエスさまにより頼み続ける者として下さい。アーメン”
 

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2008年9月9日(火) 聖書の箇所:イザヤ29章1〜24節/ 年間通読:箴言2〜5章
「柔和な者は主によって新たなる喜びを得、人のなかの貧しい者は、イスラエルの聖者によって楽しみを得る」。(19節)
  アリエルとは祭壇の炉という意味で、神の宮があるエルサレムをさす。このエルサレムが滅びるのだが、同時に、その滅ぼす敵ももみがらのように、滅ぼされてしまうのである。
しかし、“しばらくすれば”(17節)創造者による救いのみわざがなされるのである。耳の聞こえない者も聞き、目の見えない者も見えるようになり、柔和な者は主による喜びを、貧しい者はイスラエルの聖者による楽しみを得るのである。
“主よ、神の救いのみわざを待ち望ませて下さい。アーメン”
 

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2008年9月10日(水) 聖書の箇所:イザヤ30章1〜33節/ 年間通読:箴言6〜9章
「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。(18節)
  イスラエルが頼るに価しないエジプトと同盟を結ぶことへの警告が言われている。救いの秘訣は主ご自身への信頼であり、待ち望むことである。
また、主御自身が待っていて下さって、恵を与えて下さり、行動をおこしてあわれみ、明確に、道を教えて下さるのである。
“主よ、あなたが待っていて下さることを感謝します。アーメン”
 

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2008年9月11日(木) 聖書の箇所:イザヤ31章1〜9節/ 年間通読:箴言10〜13章
 「鳥がひなを守るように、万軍の主はエルサレムを守り、これを守って救い、これを惜しんで助けられる」。(5節) 
  この章でもエジプトが頼りにならないし、アッスリヤはそのようなことで攻撃の手を緩めたりもしない。しかし、その強力なアッスリヤも神によって、滅ぼされてしまうのである。
万軍の主はエルサレムが偶像を頼みとしている不従順の民であるが、このエルサレムを愛ゆえに、惜しまれて、アッスリヤによって滅ぼされないようにするというのである。
“主よ、あなたのあわれみを感謝します。アーメン”
 

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2008年9月12日(金) 聖書の箇所:イザヤ32章1〜20節/ 年間通読:箴言14〜17章
「正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である」。(17節)
  1節に出て来る王はメシヤであり、メシヤによる終末的な支配が預言されている。そこは義と公平が支配原理であり、安全なことが言われている。また、やがて、エルサレムも滅ぼされ(14節)、そして、そのことに早く気がつくようにとのことでもある。
さばきと救いと平和が語られているのは、さばきのメッセージによって民が罪を悔い改めて、約束されている救いに入るようにという神の御心があるからである。さばきの後で、神の義による平和と平安と信頼がもたらされるのである。
“主よ、私たちにあなたの義を下さい。アーメン”
 

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2008年9月13日(土) 聖書の箇所:イザヤ33章1〜24節/ 年間通読:箴言18〜21章
「主よ、われわれをお恵みください、われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救となってください」。(2節) 
  エルサレムの敵の滅亡とその回復が預言されている。そして、ここでは、民が主の恵みと主御自身を待ち望むことを、また、朝ごとにわれわれの腕となり、悩みの日に救って下さることとを切に祈っているのである。
朝ごとにということから、毎朝の祈りによってということである。毎朝、神の力強い御手に頼らせ下さいというのである。
“主よ、毎朝、私たちもあなた御自身の力ある御腕に頼らせて下さい。アーメン”
 

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2008年9月14日(主日) 聖書の箇所:イザヤ34章1〜17節/ 年間通読:箴言22〜25章
「あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。」(16節a)
  イザヤの預言者活動は卓越している。その預言の対象は北イスラエル、南ユダに限らず、また近隣諸国に限らず、全世界をも含み、実に幅広い。エドムへのさばきによる神の栄光の現われについて語られるが、これはセナケリブが率いるアッシリアによるエドムの滅亡前に語られたものだ。
おそらく当時の人々にとっては夢物語で信じられない話であったろう。しかし、主が語られたことが一つも違わずなるのを見る時、主の語られることをしっかりと受けとめ、未来を見て歩かねばならない。
“主よ、しもべは聞きます。アーメン”
 

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2008年9月15日(月) 聖書の箇所:イザヤ35章1〜10節/ 年間通読:箴言26〜29章
「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。」(8節)
  世界のさばきについて語られた後、ここでは主の力強いあがないのわざによって救われた新しい、霊的なイスラエルの民の生き生きとした姿が描き出されている。全世界からシオンへと聖なる道が用意され、あがなわれた者だけがそこを通り、帰ってくる(10節)。
キリストは“わたしは道であり、真理であり、命である”(ヨハネ14:6)と語った。この聖なる、いのち溢れたキリストの大路を通して、キリストの血潮によってあがなわれた私たちは神のただ中に究極の帰還をさせていただくのだ。キリストによって刷新された新しいイスラエルの民として胸を張ってこの大路を歩こう! 
“誠実に主の道を歩ませて下さい。アーメン”
 

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2008年9月16日(火) 聖書の箇所:イザヤ36章1〜22節
年間通読:箴言30,31章、伝道1章
「あなたが頼みとする者は何か。」(4節c)
  36章から39章までは南王国ユダを取り巻く歴史的時代背景が記されている。アッスリヤの包囲が固まる中で、アッスリヤの王より遣わされたラブシャケはユダ王、ヒゼキヤに無条件降伏を求める。
アッスリヤの王から発せられた一つの問い、“あなたが頼みとする者は何か”は、そのまま、絶体絶命なる状況に直面していたヒゼキヤ王が率いるユダの民たちに突きつけられた神の問いかけであったと理解できる。
芳しくない、厳しい、苦しい私達の危機的状況に、あなたは何を頼みとするか?主を頼みとすることの最善を、勝利を味わい知るお互いとなろうではないか!
“あなたに信頼を置き勝利する者とし給え。アーメン”
 

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2008年9月17日(水) 聖書の箇所:イザヤ37章1〜38節/ 年間通読:伝道2〜5章
「主の使が出て、アッスリヤびとの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆死体となっていた。」(36節)
  アッスリヤの無数の兵隊に囲まれ、絶体絶命の危機に直面した南王国ユダだが、主の語られる通り、主の守りを信じ、万軍の主へ信仰の目を再び上げた結果が上記の御言に凝縮されている。
信仰には必ずその結果が伴う。神の時と私たちの思うその時とは大きな開きがあるとしても、全存在をかけて信頼し、より頼んでいくその先に、私たちへの神の恵みの応答がある。信仰を基点として主は力強く御働きになる。今日も信仰の目をこの全能のお方に向かって上げようではないか!
“私たちの祈り、信頼に答えて下さるあなたの恵みを感謝します。アーメン”
 

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2008年9月18日(木) 聖書の箇所:イザヤ38章1〜21節/ 年間通読:伝道6〜9章
「主よ、これらの事によって人は生きる。わが霊の命もすべてこれらの事による。どうか、わたしをいやし、わたしを生かしてください。」(16節)
  病の中に陥っていたヒゼキヤ王への、主の特別なお取り扱い、癒しのわざが描かれている。癒しの中で、神の支えの中で、ヒゼキヤは人のいのちの弱さ、はかなさと同時に神の絶対的な主権と人を生かす神の力をこれ以上、ないほどに知った。
主の語り、なされるそのみわざによって人は再生し、回復し、さまざまなものから解放され、真の意味において生きる。キリストは我らの内に住み、内側から御言とともにいのちの泉を湧き上がらせ真に生かして下さる。
“主よ、我がうちにいのちの泉を湧き上がらせて下さい。アーメン”
 

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2008年9月19日(金) 聖書の箇所:イザヤ39章1〜8節
年間通読:伝道10〜12章、第1テモテ1章
「万軍の主の言葉を聞きなさい。」(5節)
  ある学者によると39〜38章は36〜37章の前、即ちセナケリブ王率いるアッスリヤがユダを包囲する前に起ったこととされている。バビロンの使節がヒゼキヤ王を尋ねて来たが、王は不用意にも倉庫にある宝の数々をすべて見せてしまったのだ。当然、その宝に魅了されたバビロンはこのユダもろとも手に入れようと虎視眈々と狙いを定めていく。
なぜヒゼキヤは愚かにも敵に手の内を見せてしまったのか?バビロンの気を引き、いざという時のために信頼を得ておこうとの意図があったのだろう。
主はこの二心を嫌われる。二股ではなく、主のみ、という信仰でなくては主が悲しまれる。
“信仰を貫かせて下さい。アーメン”
 

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2008年9月20日(土) 聖書の箇所:イザヤ40章1〜31節/ 年間通読:第1テモテ2〜5章
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(31節)
  40章からは回復、将来の救いが特にクローズアップされて語られる。信仰者は地上にあるものだけを目標として、“地上”という枠組みの中のみに生きる存在ではなく、神の新鮮な力といのちを受け、鷲のごとく、天を目指して生きる存在ではないだろうか。
天を目指して、主からの力といのちを全身で受けとめていく時、地上での歩みがしっかりとしてくる。今日も心を主に向け、新たな力、いのちをいただきつつ、健全な“地に足の着いた”歩みをさせていただこう!
“主の力を得て、元気に歩ませて下さい。アーメン”
 

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2008年9月21日(主日) 聖書の箇所:イザヤ41章1〜29節
年間通読:第1テモテ6章, 雅歌1〜3章
「見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする。」(15節)
  イスラエルに対する究極的な救いを示している。神の祝福を受け継ぐ者として、また多くの人の祝福の基となるはずのイスラエルであったが、多くの時を神に背き、厭われ、ついには捨てられるように捕囚に至る。
だが主はイスラエルを最終的に新しくて鋭い収穫の道具とされる。「虫にひとしい」者恐れる者を主は変えられる。
私たちも同じである。神様は私たちをキリストにあって選び、繰り返し、恐れるな、あなたと共にいると語っておられる。そして祝福の源、主の十字架と復活の証人として下さった。
“主よ。全く無価値な者ですが、聖霊に満たし、遣わして下さい。アーメン”
 

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2008年9月22日(月) 聖書の箇所:イザヤ42章1〜25節/ 年間通読:雅歌4〜7章
「彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。」(4節)
  この箇所は、イザヤ書の中の「しもべの歌」と呼ばれるものの一つである。「メシア」「救世主」というと、イザヤの時代でも今でも強く正しい者が現れて、悪を打ち破ることを考える。けれども主が示された救世主とは、戦いのために叫ぶのでもなく、正しいさばきだと声を上げる者ではない。
倒れしおれ、消えかかっているような者と共に歩み、再び生かすお方である。イエスさまご自身、十字架の道を歩み、ついに罪と死とに勝利し、道を確立された。
“神様。十字架の苦しみのただ中を歩み、私のうちしおれる時にも共にいて、
  罪を担い生かして下さる主を感謝します。アーメン”
 

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2008年9月23日(火) 聖書の箇所:イザヤ43章1〜28節
年間通読:雅歌8章,第2テモテ1〜3章
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、」(19節)
  主は、背き続けるイスラエルの民に、これでもかというほどにあがなう者として道を示しておられる。この「新しい事」は「いにしえのこと」(18節)と対比されている。つまり過去の事を思い出すな、考えるなと言っておられる。
一つは、過去の罪や失敗、結果としての苦しみである。主が「あなたのとがを消す者」(25節)だからである。もう一つは、過去の主のくすしいみわざである。これまで以上の新しい事が起こるからである。主にあがなわれた事を確信し、やがて与えられる恵みに目を向けて歩もう。
“主よ。過去への囚われを忘れます、やがて起こる事に目をとめます。アーメン”
 

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2008年9月24日(水) 聖書の箇所:イザヤ44章1〜28節
 年間通読:第2テモテ4章,イザヤ1,2章
「あなたを造り、あなたを胎内に形造り、あなたを助ける主。」(2節)
  主は、私たちを胎内に造られたお方である。特に偶像との係わりで言われている。偶像は、人が刻み、人が作り、見ることも聞くこともできないのに、それを拝んでいる。
一方、まことの神は世界の始まる前からおられ、世界を創造し、今も一人一人を形造り、生かしておられる。この主が私たちを呼んでおられる。「エシュルン」とは、イスラエルを幼児とみなした親しみをこめた呼び方である。
何ができなくても、どんなに手間がかかっても愛される幼児のように、私たちを造られたお方は私たちを愛し呼んでおられる。
“父よ。惜しみなく愛されていることを感謝します。アーメン”
 

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2008年9月25日(木) 聖書の箇所:イザヤ45章1〜25節/ 年間通読:イザヤ3〜5章
「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」(5節)
  創造主なるまことの神様を信じていない人も世の中には多くいる。また様々な偶像があり、占いがある。
しかし、神はただ一人である。主は偶像を拝む者をも知り、その人が主を知らなくても、主の民のために用いてこられた。教会内もそうだが教会の外がどんなに異教の地であろうと、創造主なる主の支配の中にある。かつてペルシャのクロス王を用いイスラエルの民を帰還させた神は、今も私たちの生きる世界で働いておられる。
“神様。主がすべて治め、働いておられる世界で、すべてが最善と信じます。アーメン”
 

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2008年9月26日(金) 聖書の箇所:イザヤ46章1〜13節/ 年間通読:イザヤ6〜9章
「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(4節)
  私たちを胎の中で形造られた主は、私たちの生涯の最後まで私たちを負い、持ち運び、救って下さるお方である。今日の長寿社会に生きる中で、肉体や脳の老化によって、自分自身さえ不覚に陥らない保証はない。まして信仰などおぼつかないように見える。
私たちを造られた主はそれらのこともご存知で、最期の時まで負い、持ち運んで下さる。
“主よ。若い時も老いた時も、負って下さるから感謝します。アーメン”
 

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2008年9月27日(土) 聖書の箇所:イザヤ47章1〜15節/ 年間通読:イザヤ10〜13章
「その名を万軍の主といい、イスラエルの聖者である。」(4節) 
  バビロンの破滅の預言が記されている。なぜ破滅なのか。一つは、主が罰してバビロンに渡したイスラエルにあわれみを施さないからである(6節)。もう一つは、楽しみにふけり、終りのことを思わないからである(7,8節)。
そしてバビロンを救う神はいない、人もいないと語られている。全地の統治者、全くきよい聖なるお方。終りの時に私たちは、この主の前に立つのである。誰が立ちうるだろうか。
だがキリストによって新しく生まれた者は「われわれをあがなう者」(4節)と呼ぶことができる。 ハレルヤ!
“主よ。全く汚れた者が「主」にあがなわれたことを感謝します。アーメン”
 

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2008年9月28日(主日) 聖書の箇所:イザヤ48章1〜22節/ 年間通読:イザヤ14〜17章
「あなたのあがない主、イスラエルの聖者、主はこう言われる、
『わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたの利益のために、あなたを教え、あなたを導いて、その行くべき道に行かせる』」。 (17節)
  11節では神ご自身の栄光のためにこれ(捕囚と解放の両方をさす)を行うとあるが、これは同時にイスラエルの民の利益のためである。その利益とは彼らの平安(繁栄)と義及び子孫の繁栄ことである。
ここで神の栄光をあらわすことは私達の益なのであることを覚えたい。
“主よ、あなたの栄光のために生きる者とさせて下さい。アーメン”
 

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2008年9月29日(月) 聖書の箇所:イザヤ書 49章1〜26節/ 年間通読:イザヤ18〜21章
「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
 たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」(15節)
  母親がその乳の子を忘れることがないように、神はまだ育ちきっていないイスラエルを忘れることがない。たとい母親が忘れることがあっても、主は決して忘れないというのである。
それ故、神に期待し、主を待ち望み続けよう。
“主よ、あなたの真実な愛を信じ続けさせて下さい。アーメン”
 

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2008年9月30日(火) 聖書の箇所:イザヤ書 50章1〜11節/ 年間通読:イザヤ22〜25章
「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。」(10節)
  4節〜9節は第3の「僕の歌」と言われる。僕なるメシヤ、苦しみ辱められるメシヤのことである。この僕に聞きしたがうことが言われているが、それは主を恐れる者でもある。
しかも、“暗い中を歩いても光を得ない”とあるように、苦しみと痛みがいつ果てるか分からないような、その中において、なお主に信頼する者を求めておられるのが主である。
“主よ、絶望と暗闇の中で、あなたに信頼させて下さい。アーメン”
 

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