デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2008年10月のデボーション
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2008年10月1日(水) 聖書の箇所:イザヤ書 51章1〜23節/ 年間通読:イザヤ26〜28章
「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」(1節)
  イスラエルの民にその救いの原点、どのような中からから救われたかを思い出すように語っている。私たちも、いつも救いの原点を知る必要があるのである。
罪と汚れの中にあったのが、取るに足りないものであったのが、主の民、主の宝の民とされたのである。ここに再び、イスラエルが神の大いなる力によって、救い出される時が来たである。
“主よ、あなたが義の故にさばくが、又、愛の故に弁護されることを感謝します。アーメン”
 

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2008年10月2日(木) 聖書の箇所:イザヤ書 52章1〜15節/ 年間通読:イザヤ29〜30章
「去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。」(11節)
  イスラエルの民がいよいよ解放されて再び、エルサレムに帰ってくることが言われる。これは救いにおける主の力強さの顕われであり、地の果ての人々もそれを見るのである。
また、これは主がエルサレムの王であることを再びあらわすことであり、更に、イスラエルの民にとっては、喜びなのである。
“主よ、あなたが私たちの王であることを感謝します。あなたの支配を顕して下さい。アーメン”
 

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2008年10月3日(金) 聖書の箇所:イザヤ書 53章1〜12節/ 年間通読:イザヤ31〜33章
「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(5節)
  52章13節〜53章12節は第4の「しもべの歌」と言われているものである。これはイエスの生涯と十字架の預言である。正にあの十字架の死はわれわれの罪ととがのためのものであったのである。私たちはその打たれた傷によって、肉体の病も心の傷も癒されるのである。
“主よ、メシヤが預言の通りに私たちの罪のために死なれたことを感謝します。アーメン”
 

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2008年10月4日(土) 聖書の箇所:イザヤ書 54章1〜17節/ 年間通読:イザヤ34〜36章
「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。」 (2節)
  主が御自身の民を増やされるので、その民が住むことができるように、住まいを広げ、それが倒れないように、しっかりと建てるようにということである。捕囚からの解放後、神の民が増え、外国にまで及ぶことも言われている。
また、十字架の赦しに与かる者が多くおこされ、それが全世界に及ぶことをも予言したものでもある。
“主よ、救われた多くの人を入れることが出来るために、会堂を広げさせて下さい。アーメン”
 

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2008年10月5日(主日) 聖書の箇所:イザヤ書 55章1〜13節/ 年間通読:イザヤ37〜39章
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」(1節) 
  心の目が暗み、真に価値あるもの神のうちに見出せないあわれな神の民に対する神の涙ながらの恵みへの招待が記されている。水、ぶどう酒、乳という当時の人々にとってはこの上もない高価な品々に代表されるように、神の内にこそこの世の価値判断では計れない霊的な祝福のすべてがある。
我々に求められているただ一つのことは主の前に“出て来る”ということだ。キリストにあって神の恵みのすべてが無料で、しかも無制限に振舞われる道が開かれている。 
今日も主の前に来たれ! 
“あなたの恵み、力、いのちを今日も我に注ぎたまえ。アーメン”
 

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2008年10月6日(月) 聖書の箇所:イザヤ書 56章1〜12節/ 年間通読:イザヤ40〜41章
「わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、
 彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。
 わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである。」(7節) 
  真の霊的な民による真の礼拝について語られる。その真の霊的な民らに広げられる主の救いと恵みは、選びの民の枠を越え、世界に及ぶ。その自らの罪のゆえに悔い崩れ、主の前に叫び求めるものすべてが真の霊的な民となる。
信仰はいつも形骸化という見えない敵からの挑戦を受けている。神との生きたいのちの交流が欠けてくると私たちの信仰は冷え、堅くなる。神がいつの時代も変わらず求めておられるのは新鮮な信仰、神の前に砕けた真実な信仰と、その信仰に立った民だ。
“真実な、生きた、新鮮な信仰を与えて下さい。アーメン”
 

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2008年10月7日(火) 聖書の箇所:イザヤ書 57章1〜21節/ 年間通読:イザヤ42〜43章
「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。』」(15節) 
  いと聖なる超越者なる神だが、同時にそのいと高きお方は私たちのただ中にいて下さる。この超越と内在という2つの相反する動きが神のうちでは一致する。どのような者と共にいて下さるか?
神の前にばらばらになるほどに砕かれた心を持つ者と共にいて、かつ再生のいのちを与え、生かす。何かができるからではなく、弱さを露呈し、弱さのゆえに主の前に崩れ倒れる者の内に超越者なる主は共なり、勝ち得て余りあるいのちを注ぎ、生かす。これぞ主のみぞなせるわざなり!
“我を再生させたまえ!アーメン”
 

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2008年10月8日(水) 聖書の箇所:イザヤ書 58章1〜14節/ 年間通読:イザヤ44〜45章
「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。」(6節)
  真の、神に喜ばれるところの断食について語られている。偽善に満ちた、いわゆる人の前で見せびらかす信仰的儀式として、主観的な意図のために断食を“使用”することの断罪である。
真実なる信仰による祈りは主に喜ばれ、受け入れられ、大きな神の力、奇跡と恵みを引き出す土台となるが、断食もまたしかりだ。
へりくだりと畏れを持ち、なによりキリストを土台とした真実な、心のこもった信仰による祈りは必ず聞かれる。それは私たちの言葉の巧みさ故でなく、ただキリストの故になのだ。
“真実な、主への愛に溢れた敬虔かつ信仰による大胆な祈りを献げる者としたまえ。アーメン”
 

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2008年10月9日(木) 聖書の箇所:イザヤ書 59章1〜21節/ 年間通読:イザヤ46〜48章
「あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない。」(21節)
  将来の恵み、神の民たちへの救いの約束が語られる。神の霊は信仰者をきよめ、神の民としてふさわしくさせる。そしてそこに神の言葉が手渡される。それは自己満足のためではなく、世界に主の栄光と誉、愛と慈しみを神の言葉とともに語り継ぐためだ。
聖霊がキリストにあって我らの内に生きる時、心がきれいにされ、神の言葉を語り、主の救いを全世界に示すにふさわしい者へ変えられていく。
“聖霊の力強い働きによって主の救いを語るにふさわしい者にして下さい。アーメン”
 

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2008年10月10日(金) 聖書の箇所:イザヤ書 60章1〜22節/ 年間通読:イザヤ49〜51章
「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。」(1節)
  神の民が神の民としての光を取り戻し、神の栄光を全世界に顕わすようにとの神の訴えだ。月は太陽の光を受けて輝く。神の民も神によって輝かされて、その栄光を世に顕わす。
私たちには神の栄光の具体的な顕れ、いや神御自身でおられるイエスがいて下さる。このお方がうちに住む時、このお方によって神の似姿に変えられていくとき、神の言葉と共に、全生活を通して神の栄光、愛、いつくしみときよきを世に向かって顕わすような者とされていく。
この暗き世に主にあって神のいのちと希望の光を放て!
 “主よ、あなたの栄光を反映する者にして下さい。アーメン”
 

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2008年10月11日(土) 聖書の箇所:イザヤ書 61章1〜11節/ 年間通読:イザヤ52〜55章
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、・・・。」(1〜3節)
  前章までは神の栄光を顕わすべき神の民について語られたが、ここではその栄光を、輝きをもたらす源としての油注がれた方について集中して語られる。この時代から740年あまりを経て、究極の油注がれた者、イエス・キリストにあってこの御言葉は成就した(ルカ4:18)我々はいやされる。
我々は罪、さばき、私たちを縛り、押さえつけ、崩壊へ至らせるようなさまざまなものから解放される。それはただ、私たちのために遣わされた油注がれた方、イスラエルの聖者なるキリスト・イエスの故に他ならない。
今日も心一杯、いやし主、解放者、救出者、いのちの与え主なるイエスにハレルヤと叫ぼう!
“あなたのくすしき解放のみわざを心から感謝します。アーメン”
 

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2008年10月12日(主日) 聖書の箇所:イザヤ書 62章1〜12節/ 年間通読:イザヤ56〜58章
「彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ、」(12節)
  イスラエルの人々は、奴隷生活から解放され、喜んで約束の地へ来た。だがその後、主に信頼せず、主の示される正しい道には従わず、悪い行いをしては懲らしめられるという繰り返しである。それでも主は、あきらめず、見捨てずに、導いて、救いの喜びを返し、正しい者として下さると約束して下さっている。
私たちも、主に信頼せず、主に背いて主を悲しませることがどれ程多いかわからない。主は、私たちを「聖なる民」と呼ばれるにふさわしい者にすると約束して下さっている。
“主よ、主の約束にしたがって、聖なる者として下さったことを感謝します。アーメン”
 

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2008年10月13日(月) 聖書の箇所:イザヤ書 63章1〜19節/ 年間通読:イザヤ 59〜61章
「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、」(9節)
  63、64章は神への祈りである。その中で私たちの悩みの時に、主も共に悩んで下さるお方であることが言われている。主は天におられるお方であるが、私たちの中にまで来て共に悩まれた。そして救いの道を開かれた。キリストの十字架と復活がそれである。私たちは今も働くサタンによって、時に主を憂えさせるかもしれない。だが主の復活は、サタンの力の源である罪と死を完全に打ち砕いている。悪魔の働きがどんなに強そうに見えても、すでに勝利はみ主の御手にある。
“父よ、私の悩みを共に負って下さり、また十字架による勝利を下さって感謝します。アーメン”
 

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2008年10月14日(火) 聖書の箇所:イザヤ書 64章1〜12節/ 年間通読:イザヤ 62〜64章
「あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる。」(5節)
  主の恐るべき威光、自らの深い罪を見て、とりつく島もない中で、父なる主にあわれみを請うて祈っている。ここで「記念する」とは特別な出来事を忘れないことである。
デボーションにおいても、どれくらい聖書を読んだか、どれくらいの時間祈ったかということよりも、御言葉を通して、祈りを通して、どのような出来事が、変化が起こったかが大切である。主にあって起こった出来事がまさに私たちの「記念する」ことである。その出来事は、さらに主と自らの隔たりの大きさを示しつつも、「父」よ(8節)と呼ばせ近づかせる。
“父よ、恐れつつあなたを記念します。アーメン”
 

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2008年10月15日(水) 聖書の箇所:イザヤ書 65章1〜25節/ 年間通読:イザヤ65〜66章
「彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。」(23節b)
  65、66章は祈りに対する神さまの答である。神さまの愛と忍耐の中、厳しいさばきと新天新地の祝福が記されている。驚くほどの祝福が人にわかりやすく記されている。 喜びに満ちあふれ、泣く声と叫ぶ声はない。 おおかみと小羊とが共に食している。 平和と充足があふれている。
私たちはこの祝福に自分の子供、家族と共に与りたいと願う。「主を求めなかった者」「主を尋ねなかった者」(1節)にさえ与えられたこの福音は、今度は私たちの取りなしを通して、子供や家族、次世代の人々に手渡されていく。
 “父よ、この福音の祝福に私の家族も隣人も与りますように。アーメン”
 

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2008年10月16日(木) 聖書の箇所:イザヤ書 66章1〜24節
年間通読:テトス1〜3章、エレミヤ1章
「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる。」(22節)
  イザヤ書の最後にふさわしく、多くの大切な言葉が記されている。私たちにとって大切なことは、何に向かって進んでいるかを明確にすることである。その目標に向かうために何が必要で何をすべきか選択しなければならない。
私たちは何でもできるほどの時間を持っていない。茨に落ちた種は、実を結ばなかった(マタイ13:22)。新しい天地に向かって 「へりくだって心悔い」(2節)、主の「栄光をもろもろの国民の中に伝え」(19節) ていこう。
“神さま、神の国に向かって、大切なもの見極めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年10月17日(金) 聖書の箇所:エレミヤ書 1章1〜19節/ 年間通読:エレミヤ 2〜3章
「わたしは自分の言葉を行なおうとして見張っているのだ。」(12節)
  今日からエレミヤ書。彼はイザヤから約百年後(BC626〜583年)に、若い時(18歳か20歳)に召され、40年余の間預言した。その間、BC586年のユダ王国の滅びを目撃し、自分の預言の成就も経験した。
彼は若者に過ぎないといってはならないと言われ、また神の言葉である彼の言葉により、国が滅び、或いは、立つとも言われている。あめんどうの木は他の木に先立って、花を咲かせるが、そのように、神は目ざめ、見張っておられ、ことをなそうとしておられるのである。
“私たちも神の召しに答える者とし、神がみわざをなそうとしておられるのを信じさせて下さい。アーメン”
 

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2008年10月18日(土) 聖書の箇所:エレミヤ書 2章1〜37節/ 年間通読:エレミヤ 4〜5章
「生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。」(13節)
  北イスラエルも含め、イスラエル全体に対する罪が指摘される。それはまことの神を捨てて、神ならぬ偶像に頼ったと言うことである。それ故、煮え立っている鍋(エレミヤ1:13)に喩えられている偶像の民バビロンが責めてきて、さばきを与えると言うことである。
私たちクリスチャンも、この世のものに引かれ、御言葉から離れ、祈りを疎かにし、教会の集会に出席しないでいるとしたら、イスラエルと同じ罪を犯していることになるのである。警戒が必要である。
“まことの神からはなれて、この世のものに、惑わされないようにして下さい。アーメン”
 

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2008年10月19日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ書 3章1〜25節 / 年間通読:エレミヤ 6〜7章
「背信の子どもたちよ、帰れ。わたしはあなた方の背信をいやす。」(22節)
  ここでもユダの偶像礼拝の罪が指摘される。むしろ、既に滅ぼされている北イスラエルの方が罪は軽いとも言われている。ユダは、ヨシヤ王の時代(BC640〜609)に、宗教改革を経験したけれど、それは、表面的で、反って、前よりも悪くなった。
だから、背信のイスラエル、不信のユダと言って、区別されている。そして、既に滅ぼされている北イスラエルが回復される時が来ることが預言されている。しかし、回復されるためには、罪を認め、罪を悔い改めることが大切である。
“神さま、あなたから、離れてしまっている方が、あなたに帰るようにして下さい。アーメン”
 

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2008年10月20日(月) 聖書の箇所:エレミヤ書 4章1〜31節/ 年間通読:エレミヤ書8〜10章
「エルサレムよ、あなたの心の悪を洗い清めよ、そうするならば救われる。」(14節)
  1〜2にはイスラエルが神に帰り、生きておられる神を信じるなら、イスラエルは万国の民の祝福となり、誇りとなることが言われている。一方、エルサレムの滅びが告げられる。エレミヤは「わがはらわたよ、わがはらわたよ」と言って、その滅びに対する痛みと苦しみを吐露している。
しかし、この滅びは、必ず実行されるのである。偶像を拝んだが故に、その偶像の民によって助けられるのでなく、その偶像の民によって、容赦なく滅ぼされるのである。
“神さま、怒るときにも憐れみを忘れないで、悔い改めさせて下さい。アーメン”
 

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2008年10月21日(火) 聖書の箇所:エレミヤ書 5章1〜31節/ 年間通読:エレミヤ書11〜13章
「公平を行い、真実を求めるものが、ひとりでもあるか捜してみよ。あればわたしはエルサレムをゆるす。」(1節)
  エルサレムの町にひとりも公平を行い、真実を求めるものがいないがゆえに、エルサレムは罰せられ、滅ぼされるのである。しかし、「わたしはことごとくは滅ぼさない」とも言われている(18節)。ここに、神の憐れみによる回復の可能性が言われている。
ひとりの正しい人があればゆるすということに、測り知ることのできない愛と、ひとりの正しい人の価値を知ることができる。
“神さま、主によって義とされる者の素晴らしさと価値を知る者として下さい。アーメン”
 

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2008年10月22日(水) 聖書の箇所:エレミヤ書 6章1〜30節/ 年間通読:エレミヤ書14〜16章
「わたしはあなたを民のうちに立てて、ためす者、試みる者とした。」(27節)
  エルサレムの民は神さまの言葉に気をつけず、神さまのおきてを捨てたから災いが降るのである。私たちも同じである。神の御言葉に従わないなら、滅び以外ないのである。私たちはエレミヤのように、どのような中でも、神に従い、キリストを証しする者となりたいものである。
ところで神さまのエルサレムに対するさばきは激しい、耐えられないものであるが、捨てられた銀(30節)のように、神の民としての、尊厳と素晴らしさは残されているのである。
“神さま、私たちが日々に、あなたの御言葉によって養われ、従う者として下さい。アーメン”
 

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2008年10月23日(木) 聖書の箇所:エレミヤ書 7章1〜34節/ 年間通読:エレミヤ書17〜19章
「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」(23節)
  神の宮にきて「我々は救われた」といいながら神の戒めに、従わないでいる民に対し、シロの神殿が壊されたようにすることが言われる。繰り返し、繰り返し、民の罪が指摘され、エレミヤに対しては、「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆き祈ってはならない。またわたしに、とりなしをしてはならない」とまで言われる。
彼らに対する、神の怒りが、余りにも大きく、消されることがないために、神が祈りを聞かれないためである。
“神さま、あなたから祈らないようにという前に、人々が悔い改めるようにして下さい。アーメン”
 

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2008年10月24日(金) 聖書の箇所:エレミヤ書 8章1〜22節/ 年間通読:エレミヤ書20〜22章
「わが嘆きはいやしがたく、わが心はうちに悩む。」(18節)
  これは、神さまが言われた言葉である。このような言葉を、エレミヤに言わなければならなかった神さまの心中は、いかなるものであったのだろう。人々は偽預言者の言葉に耳を傾け、神の言葉を自分勝手に解釈して、神さまに従っているつもりになっていた。また、神さまを離れ、偶像礼拝に陥っていた。
 このようなことは、神さまを怒らせることであった。いや、それ以上に、神さまを悲しませ、嘆かせることであった。神さまのほうが、心を痛ませたのだ。
“神さま、神さまを悲しませる悪から、私を遠ざけてください。アーメン”
 

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2008年10月25日(土) 聖書の箇所:エレミヤ書 9章1〜26節/ 年間通読:エレミヤ書23〜25章
「誇る者はこれを誇りとせよ。」(24節)
  私たちの誇るべきものは、知恵や、力や、富ではない。ただ、これらを頂いている者は、それを感謝して受け取ればよい。 私たちの誇るべきもの。それは、神さまを知っているということ…、ただそれだけだ。神さまが、地上にいつくしみと公平と正義を行なわれる「お方」であることを知っていることだ。
神さまの御働き以上に、神さまがどういう「お方」か、そのご人格を知っているということこそが、私たちの誇るべきことなのである。
“神さま、今よりもっと深く「あなた御自身を」知ることができますように。アーメン”
 

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2008年10月26日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ書 10章1〜25節
年間通読:エレミヤ書26〜28章
「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。」(23節)
  自分の無力さを感じたことがあるだろうか。罪に対する無力さを「わかっちゃいるけど(わかっているけれど)、やめられない。」痛い目にでもあわないと、いや、痛い目にあってさえ、罪の中から這い出せないこともある。
そのような時にこそ、キリストを仰ぎたいものだ。聖霊の助けを求めたいものだ。この神さまは、私たちを罪から解放できるお方なのだから。 
“神さま。聖霊の助けを下さい。罪の道でなく、義の道を歩ませて下さい。アーメン”
 

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2008年10月27日(月) 聖書の箇所:エレミヤ書 11章1〜23節/ 年間通読:エレミヤ29〜30章
「この契約の言葉に従わない人は、のろわれる。」(3節)
  この契約とは、出エジプトの時に、神さまがイスラエルの民と約束されたものであった。ごく簡単に言えば、「十戒」に代表される律法を守るならば、神さまがイスラエルの民を、ご自分の民として守り、祝福するというものであった。
しかし、それを破るなら、のろいを与えると。今、まさに、人々は神に背き、のろいを受けるばかりとなってしまった。だからこそ、イエスさまの十字架の血潮による新しい契約が必要であったのだ。
“神さま、イエスさまの十字架により救いの道を備えてくださり感謝します。アーメン”
 

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2008年10月28日(火) 聖書の箇所:エレミヤ書 12章1〜17節/ 年間通読:エレミヤ31〜32章
「わたしの心があなたに対していかにあるかを試みられます。」(3節)
  「悪人の道がさかえ、不真実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。」(1節後半)との問いは興味深い。その答えが3節である。悪人たちは確かに栄えているのだが、心は神さまから離れている。
口、形式では神さまに近づくが、心が離れているのだ。世的に成功し、繁栄していくことも、確かに素晴らしい。けれども、心が神に向けられ、神と共にあることは、もっと素晴らしいのではないだろうか。
“神さま、私の心をもう一度、点検して下さい。あなたに近くいることができますように。アーメン”
 

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2008年10月29日(水) 聖書の箇所:エレミヤ書 13章1〜27節/ 年間通読:エレミヤ33〜35章
「わたしの魂はひそかな所で、あなたがたの高ぶりのために悲しむ。」(17節)
  これは、エレミヤの言葉である。涙の預言者、エレミヤの悲しむ様子が、目に浮かぶようである。神さまがイスラエルの罪の姿に悲しまれたように、エレミヤも悲しんだのだ。そして、涙を流したのだ。
私たちは、神さまに対して背き、滅び行く者のために、涙を流し、祈ることができるだろうか。私たちも、まず、へりくだって、滅び行く者のために執り成す者として、あらせて頂こうではないか。
“神さま、私も、周りの人々の救いのために祈ることができる者として下さい。アーメン”
 

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2008年10月30日(木) 聖書の箇所:エレミヤ書 14章1〜22節/ 年間通読:エレミヤ36〜38章
「われわれの待ち望むのはあなたです。」(22節)
  14章には、エレミヤの祈りがちりばめられている。神さまの前に罪を認め、神さまのあわれみを求めている祈りだ。
神さまは「この民のために…祈ってはならない。」(11節)とおっしゃるが、祈らずにはおれなかったのであろう。祈りによる神さまとの駆け引きが、ここでなされているのではなかろうか。
私たちは、ただ神さまにあわれみを求めることしかできないが、言い方を変えるなら、あわれみを求めることができるのだ。
“すべてを支配している神さま、私の家庭で、職場で、地域で、あなたの御名が崇められますよう。アーメン”
 

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2008年10月31日(金) 聖書の箇所:エレミヤ書 15章1〜21節/ 年間通読:エレミヤ39〜42章
「もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。」(19節)
  「わたしは御言葉を与えられて、それを食べました。」(16節)とある通り、エレミヤは神の御言葉を与えられて、それを人々に語り、偶像に仕える民のために祈り、徹底したさばきを警告してきた。
その為に、自分が生まれて来たことすら嫌がる(10節)ほどの厳しい迫害にあったが、神はつまらない自分のことをいうのをやめて、神の言葉を語るように、言われた。
“厳しい迫害や試練の中でも、不平不満を言わずに、従順であらせて下さい。アーメン”
 

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